番狂わせへの期待

ブログを書いているくせに、あまりインターネットで検索しない。必要がある時はもっぱら各種辞典で調べている。従来から仕事の現場ではよほどのことがないかぎり調べない。仕事の一つである講演や研修の最中に調べていたら奇妙である。オフィスにいても同じことだと思う。仕事とはアウトプットすることにほかならない。調査が本業でもないかぎり、仕事中にインプットしているようでは修行が足りぬ。なので、めったに調べものをしない。辞書類や参考文献は自宅のほうが充実している。インプットは人目につかぬようにするものだろう。

「番狂わせ」の語源が気になった。四の五の言わずにウィキペディアを手繰れば書いてあるのかもしれないが、こういうことに関してぼくはいささか保守的である。知らないことについて調べるのだから、当然初見の情報に出くわす。知らないのだから信憑性を問える力も資格もない。がせねたに騙されるかもしれない。同じ騙されるのなら、匿名的ウィキペディアよりも編集責任者が明記されている辞典類のほうがましである。「ウィキペディアにこう書いてあった」と紹介して間違っていたら恥さらしだが、「広辞苑によれば」と言っておけば、仮に怪しげなことが後々に判明しても、岩波書店の責任にしてしまえばよい。

と言うわけで、気になった「番狂わせ」を広辞苑で引いてみた。「①予想外の出来事で順番の狂うこと。②勝負事で予想外の結果が出ること」とあった。この程度の定義なら想定内、わざわざ調べるまでもなかった。関心はこの表現の語源なのだが、他の辞書でも見当たらない。いまこうしてブログを書きながら、画面の上のほうのグーグルバーで検索したら、さぞかし諸説がぞろぞろ出てくるだろうとは思う。だが、触手を伸ばさない。知らなければ知らないでいいのだ。知らなければ、脳トレを兼ねて類推すればいい。

広辞苑にもあるように、番狂わせの「番」は「しかるべき順番や順位」のことだろう。つまり、その順通りであることが秩序(または正統)、その順が狂うことが混沌(または異端)。ちなみに、英語では混沌・混乱のことを“upset”と言うが、まさにこの「アップセット」が、試合やゲームでの予想外の敗戦や結果を意味している。番狂わせとは、正統派にとっては「あってはならないことが起こってしまうこと」であり、異端分子にとっては「絶対にありえない功を成し遂げてしまうこと」なのである。


勝つことを絶対視されている側が、番狂わせに期待を抱くはずがない。番狂わせを歓迎するのは、負けて当たり前の弱者、愉快・痛快を求める傍観者、あるいは秩序崩壊によって利に浴することができるギャンブラーたちである。先のワールドカップでの番狂わせと言えば、スイス対スペインの試合が真っ先に浮かぶ。シュート24本を乱れ打ちしたスペインが0-1で敗北したあの試合である。そのスペインが優勝したのだから、たしかに大番狂わせのレッテルは正しい。あの試合の前に「番狂わせはない」と言えば、それは疑いもなくスペインがスイスに「万有引力の法則」ほど確実に勝つことを意味したはずだ。しかし、リンゴは木から落ちずに空へと上がってしまった。

実は、番狂わせはぼくたちの想像以上によく起こっている。なぜなら順番や順位や優劣評価が本来ファジーだからである。あるサッカー通が言った、「サッカーというのはそういうゲームなんだ。他のスポーツに比べて、番狂わせが起こりやすい」と。先日の日本対アルゼンチンもそうだったのか。と同時に、基礎体力もなくシュートも打たなければ番狂わせはありえないだろうとぼくは思うのだ。実際、スペインの3分の1ではあるが、スイスは8本もシュートを打ったのだ。そのうちの一本が決まったという次第である。

実社会での仕事の場面はスポーツ以上に状況が複雑である。だから、番狂わせの頻度が高まる。しかし、サッカーの「基礎体力とシュート」に相当するものを決定的に欠く弱者に番狂わせは絶対にやってこない。この二つに相当する資質だけはつねに磨いておかねばならないのだ。言うまでもなく、この二つは職業ごとに異なる。

ところで、番狂わせの概念などまったく持ち合わせていない、冷徹な存在がいる。彼にとっては番狂わせも何もない。ただひたすら勝つべき者が勝つと予告する。何を隠そう、あのドイツのタコ「パウル君」のことである。

自分ノートの価値

老子は言う。

「道はくうの器のようなもので、中身がない。中身が詰まってくると、機能が規定されて融通が利かなくなってくる」

これを少々牽強付会気味に用いると、何も書いていないノートがもっとも有用ということになってしまう。文字がびっしりと書き込まれたノートよりも、何も書かれていない真っ白なノートのほうが有用とは……。この発想をフォローするのは容易ではない。

今年は老子を再読し私塾でも取り上げて、少し理解を深めたところである。書くことやノートについて老子が直截的に語ったわけではない。しかし、空っぽ――あるいは空間――を哲学したパイオニアである老子が、「空の満に対する優位」を説いているのは間違いない。たしかに、空の可能性は満の可能性よりも大きい。タクシーが空車なら乗れるが、満車だと乗れない。空席があれば劇場に入れるが、満席なら入れない。自分視点に立てば、いずれも前者が有用ということになる。行列の並ぶ店は有用ではない!

老子には「柔弱の堅強に対する優位」という考え方もあって、強さをマイナスとして見る。ところが、別の章の一節では「(……)、柔を守るを強とう」とも言っている。おや、柔弱さを守るのが強さなら、結局は堅強のほうが強いのではないか。たしかに、この一文においてのみ、老子は強さをポジティブにとらえている。これはさておき、着目したいのは上記の「(……)、」の箇所だ。「小を見るを明とい、」とあって、「小さな物事をよく見定めるのが明知」という意味になる。小事をよく観察するのが知恵ならば、ノートの空白に小事を埋めるのもまんざら悪くはないような気がしてくる。


究極的に「道」なるものにかえる時、すべては無為で無用で空っぽになるのだろう。しかし、年齢不相応に未だ途上人である身にあっては、道は遠く険しい。ゆえに、日々ノートに小事や小知を綴る。文字がびっしりと埋まった一冊のノートを紛失したら、大いに困り大いに嘆くだろう。翻って、まだ一行も書いていないノートを失くして困ることはない。老子先生に逆らうつもりはないが、ぼくにとっては未使用のノートよりも手垢のついたノートのほうが有用なのは間違いない。

ここ数年使っているノートは主に文庫本型ノートで、定価は税込み147円と安価。一冊288ページのノートだ。しかし、紙の片面しか使わないから、144ページに記録していることになる。11テーマ主義ゆえ一冊だけで144の見出しがある。だいたい一日あたり2ページか3ページ書く。つまり、一冊二ヵ月のペース。このノートを新たに使い始めて一週間の時点では、ノートの大半は白紙だから、ぼくは白紙のノートを持ち運びしているようなものである。一ヵ月経ってもまだ半分が白紙だ。白紙は、書き込まれて未来には有用になるだろうが、現時点では無用である。

今のノートは812日から使い始め、あと一週間ほどで書き終わる。使い勝手のよい参照状態になってくれている。ぼくが紙の片面しか使わないのは、時折りノートを読み返しながら空けておいた対抗ページにひらめきや追加情報を書き込むため。つまり、ノートを使い込んでいくと同時に、ぼくは同数の空きページも用意している。あ、そうだ! これらの空きページは、後日有用への道に開かれているではないか! これがまさに空っぽの有用性か? ふ~む、老子は深い。

食べたり空を見上げたり

題材に困らない話と言えば、食事と天気である。なにしろ、ぼくたちは毎日何度か食べるし、よほどのことがないかぎり、日々天気予報を見聞きし空模様や暑さ寒さも気にする。一般の会話では、ごぶさたでも親しい相手には食、さほどでもない相手には天気が定番である。会話だけではなく、日記やブログにも当てはまる。マンネリさえ我慢すれば、この二つの話題については無尽蔵で書けるのだ。ただ、ブログだけに限定すると、毎度毎度同じような話を読まされたら読者は少しずつ離れていくだろう。

読者を想定しようとしまいと、マメでありさえすれば、誰にでも日々の食事内容と天気を徒然なるままに記録することができる。実際、かぎりなくこれに近いプロのエッセイストもいるのだ。但し、喫茶店でのモーニングを常食している場合、「今朝は、厚切りトーストにゆで卵、ホットコーヒー」と毎日同じことを書くことになる。これでは情けないと感じるだろう。そこで、一昨日ぼくが書いたように、お昼には時々ロコモコ丼やタコライスなどの「異変」を経験してネタづくりに励まねばならない。

いや、自分の食事の記録だけにこだわらなくてもいい方法がある。日々コメントに変化をつけることができ、なおかつ長続きする方法だ。手配りやポスティングされる店のチラシを捨てずに取っておき、精細に分析するのである。一ヵ月で何十枚ものチラシが手に入るから食のネタに事欠くことはない。店名、メニューと価格、店の雰囲気、チラシの文面・デザインなどの要素から一品一品の味を想像してみるのもよい。一年後には『チラシに見る料理店の魅力』と題した一冊の本が出来上がっているかもしれない。


昨日おもしろいものを見た。日曜が定休日らしきその店のシャッターに「カキフライ定食」と大きく書いた貼り紙がしてあった。二行目に「○○付き」と書いてある。さて、何と書いてあったか。定食なのだから、ライスや味噌汁やお新香などと念を入れるはずがない。「千切りキャベツとポテトサラダ付き」または「タルタルソース付き」はありそうだが、いずれもカキフライには黙ってセットされるものだろう。

実は、そこにはなんと「酢豚付き」と書いてあったのだ。「酢豚定食 カキフライ2個付き」ではなく。ぼくにとっては驚きの主客逆転情報である。ただ、時間が経って冷静に考えてみたら、原価や訴求面では「カキフライ定食 酢豚付き」としたくなる店側の趣向にも頷けた。これからが旬のカキを主とし、いつでも食べれる酢豚を客にするシナリオはありうる。

さて、次いで天気の話。体育の日の今朝、窓を開けて空を見上げると、抜けるような青が広がっていた。この空について、今日の天気について何を書くことができるか。天気模様を表現する語彙が比較的豊富な日本語だが、おおむね快晴、晴、曇、雨、雪があれば間に合い、たまに「時々」と「のち」で組み合わせれば済む。すぐに飽きてしまうので、天気についてもっと長く語ろうと風や気圧や波へと話題を広げる。とりわけ、気温を最高と最低で表現することによって天気の話がさらに膨らむ。

今夏のような酷暑が続けば、話し下手な人もネタに悩まない。天気がらみの話が周辺で飛び交い、どこに出掛けても「暑さ」が会話の主役であった。気象予報士にとってやりがいのある夏だったに違いない。ところで、「平年に比べて明日は……」と彼らは頻繁に言う。「明日は平年に比べて蒸し暑いでしょう」と予報してもらっても、あまり参考にはならない。なぜなら過去30年の平均値である平年の温度などアタマも身体も覚えていないからだ。「今日に比べて明日は……」だけでいいと思うが、どうだろう。

「お昼」に思うこと

「お昼に行ってきます」と言う。それに対して「お昼になど行かなくても、毎日お昼のほうからやって来るじゃないか」と返されたら……。返した相手は無粋かバカか、あるいはジョーク好きのいずれかなのだろうが、下手をすると、あなたも無愛想かバカらしいという顔をするか、あるいは(ジョークがわからずに)ポカンとした反応を示すかもしれない。この種の返しは、受け止めるのも受け流すのもむずかしいセリフなのである。

仕事の合間に「お昼に行く」と告げるときの「お昼」。それは十中八九お昼ごはんであり、外でランチを食べてくるという意味であって、朝昼晩なる分節のうちの午後の早い時間帯のことではない。不思議なことに、朝ごはんを「お朝」などとは言わないことになっている。喫茶店のモーニングの名称にあってもよさそうだが、少なくとも半世紀以上生きてきて一度も耳にしたことがない。同様に、夕食や晩餐を「お夕」と言わない。御番菜おばんざいはあっても「お晩」はない。「今夜はみんなでお晩に行くか」もまんざら悪くないが、他意や含みも多すぎる。

昼間に自宅にいない、そして弁当を持っていない、さらに空腹であるという三つの条件が揃えば、弁当を買ってくるか店に食べに行くかのどちらかが必然。そして、どちらにしても、選択の岐路に立つことになる。ぼくのオフィス近くの「弁当デフレ戦争」は日を追って凄まじさを増している。弁当を買ってきてオフィスで食べることはめったにないが、お昼に歩いてみると、店先はもちろん、道路側にもにわかテントとワゴンが並び、なんと280円から500円の価格のメニューで通行人を奪い合う。


オフィス近くに半年前にオープンした台湾料理の店。昼はにぎわい、夜もまずまず。お昼のメニューは十数種類あって、どれもボリュームたっぷりだ。このボリュームたっぷりは大いに歓迎すべきだが、減量作戦中のぼくには悩ましい。ゆえに、単品にするか、定食にしてご飯少なめにする。この店に酢豚定食はないが、昼遅めに行って客が退いていたら、特注できる。毎日のランチのことだ、偏らないようにしようと思えば、具材が比較的豊富な中華料理が週に二回くらいになってしまう。

それと言うのも、和食店が頼りなくなったからである。正確に言えば、和食店であろうと何店であろうと、メニューがめっきり洋風に画一化してしまったのだ。寿司と魚料理に特化していない店では、肉が魚と野菜に代わって主役に躍り出ている。定食で目立つのはトンカツ、豚の生姜焼き、唐揚、ミックスフライ。これに最近では、熟年泣かせのロコモコ丼にタコライスである。「何だ、これは!?」と思いつつ、無下にせずにそれぞれ一度だけ試してみた。結論だけ言えば、ロコモコよりは卵かけご飯、タコライスよりはちらし寿司のほうがいい。

ランチにアボガド丼を出す店があるが、いくらダイエット向きヘルシー食と言われようが、遠慮する。念のために書くが、ぼくは何でも食べる。好物はあるが、これはダメというのはない。しかし、まずまずの選択肢があれば、アボガド丼を指名しない。まぐろアボガド丼というのも見かけたが、アボガド抜きのほうがよろしい。ぜひお昼にはちゃんとした和定食も用意してほしいものだ。もちろん、これはぼくの個人的な思いである。実は、お昼にちゃんとした和食を出していた店はことごとく閉店に追い込まれて、代替わりしてしまったのだ。新しくオープンした店はおおむねグリル系メニューか創作系折衷メニューを指向する。少々侘しく寂しいが、現代日本人の食性を反映しているのだからやむをえない。

人間の二極的類型論

難解な話を書くつもりはない。「人間の二つのタイプ」や「二種類の人間」と書いたのだが、どうもしっくりこないので、いろいろと表現をいじっていたら、やがて「人間の二極的類型論」がぼくの意図に近く、難しそうには見えるけれども、すわりが良さそうなのでこのタイトルに落ち着いたまでである。

人間を血液型で分類すれば4つのタイプになり、星座や誕生月で分ければ12種類になる。では、2種類に分けるとどうなるか。「そりゃ、男と女でしょう」というつぶやきも聞こえるし、「善人と悪人で決まり」という強い主張もありそうだ。「イヌ型とネコ型」と分けてもいいかもしれない。こんなことを考えたのはほかでもない。自分の企画力研修のテキストを見直していて、「情報編集と分類」という章の冒頭に差し掛かった時、気になってしまったのである。そこにはこう書いている。

世の中には二つの人種がいるというジョークがある。曰く、「ものを分ける人」と「ものを分けない人」である。前者を「分別派」、後者を「無分別派」と呼んでもいい。

この種のジョークはだいたいユダヤのそれである。このジョークを作った人間は間違いなく「ものを分ける人」だったのだろう。いずれにせよ、三つ以上には分類根拠が求められそうだが、二つのタイプに分けるのなら何でもありのように思える。たとえば、「調べもの好きには2種類の人間がいる。インターネットで検索する人と書物で検索する人である」。さらに、「インターネット検索にあたって二つのタイプの人間がいる。Googleで検索する人とそれ以外のサーチエンジンを使う人」もありうる。


しばし前者のタイプの人間になって、試みにGoogleで「人間の二つのタイプ」と入力して検索した。すると、「自分のやりたいことを誰かに許可されるのを待っている人たちと、自分自身で許可する人たち」というのが出てきた。なるほど。やっぱりどんな分け方もありうる。そして、二つというのはもっとも極端な分類だから、分類者の視点を色濃く反映するのである。「大きな称賛が与えられたと時、はにかむ人とますます厚かましくなる人がいる」というニーチェのことばがあるが、これなどもニーチェ自身の体験に根ざして絞り出されたに違いない。目障りなほどとても厚かましい奴がきっと近くにいたのだろう。

愉快が好きなので、ジョークがらみで人間を両極に類型することがある。たとえば「ジョークで笑わせる人とジョークで笑わされる人」、あるいは「つまらないジョークを放つ人とそれを聞かされる人」。だいたい役割は決まっている。グループがあれば、ジョークの話し手と聞き手がだいたい二分される。しかし、実際は、ジョークの一つも言えない人は他人のジョークにも笑えないものだ(笑えないから笑う振りをする)。すなわち、聞き手側はさらに、ジョークの分かる人と分からない人に二分されるのである。

最近ぼくがよく用いるのが「機関車人間と客車人間」もしくは「自力人と他力人」である。どれだけ燃料を補給してもエンジンを積んでいなければ動きたくても動けない。つまり、学んでも学んでも自ら思考しなければ行動が伴わないのである。客車は何輌つないでも動かない。機関車はどんなにちっぽけでも動く。装いだけ立派なグリーン車のような客車人間が最近とみに目立つが、いつも機関車に引っ張ってもらうのを待っている様子である。

このように二極的に人間を類型してみるとおもしろいことが見えてくる。現在の自分がいったいどっちの極にいるのか、心底なろうと思っているタイプと今の自分は一致しているのか違うのか。案外、正道ではなく邪道を選ぶような、辻褄の合わない類型のほうに傾きそうな危うさに気づくかもしれない。こっちがいいという気持に忠実な選択をするのは簡単そうで、実はとても難しいと思う。

地下鉄線に沿って

「へぇ、こんなものがあるのか」と驚いた。

大阪市外に住んだ時期も二十数年ほどあったが、ほんの数年間を除けばつねに大阪市内で働いていた。仕事は転々としたが、いつも市内の職場に通っていた。今は職住ともに大阪市中央区。自宅と職場は徒歩15分足らずなので、勤務に地下鉄は使っていない。数年前までは地下鉄に必ず乗っていたし、ライフスタイルは車を持たない主義なので、どこかへ行くとなれば最寄の地下鉄駅が起点になる。近くを谷町線、堺筋線、鶴見緑地線という三つの地下鉄が走り、自宅から徒歩5分圏内にそれぞれの路線の駅がある。

地下鉄をよく利用してきたし詳しいつもりでいた。だが、初めてそれを見て少し驚いた。「それ」とは、大阪市交通局が発行する『ノッテ オリテ』9月号。漫才師のような雑誌名だ。隔月刊のフリーマガジンらしいが、こんなものがあるとはまったく知らなかったのである。手にした9月号では「大阪旅 坂の町をゆく」と題した特集を編んでいて、上町、七坂、天王寺の風景が紹介されている。しょっちゅう散歩しているなじみの街並みだ。

大阪城から南方面に広がる一帯が高台の上町台地。山あり谷ありは大げさだとしても、起伏があるので坂の多い光景を呈している。天満橋てんまばしにあるぼくのオフィスのすぐそばを谷町筋が通り、大川の手前、土佐堀通とさぼりどおりの南側の傾斜が大阪の由来になった坂と言われている(大阪はかつて大坂、つまり「大きな坂」だった)。上町から見れば谷町たにまちは「谷」だから、狭い街中にあって高低感をよく表わす地名になっている。

さて、交通局が発行するその雑誌。巻頭に若手作家の万城目学まきめまなぶが『谷町線おもいで語り』と題してエッセイを書いている。谷町九丁目に住んでいた話、天満橋の小学校へ地下鉄で通っていた話、谷町線特有の紫のラインカラーの話などを懐かしく綴っている。次のくだりを読んで、思わずにんまりとしてしまった。

「(……)これまで数えきれぬほどの難解な漢字の組み合わせを見聞きしてきたであろうに、『いちばん難しい漢字四文字の組み合わせを答えよ』と問いかけられたなら、反射的に『喜連瓜破』の四文字が浮かぶ(……)」


ありきたりの文章だ。この文章に対して思わずにんまりしているのではない。「きれうりわり」と読ませる四文字の響きがたまらないのである。ここには何とも言えない、また知らない人には説明のしようのないおかしみがこもっている。喜連瓜破は、おそらく商売繁盛と並ぶほどの、大阪色たっぷりな四字熟語なのである。ちなみに、喜連瓜破は地下鉄谷町線の駅名の一つ。そして、この谷町線は、珍しいほど路線をくねらせて走っている。

谷町線を南から北へと辿ってみよう。八尾南やおみなみ長原ながはら出戸でとへと上がり、喜連瓜破きれうりわりで西へと向きを変え、平野ひらの駒川中野こまがわなかの(この近くに大学生頃まで住んでいた)、田辺たなべふみさと阿倍野あべの天王寺てんのうじへと達する。ここで再び北へと進路をとり、四天王寺前夕陽ヶ丘してんのうじまえゆうひがおか、谷町九丁目、谷町六丁目、谷町四丁目とくどい駅名が続き、天満橋へ。ここからまた西へ向き、南森町みなみもりまちを経て、息つく暇もなく、東梅田ひがしうめだ中崎町なかざきちょうと北上。天神橋筋てんじんばしすじ六丁目(日本最長で有名な商店街の最北地点)からは東へと走り、都島みやこじま野江内代のえうちんだい関目高殿せきめたかどの千林大宮せんばやしおおみや太子橋今市たいしばしいまいち守口もりぐち、そして終点の大日だいにちへと到る。実に四文字の駅名が五つもある。


喜連瓜破の他にも、生粋の大阪人が「おかしみのツボ」に嵌まる地名がある。さしずめ放出はなてん杭全くまた天下茶屋てんがちゃやはトップブランドだろう。「どうしておかしいのですか?」と他府県びとに聞かれても困る。おそらく語感と場所柄のイメージが複雑に絡み合ってそうなったはず。とにかく、これらの地名が脳内に響いただけで鼻から漏れそうな笑いの息をこらえたり実際に笑ってしまったりする人たちが少なからずいる。なお、今日の夕方、ぼくはさっき紹介した関目高殿で講演をおこなうが、一つ手前の駅の野江内代がちょっとやばい空気を醸し出しているのに気づいた。要注意だ。要注意とは、地下鉄の電車内で一人にんまりとすることへの警鐘という意味である。

消極的な選択

「高度情報化」には少々古めかしい響きを感じるようになったが、相変わらず油断も隙もない現象である。あっという間に話題やニュースを次から次へと急流に乗せて記憶の彼方へと追いやってしまう。もちろん、尖閣諸島問題のようなこじれた事件は日々更新されるので、日中関係という大きな水脈でとらえることはできる。しかし、国内の政治経済的な事柄は、たとえそれがマクロ的な類であっても、喉元過ぎれば何とやらの様相を呈する。

「消極的な選択」が取りざたされてからまだ一ヵ月も経っていない。にもかかわらず、ぼくがその話を持ちかけても周囲の誰も反応しなくなった。いや、反応どころか、すっかり忘れてしまっている。はるか遠い昔の思い出ですらかすかに再生できるというのに、つい先日の一件に対して「そんな話、あったっけ?」という具合なのである。

菅直人が民主党の代表に再選されてから今日で丸三週間が過ぎた。選挙の翌日、一部の新聞が「菅直人再選は消極的な選択」と書き、この論調を真似たのかどうか知らないが、テレビの報道でも同様のコメントが繰り返された。党員もサポーターも、地方議員も国会議員も、菅直人の支持者はみんな「やむなく投票」した、という主張である。これを「小沢一郎に対する積極的な拒否の裏返し」と分析していた紙面もあった。マスコミが事前におこなった世論調査も「菅のほうがまし」という結果だったのか。


ちょっと待てよ、とぼくは立ち止まる。消極的な選択に何か問題でもあるのだろうか。ぼくたちがやむなく――場合によっては、嫌々――何事かを決めるのは、なにも民主党の代表選に限った話ではない。ぼく自身の過去の投票実態を振り返ってみれば、積極的に選択したケースは圧倒的に少ないことがわかる。選挙を棄権すべきではないと殊勝な心掛けをしているので、選挙当日に投票会場に行くか期日前に投票を済ませる。そして、ほとんどの場合、消去法的に候補者を選んできた。

考えてみれば、そんなものなのである。自分が理想とする候補者がそこらじゅうにいるわけがないのだ。市長選や知事選になれば選択肢も減る。この人でなければいかんと言い得るのは後援団体に属する熱烈なシンパだからであって、無党派であれ特定の党の支持者であれ、平均的な有権者はたいていの場合、消極的な選択をしていると思われる。「五十歩百歩だが、それなら百歩のほうを選んでおくか」という決め方がだいたいの相場なのではないか。仕事上の決断でも、そんな選択が少なくない。

腹が減ったが、時間がない。後先考えずに飛び込んだ店のランチが三種類。解凍系のコロッケ定食に旬外れの煮魚定食、それに昨日も食べた豚の生姜焼き定食。こんなとき、入った手前、Uターンして出るに出れず、不承不承席に着いて「一番悪くなさそうなランチ」を消極的に選択するではないか。実際、そんな店で「ふ~ん」とため息ついて、「コロッケ定食でいいや、、、」と注文している客が案外多いのである。明らかに積極性はない。

それで、何か都合が悪いのだろうか。ぼくたちの日々の意思決定では諸手を上げて賛成という場面のほうがむしろ少ないのだ。とびきりの高望みをしているわけではないのに、やっぱりぼくたちにはそれなりの理想像があるし、あってしかるべきだろう。その理想像にぴったりの人物や食事に頻繁に出合えるものではない。居直るつもりはないが、消極的選択でいいのである。少なくともそれは拒絶ではなく、選択なのだから。 

表記と可読性の関係

何年か前の手書きノートを、脳内攪拌のつもりで時折り読み返す。同じく、一年前か半年前の自分の公開ブログを気まぐれに読む。近過去への郷愁からでもなければ、強度のナルシズムに酔うためでもない。この十年や数年というスパンでとらえてみれば、自分の思考軸の大きな傾きはよくわかっている。しかし、ほんの一年や半年となると、小さくてゆるやかな変化や変形には気づきにくいものだ。こんなとき、書いたものを振り返るのが一番よい気づきになってくれる。

虚々実々的に、何がホンネで何がタテマエかがわからぬまま適当に自分の考えを綴ることはめったにない。ぼくは遊び心で書くことが多いが、それはフィクションという形を取らない。どんな演出を凝らそうと、愚直なまでにホンネを書く。これが一部の読者に毒性の強い印象を与えているのは否めないが、今と過去のある時点との考え方の変化を知るうえで、自分自身で書いたものが恰好の証拠になってくれている。

昨日から遡ること、ちょうど半年前のブログでぼくはパラグラフ感覚と文章スタイルについて書いていた。二十代に刷り込み、強く意識してきた型を今も踏襲していると思っていたが、半年前のその記事を読んで、「いや、現在はここまで頑なではないだろう」と思った。実は、この半年でだいぶ型が崩れてきているのである。正確に言うと、ぼく自身はジャーナリストでもないわけだし、スタイルや表記の統一性に特に神経質になる必要はないと思い直して、型の崩れを気にしなくなったのだ。


かつてぼくは異様なほど表記の統一にこだわった。二冊の拙著でもそうだった。「わかる」と「分かる」の両方を使わないよう「わかる」に統一し、「……に限る」では漢字を使うが「かぎりなく……」はひらがなにするなど、随所で表記に神経を使った。かつては「言葉」と書くことが多かったが、いつ頃からか「ことば」とひらがなで書くことにこだわった。もし読んだ本から文章を引くとき、そこに「分かる」「限りなく」「言葉」と書かれていたら、そのまま正確に引用はするが、引用文を敷衍して自分が書く本文では表記を自分流に戻す。徹底してそうしていた。

ところが、遅ればせながらと言うべきか、最近は変わってきたのだ。気の向くままに――と言うよりも前後の語句との相性に目配りしたりもして――たとえば「いま」と書いたり「今」と書いたりすればいいではないか、などと思うようになった。表記よりも漢字の量や意味の硬軟、つまり可読性を重視すべきだろうと考えるのである。何十行前か何日前か何年前か知らないが、先にこれこれの表記をしたから今回も同じ表記をしなければならないという理由などない。このように、半年間で融通のある表記へと転向したきっかけはよくわからない。読み手への配慮からか、表記統一が面倒になったからか? もしかすると、酷暑のせいかもしれない。

先月末、ヤフーのトップ画面のトピックスに、「樽床議員に2社使いう回献金か」とあった。目は「使いう」という、変な箇所で分節してフリーズした。まさか「回献金」? こんなことばは見たことも聞いたこともない。数秒後には「2社使い、う回」と切って「迂回」が見えたので、意味がわかった。ここは「迂回」が読めなくても「う回」などという交ぜ書きすべきではないだろう。ついでに語順も変えて、「二社使い樽床議員に迂回献金か」とするほうが見やすく読みやすい。その時々の文章の可読性を優先して、表記を考えればいいのである。

メッセージを読む

今日の夕方は、去る87日以来の会読会である。参加予定は12名。全員が発表して少し意見を交えていると、あっという間に2時間やそこらが過ぎてしまう。読書の会だけにかぎらない。普段の会議でも打ち合わせでも、ことばをしっかりと駆使せねばならないときは、時間もエネルギーも大いに消費する。まさに言語行為は肉体的であり精神的だ。真剣に挑んだあとは心身ともに疲れ切っている。

ご存知のように書物には著者紹介欄がある。表紙裏や奥付の上覧や背表紙にプロフィールが載る。著者名もなくプロフィールもない本をぼくは読んだことがないが、少し想像してみよう。誰が書いたかわからない本。和歌では詠み人知らずはあるが、本ではないだろう。いや、無名な人たちが書いた文集を集めたものはある。あるにはあるが、「○○新聞文化部編」とか「□□の会編」などの編者が示されている。実名もなく仮名もなく匿名もない、著者名不在の本。雑誌やインターネット上の記事ならともかく、そんな、たとえば200ページくらいの本をぼくたちは懸命に読めるだろうか。

次の文章を読んであなたはどう感じて、どう評価するだろうか。

旅を楽しもう目的地は最重要ではない。一番たいせつなのは目的地に到達しようとする過程である。『目的地に行ければ幸せになるだろうな』とわたしたちは考える。だが、ふつうそうはならない。ゴールを定めることは重要だが、もっとも重要なのはゴールを達成することではなく、ゴールを目指す過程を楽しむことなのである。


「いいメッセージだ、誰が言ったか知らないが、共感する」、あるいは「つまらん、誰が言ったか知らないが、反対だ」とあなたは言いえるか。発信元不明のまま――権威筋であれ近所のぐうたらオヤジであれ――あなたは共感または拒絶の評価を下せるか。ぼくたちはことばによるメッセージに感動したり説得されたりするが、実はそこに発信者が誰なのかがわかっている状況がある。人の気分を強く支配するのは、メッセージそのものよりもむしろ、たとえば誰がどんな調子でそれを言ったかのほうなのである。そのくせに、発信者が定かでないインターネット上の情報につい信頼を置くという身勝手をしてしまう。

先の文章は、The Only 127 Things You Need―-A Guide to Life’s Essentials”からの引用(ぼくが訳したもの)。昨年渡米した折りに買った。未翻訳本だと思うが、直訳すれば『あなたに必要なたった127のこと――人生のエッセンスガイド』というような題名だ。ドンナ・ウィルキンソンという女性が著した本で、各界の著名人にインタビューし、健康から生き方に至るまでのメッセージを紹介し説明している。著者のキャリアやプロフィールと無関係に、あるいは当該文章がドクター何某という人物の言であることを知らずに、純粋にメッセージの意味と対峙するのは至難の業だ。

読書とはまさにかくのごとし。本の中身だけでなく、発信者のキャリア、権威、人格などを知らず知らずに読み込んでいる。同じメッセージでも、ニーチェが言ったか憎い知人が言ったかで響き方が変わるのだ。これが人間の本性。だからと言って、やむをえないというつもりはない。それはそれとして、付帯状況や背景にとらわれずにメッセージのみをじっくりと読んでやるという意地か抵抗を見せたいと思う。

ちなみにぼくは上記の引用文に大いに共感した。実際にそこで書かれている考え方を実践しているから。同時に、たとえば「成功とは旅である。目的地ではない」(ベン・スイートランド)ということばを覚えていて、二重写しのように読めた。このように、メッセージを読むことには、多分に読む側の知の都合が働くものなのである。

推論と「正答」について

「正答」という表現が妙に不思議に見えてくる。常識世界では〈11〉には一つの正答が存在する。正答のない問題を学校は出題しないし、また正答が複数あるような問題の採点に教師は苦労するだろう。極端なアマノジャクでないかぎり、〈112〉を認めざるをえない。だから、「11は?」と聞かれて「2」以外の答えを書いたら間違いとされる。

こんなふうにただ一つの答えを覚えたり導いたりする習慣を身につけてしまったのがわが国の大人たちだ。必然、「人生とは何か?」や「世界とは何か?」や「日本と中国の関係はどうあるべきか?」などにも唯一の正解が――自分のアタマで編み出されるのではなく、どこかにすでに――あるように錯覚してしまう。

一つの答えしかないという、学校時代と同じような場面は実社会ではめったに現われない。実社会ではふつう解は複数存在する。いや、解をどこかから探してくるというよりも、解を捻り出さねばならないのである(これは決断の一つ)。ある問いや課題を前に、ぼくたちはありったけの知識によって考え、何らかの答えを導く。このような導出は演繹的推論と呼ばれるが、答えは推論によって編み出される。自分の推論を他者に説得できれば、それがひとまず正解になのである(年初に正解創造について書いた)。

ところで、受講生の興味をくすぐるために、論理講座の冒頭でいくつかのクイズを出題することがある。以前、その一つに競馬の話があった(逢沢明著『論理力が身につく大人のクイズ』を参照してアレンジしたもの)。「アメリカの作家マーク・トウェインは、競馬を成立させているものは『これだ』と喝破した。いったい何が競馬を成立させているのだろうか?」という問いである。三択なのだが、選択肢を見ないでしばし考えていただきたい。


この問いは正解を求めているのではない。もとより正解など誰も決めることはできないし、仮に決めるにしてもたった一つではないだろう。ごく常識的に考えれば、競馬は馬、競馬場、調教師、騎手、厩務員、馬産地、馬主、競馬ファン、血統……など長いリストの複合要因で成り立っている。したがって、上記の問いがぼくたちに期待するのは、マーク・トウェイン自身が想定した競馬成立要因の最たるものを推論することである。では、もったいぶらずに三択を示すことにしよう。

競馬を成立させているのは、意見の相違だ。

競馬を成立させているのは、強欲な人間だ。

競馬を成立させているのは、勤勉な馬だ。

さあ、どれがマーク・トウェインの主張だったのだろうか(ちなみに、「辛辣な皮肉家マーク・トウェイン」と言っておけば、大勢が➁を選ぶようになる)。


まず、➂を検証してみよう。たとえば10頭の馬が走るレースの場合、ごく稀に同着があるものの、1着から10着までの着順が決まる。わが国には馬券の種類がいろいろあるが、いずれも3着までが配当対象。だから、1着、2着、3着さえはっきりすればいい。別に馬が勤勉だろうと怠けようと順位がつくのはほぼ間違いない。馬がまじめである必要などまったくないのである。

次に➁はどうか。これも強欲だろうが少欲だろうが無欲だろうがかまわない。馬券さえ買ってもらえればいいのである。本気か遊びかは問わない。

消去法的には、どうやら➀の「意見の相違」がマーク・トウェインの考えらしい。念のために推論してみよう。あるレースで馬券購入者全員がただ一頭の単勝馬券を買えば、的中しても儲けはなく、買った分だけの金額しか戻ってこない。これを「元返し」と呼ぶが、実際は馬券売上の25パーセントは控除され、残りの75パーセントが配当に振り分けられるので、もし全員的中などということがあれば、100円で的中しても75円しか返ってこないことになる(ぼくはこれ以上詳しくは知らない。そんなことが万が一あれば、主催者側は売上のすべてを還付するのかもしれない)。

もうお分かりだろう。競馬ファンにはそれぞれのお気に入りの馬や狙いの馬がいる。お気に入りと狙いが極端に集中した例としては、ディープインパクトの菊花賞での約80パーセントが記憶に新しいが、こんなケースは例外中の例外。そこそこ人気の馬でもめったに占有率50パーセントには届かないから、競馬ファンの意見は見事に分かれるようになっているのだ。すべてのレースでみんなが同じ馬券を買えば、競馬は破綻する。いや、運営する意味がなくなってしまう。意見の相違こそ競馬成立の要因なのである。

以上がぼくの推論である。三択でなければ、「競馬を成立させているものは、必勝法の不在」とぼくは答える。完全必勝法が誕生すれば、競馬は賭けの対象ではなくなるからだ。ともあれ、ぼくはこの問いを、民主主義と二重写しにして考える。「民主主義は意見の相違によって成り立っている」。