何杯のコーヒー?

以前、コーヒーに関するアンケートの中に「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という質問があった。これはよくない質問の代表例なので、論理思考の講義で取り上げたことがある。

「よく」というのが曲者の曖昧語だ。一日10杯なら「よく飲む」ということに誰も異論はないだろう。では、34杯ならどうか。よく飲むと言えそうだし、いや、その程度ならよく飲むレベルではないとも言えそうだ。まったく飲まないか、飲んでも12杯の人たちに囲まれていれば、34杯はよく飲む派に属する。他方、周囲も自分と同程度に飲んでいるなら、よく飲むと回答しないかもしれない。

調査というものに疎いので、集まったデータの生かし方がぼくにはよくわからない。アンケートを実施した当事者にはどんな人がどれだけコーヒーを飲んでいるのかというデータは役に立つのだろう。それなら、もう少し上手に問いを立てるべきだった。「よく飲みますか?」ではなくて、「一日に何杯飲みますか?」のほうがよかった。これでもなお、集まるデータの生かし方のイメージは依然湧かないが、少なくとも答える側は考え込まずに即答できる。

しっかり目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚かな者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。

『バール、コーヒー、イタリア人』(島村菜津)から引用した。哲学者ヴォルテール自身が綴った文章だから間違いはないのだろう。一日40杯は尋常ではない。と言うか、強度のコーヒー中毒である。ある本にはヴォルテールの一日の最高記録は72杯と書かれていた。呆れ果てるしかない。ヴォルテールの尺度に照らしてみれば、この世の中にコーヒーをよく飲む人などは存在しないことになる。


ベートーベンは日に5杯程度らしかったが、一つのこだわりがあった。一杯のコーヒーに使う豆を60粒と決めていたのである。この数が多いのか少ないのか、ぼくにはわからない。なにしろ挽く前に豆を数えたことなどないから。実は、これで出来上がりはやや薄めになるそうである。それにしても、飲むたびに60粒をきちんと数えたベートーベンに愚直なマニアの姿が重なる。コーヒーの愛好家はおおむね精度にうるさい。大げさに言えば、煎る時間や淹れる時間には秒単位で、湯温には1℃単位でこだわるのだ。

さて、ぼく自身は何杯飲んでいるのだろうか。あらためて振り返ってみた。多い日で5杯。朝の1杯だけという日もある。平均すると3杯というところか。目新しいカフェに足を運んでコーヒーの話をたまに書いたりもするけれど、豆をセレクトし焙煎する側に立てる身ではなく、あくまでも自前で挽いては淹れて飲むアマチュアである。もちろん、もっとおいしく飲むヒントはつねに求めているし、同じ飲むなら少し知識があるほうがいいと思っている。しかし、コーヒーにうるさい知人の凝りようを見ていると、ぼくなどはほんの少し味がわかる消費者に過ぎない。

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日課のように飲むコーヒーもあれば、なにげなく飲むコーヒーもある。その気はなかったが、縁あって飲むコーヒーもある。アンケートを取る人やヴォルテールには申し訳ないが、何杯飲むか、何杯飲んだかなどはどうでもいい。何杯も飲むことを前提にした飲み方ではなく、できれば「一杯一会いっぱいいちえ」とでも言うべき至福を喫してみたいと思う。同じ種類のコーヒーだけを飲み続けて香味の深遠に到るもよし、何種類かの豆を蓄えておいて飲み比べするもよし。後日に思い出せるような印象深い一杯をどう飲むかに意味を見出したい。

ところで、ぼくが思い出す一杯のコーヒーのほとんどは、ベートーベンの好んだのとは違って、深くて苦くて濃いものばかり。そういうのがコーヒーなんだといつかどこかで刷り込まれたに違いない。

オムニバス

フランス映画『アスファルト』を観た。オムニバス仕立てだが、知り慣れた構成とは少し違う。通常のオムニバスは、いくつかの独立した短編を順に並べて一つのテーマを貫く。『アスファルト』は三編をまとめながらも、その三編が関連付けられる。三編をABCと呼ぶなら、ABCABC→……という具合で、ミルフィーユのように繰り返し重ね合わされる。リーフレットに「愛は、突然降ってくる」と書いてある。たしかに宇宙飛行士が集合団地の屋上に降ってくる。彼は数日間居候させてもらう部屋の主、アルジェリア系フランス人の熟年女性に「(宇宙は)暗黒。暗黒の向こうに眩しい光がある」と語る。「愛」は「小さな喜び、小さな幸せ」に読み替えできそうだ。

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毎朝トーストを食べていて、バターと蜂蜜を塗る。ジャムはめったに使わない。ある日、トーストを齧りながらジャムのことを思い浮かべた。買ってきたばかりのイチゴのジャム。ジャムは壜入り、壜の蓋は強く閉まっているものと決まっている。蓋はなかなか開かない。壜を回しながら栓抜きで蓋のふちをトントンと叩いてやる。それでたいてい開く。それでも開かない時は、輪ゴムを二、三本蓋のふちに二重、三重に巻いてから試みる。これで開く。できなかったことが、一つか二つの工夫でできた時、小さな達成感が得られる。

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十数年前、水性マーカーを買い込んで数十種類の色を揃えたことがある。大きな絵を描くとあっという間にインクが減るので、もっぱらハガキ判の画用紙に描いた。自分でも驚くほど量産した。仕事が一番忙しい時期だったのに、よく描けたものだとつくづく思う。新しいマーカーを買ってきては色を試してみた。やがてマーカーの色試しだけでも愉快になった。そんな一枚が残っている。作意のない無造作な形と色の配置による模様。さっさと捨ててしまってもよかったはずなのに、残っているのが不思議である。

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昨日映画を観た帰りに古本屋で『それでも人生は美しい』という本を手にした。題名からはちょっと想像できない内容の本。著者太田浩一は物理学者。著者が十六人の物理学者とゆかりの街を実際に訪ねて綴ったエッセイ集だ。抑制のきいたモノクロの写真がふんだんに使われ、手抜きのない品格のある文章に好感が持てる。「それでも」という一語が、必ずしも満足ばかりでなかった人それぞれの昔日を彷彿とさせる。

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遅い朝食。トーストと卵焼きとハム以外に懐かしの蒸しパンも半分食べた。午後2時になっても空腹感がやって来ない。午後3時にようやく何かつまみたくなった。半分残しておいた蒸しパンがちょうどよい分量だった。

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久しぶりに水性マーカーを引っ張り出したが、半分以上は色がかすれる。と言うわけで、文章を書こうと思い、今書いている。絵を描くのと文を書くのはまったく別の行為のようだが、行為を下支えしている動機とテーマは案外似通っている。書くことには何らかの自壊作用が伴うが、自浄作用が上回るから書く気になれるのだ。

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やるせなさやせつなさは大きな悲しみの前段階なのか、それとも大きな悲しみが過ぎ去った後の余韻なのか……。やるせない、せつないと言う知人がいる。「それでも人生はまんざらでもない」と気付けばいいのに。小さな喜びに巡り合って人は救われる。仮に絶望的な陥穽に落ち込んだと思っても、何かをしているかぎり救われている。ごろごろだらだらの身に光は照り射さない。小さなことでもいいから没頭できる対象と、ほんのわずかでも没我できる時間があれば、アスファルトのような無機的な日々もそうではなくなってくる。

なんとなく木曜日

今日が金曜日であることを知っている。けれども、木曜日について書こうとしている。その前に……。

あることに気づき、縁を感じてしまって、なんとなくわくわくすることがある。特に理由があるわけではない。たとえば、今朝調べものをしていた時のこと。一冊目の本の索引で目当ての用語を探したら「131ページ」と出ていた。別の本で別の用語を索引で引いたら、そこに「46, 131, 139……」とページ番号が出ていた。ただこれだけのことで、もう131という数字に心が動いてしまうのである。帰路に「1丁目31番地」などの住所表示に出合ったらちょっと昂揚するかもしれない。

二十代前半に勤めていた職場に、あずまさんとみなみさんという女性がいて、「ここに西か北がいたらおもしろいなあ」と思っていたら、驚いたことに西にし君が入社してきた。「これで北がいたら麻雀ができる」と冗談を言っていたら、別の部署から喜多きたさんが配属された。揃ってしまったのである。わくわくしないはずがない。左近さこんさんという人と初めて会った日の夕方に行った整形外科が右近うこんだった時も愉快だった。


週間カレンダー

サラリーマン時代は休みが日曜日だけだったので、土曜日が待ち遠しかった。土曜日の朝、「今日一日頑張れば明日は休みだ」と言い聞かせて出社したものだ。

三十代半ばで独立し、二年目にスタッフも十数名になったので隔週土曜日を休日にした。次いで、出勤土曜日を半ドンにし、ほどなく完全週休二日制に移行した。すると、どうなったか。金曜日が「わくわく曜日」に変わったのだ。なお、「月曜日の憂鬱マンデーブルー」はサラリーマン時代にはひどいものだったが、自分で会社を興してからは、月曜日のイメージが激変した。自己責任と多忙の度合に反比例するかのように、新しい週を機嫌よく迎えることができるようになった。

多忙なのに余暇との棲み分けもうまくいく。わくわく曜日が土曜日から金曜日に繰り上がり、そして今、木曜日になんとなくわくわくするようになっている。終身現役を宣言しているので、この調子だと、やがてわくわく曜日は水曜日、火曜日へと移行する可能性がある。七日ごとにやってくる曜日への期待感が年を追って変わることに、まんざら悪い気がしない今日この頃である。

風流と野暮

三日月

何年か前に撮った三日月の写真がある。雲を引き連れて、見えない風が流れている。風の流れ、すなわち風流が感じられる。今夜も三日月だが、見えている三日月には少しぼかしが入っている。残念なことに、今夜のぼくの位置取りが三日月を風流と無縁にしてしまった。

眼がくらむドラッグストアの煌々こうこうと照る蛍光灯 三日月かすむ /  岡野勝志

街中の店の灯りに節操がない。目立てばいいのだと全店が利己的に思えば、黄昏時の景観も褪せる。眼を患うのではないかと思うほど眩しいだけである。とりわけドラッグストアの店の明るさには閉口する。あそこまで明るくするのは野暮ではないか。品性がなく、調和や周囲への気遣いを欠いて、ただひとり派手に酔っているかのようだ。

芭蕉が「わが門の風流を学ぶやから」(遺語集)ということをいっているが、風流とはいったいどういうことか。風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である。
(九鬼周造『風流に関する一考察』)

風流が日常の世俗から離れることであるなら、俗世界に留まるのが野暮だろう。ドラッグストアを便利に使う身ながら、足を運ぶたびに、軽めの世俗から重くて深い世俗に入り込む感覚に襲われる。


風流は「もの」の属性ではない。感受者の内に芽生えるみやびな趣である。団扇片手の浴衣姿に一応の風流を感じるにしても、浴衣と団扇の色や柄、手足の動きの一部始終がさらに観る者の心の動きに関わってくる。後ろ姿に風流を観た。しかし、前に回ればスマートフォンを操ってポケモンGOでは俗すぎる。

風物の風情は風流に通じる。暑い夏にはせめて精神の涼をとばかりに、平凡なものに向き合う時にも風流の演出に工夫を凝らしていた。西瓜などはその典型だ。何の変哲もない果物扱いしてもよかったはずだが、夏の風物詩には欠かせない存在となった。西瓜の切り方・食べ方も風流と野暮を線引きする。切って食べる前に品定めもある。ぼくの爺さんは八百屋の店主と一言二言交わしてから、西瓜をひょいと持ち上げて左手に乗せ、耳を当てがって右手で鼓を打つようにポンポンと叩いて音を聞き分けていた。子どもの目にさえ粋な所作に映った。爺さんの買ってきた西瓜にはずれはなかった。

古い時代の京都にも、避暑ついでにうりの畑を見物する習わしがあったと聞く。今のように果物何でもありの時代と違って、瓜は貴重な夏の逸品だった。瓜畑を眺めることを「瓜見うりみ」と呼んだ。瓜見すれば、当然一口いただきたくもなる。避暑の道程から少し寄り道して一服。風流である。今日、俗っぽく生きるのはやむをえないが、心の持ち方をスパッと変えて、風流に感応する時と場を工夫してみるのがいい。

思惑外れ

いつ壊れても不思議じゃない「壊れかけのRadio」が何年も壊れず、つい昨日まで機嫌よく動作していた外付けのハードディスクが何の前触れもなく突然スイッチが入らなくなって壊れる……。人間側からすれば思惑が外れているのだが、機械のほうには機械の、人には計り知れない事情と寿命があるようだ。

思惑が外れないようにする唯一絶対の方法がある。都合のいい見通しを立てたり算盤を弾いたりしないことである。思惑通りにいかない時の苛立ちと不幸を免れるにはこれしかない。想定は想定内に収まらず、むしろ想定外に落ちるものと相場が決まっている。


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いつぞや友人とこじゃれた喫茶店に入った。ぼくがコーヒー、コーヒーを飲まない友人はトマトジュースを注文した。彼は「トマトジュース」とフルネームで告げた。にもかかわらず、注文を受けた女店員はカウンター越しに「トマジュー」とマスターにリレーした。時にことばの省略・短縮は消費価値の低減になる。よく目を凝らせば、マスターは冷蔵庫からデルモンテかカゴメの缶を取り出してグラスに注ぎ氷を放り込んだ。一丁上がり。なるほど、これならトマトジュースではなくトマジューだ。思惑などあったわけではないが、ちょっとがっかりして思惑が外れたような気分になった。

大多数が願っていないことが現実になるという思惑外れもある。一人ひとりの思いを単純に足せばノーという帰結だったはずなのに、不思議な作用が働いて総意がイエスになってしまう。英国のEU離脱決定はそんな感じだったのだろう。「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とは、共和党の大統領候補にトランプ氏が確実になったのを受けてつぶやいたある市民の声である。

TPOまでよく考えて悩みに悩んで買ったスーツ。仕立て上がったのを着たら気に入らなかったということはよくある。挙句の果てに、ほんとうはこの色のスーツは欲しくなかったのにと愚痴る。愚痴の矛先は仕立屋にではなく自分に向いている。トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。

街中の「雑景」

目的地に応じて交通の手段は変わる。外国に行くなら飛行機に乗る。乗らざるをえない。飛行機は目的地到着という結果だけを重視する手段。窓側に座れば、離陸直後と着陸直前に風景は見える。しかし、大半の移動時間中は窓外の雲か決まりきった客室光景を眺めることになる。飽きるから眠るか音楽を聴くか映画を観るという、お決まりの過ごし方をするしかない。飛行機は離着陸の地点を結ぶデジタル的装置にほかならない。つまり、移動手段としては、つまらない。

それに比べれば、列車の旅では目的地に向かう途上でいろんなものが見える。『世界の車窓から』と題した番組が成立したのは列車だったからで、飛行機なら長寿番組になりえなかった。飛行機のようにまっしぐらの一目散でないところに列車の旅の値打ちがある。いや、もっとよそ見を楽しみたければ、列車や車ではなく、歩くのに限る。エリアは限定されるものの、四囲の様々な対象が視界に入ってくる。見たくないものまで見えるが、それも目的至上主義から脱線する妙味だと思えばいい。

情趣不足気味の都会暮らしの身だから、街歩きしていると情報過多を肌で感じる。情趣の代わりに情報が氾濫している。情報は「雑景」にこびりついていて、時には土着的な匂い、また時にはおかしみを醸し出す。いつもの散歩道なのに新しい発見があるし、何度も見ているのに居直ったような陳腐さに異常なまでに感心する。雑景を通り過ぎた後も、振り払おうとして振り払えない滑稽な余韻を引きずることもある。今日は看板という雑景を拾ってみた。


けつねうどん

「きつね」は、そう発音した本人の思惑と違って、他人には「つね」に聞こえることがある。ローマ字表記上では[kike]の変化で、[i]をなまくらに発音して[e]になったに過ぎず、この変化に大それた秘密はない。

上方落語の噺家ははっきり「つねうどん」と言っている。しかし、文字で「けつね」と表わし、それを派手な看板に仕立てるところが大阪的だろう。この手の仕掛けに地元民は慣れている。しかし、地元民と言えども、「飽きがくるほどアゲガデカイ!」には少々意表を衝かれる。ふつうは何度食べても飽きがこないとPRするところだ。味がワンパターンで飽きるのではなく、けつねのアゲが大きくて飽きるのである。「アゲガデカイ!」というカタカナの表記がばかばかしさを増幅している。

看板2 男性かつら刃物とぎ

ピンクのテントに白抜きの文字。遠目には目立たない。店舗はいかなるカラー戦略を目論んでいるのだろうか。

それはさておき、日本語であるから、文字が伝えている内容はわかる。理美容の器具を扱っていて、化粧品も扱っている。行間を読まなくても――そもそも行間などないが――一般向けではなく業務用だということもわかる。この店は理美容店向けの商材を扱うディーラーである。カミソリやハサミを扱っている手前、二行目の刃物とぎサービスにもうなずける。

と、ここまで理解しても、独特の空気を放つ「男性カツラ」の文字が虚勢を張っているように見える。シャッターの落書きが店じまいを暗示している。

ベルギービールと焼き鳥

焼き鳥をつまみにビールを飲む。ハイボールでも日本酒でも合うけれども、ビールで何の不思議も不満もない。週に二度も三度も店の前を通り過ぎる。そして、いつもつぶやく、「焼鳥屋らしくない」と。

“BELGIAN BEER & YAKITORI”のアルファベットにヨーロッパのどこかの街の、日本人以外のアジア出身のオーナーが経営する店が重なってしまう。鶏肉が不器用に串に刺され、あまり舌に快くないタレが想像できる。

もう一度書くが、ビールと焼き鳥の組み合わせに文句はない。では、このぼくの居心地の悪さはどういうわけか。ベルギービールのせいである。ベルギービールがうまいことは知っている。しかし、ここは単純に「ビールと焼き鳥」でいい。ベルギービールと焼き鳥がハモっていないのである。

桜のアンビバレンス

花の情緒がさほどうるわしくない街に住み、働いている。そんな街でもこの季節になれば、通りや公園や校庭は桜の花で満たされる。手元の歳時記の四月三日のページには「かげろう」とある。漢字で「陽炎」と書くように、地面から気が炎のように立ちのぼり、その向こうの物体や景色を揺らめかせて見せる。ぽかぽか陽気の春ならではの現象だ。今日の昼前はまずまずの温かさだったが、かげろうが立つほどではなかった。

刺激の少ない、単調で単純な生活を送っていると、脳がそのパターンに適応する。変わらぬ光景を日々見慣れているうちに感動は薄まってくる。もし桜が年中咲いていたら……と想像してみよう。ずっと咲いているのだから、いつ咲くのかと待ち焦がれない、開花時期が気にならない、散り際に居合わせることはできない。今日見損なったら明日見ればいい。酒と弁当を手にして花見をしようと思わなくなる。桜を巡る感情は緊張と繊細さを失う。

さっと咲いてさっと散るからこその桜なのだ。桜はもちろん現実の花である。だが、この国では桜は他の花々とは比較にならないほどシンボル的でありイメージ的存在であり続けてきた。今も桜には「プラスアルファ」が被せられる。はかなさを思う人がいて、宴に心を弾ませる人がいる。「同期の桜」が秘める情念には好悪の思いが交錯する。「桜は概念」だとぼくは思うのだ。


桜花は趣の深い「あはれ」を秘め、ある時には爛漫を謳歌する。おびただしい詩歌がそのように桜を扱ってきた。ところが、ひょんなことから孤高の気分に襲われたりすると、桜の花はあはれでも華やかでもなくなってしまう。萩原朔太郎は孤高かつシニカルに感じ、その心情を詩篇にした。「憂鬱なる花見」は、桜をおぞましく嫌悪している。

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
(……)

ここまでやり込めなくてもいいだろうと思う反面、桜の色とイメージに憂鬱を誘う何かが潜んでいそうな気がしないでもない。人が賑わえば賑わうほど、宴の声が高まれば高まるほど、桜をうとましい存在に感じて遠ざかりたくなることがある。人を鬱陶うっとうしくさせるフェロモンを桜が出しているはずがない。ただ、はかなさから来る桜のイメージに不安心理を重ねてしまうのだろう。

中大江公園の桜4

ぼくが訪れた公園はと言うと、満開間近の風情だった。一本の木が咲かせる桜花の密度が際立っていた。遠目に淡い色を見るもよし、近づいて枝花を見上げるもよし。しかし、アンビバレントな桜の観賞はつくづくむずかしいと思う。静かに一人で眺めている分にはいい。いったん人混みに紛れたり集団花見を強いられたりすると、気が詰まり息苦しくなることがある。そのちょっと先に萩原朔太郎の厭世観があるのかもしれない。

アメリカのことを思い出した

英語の勉強に熱心だった1970年代に比べると、世界におけるアメリカの影響力はだいぶ弱まった。アメリカに関するニュースもめっきり少なくなった印象がある。発信情報が減ったわけではなく、受信側――他の国々や人々――がアメリカ情報の格付けを下げたのではないか。オフィスの蔵書は70年代~90年代に揃えたものが半数以上を占めるが、アメリカと名の付く書籍だけで450冊は下らない。しかし、最近に限って言えば、アメリカに関するテーマの本をほとんど買わなくなった。今世紀に入っても海外広報の仕事をずいぶんしてきたから、必要性がなかったわけではない。しかし、書棚の本の色褪せた背表紙を見ていて、何につけてもアメリカという歴史の終わりの始まりを感じる。

日本もぼくもアメリカを価値軸の中心に据えた時代があった。経済も文化も政治も外交も軍事もアメリカは世界の舞台で代役を必要としない不動の主役であった。今では、もうそんな気はまったくしない。テレビでオバマ大統領を見、新聞で大統領選や政策の話を読むが、響きも反応も地味である。TPPや安全保障で日米の関係が云々されても、かつての安保や沖縄返還や通商交渉などの関心には遠く及ばない。多様性の世紀というようなことばで片付けるのは粗っぽいが、受発信情報のみならず、実際の存在面でもアメリカ的価値の希釈はかなり進んでいると言わざるをえない。

アメリカ50州記念切手

こんなことを思い巡らしたのはほかでもない。某所で処分しようとしていた書籍や小物を適当に何点か持ち帰った中に、アメリカ50州の記念切手を見つけたからだ。切手を見た時点では、鳥と花の記念切手だとはわかっていたが、ろくに文字も読まずに彩りだけで選んできたので、そうとは気づかなかった。一枚一枚がばらではなく、ちゃんとミシン目の入った50枚揃いの切手シートだ。ArabamaからWyomingまで50州がアルファベット順に並んでいる。この切手を見ながら、学生時代に州名をすべて覚えたことなどを懐かしく思い出した。


かつて本多勝一は“The United States of America”はアメリカ合衆国ではなく「アメリカ合州国」でなければならぬと言い、「衆」に替えて「州」と表記し、『アメリカ合州国』という名の本も著わした。当時のぼくは、合州国が当を得ているように思い共感した。後になって、これはどうも「states=州」という概念の彼我の認識が違うのではないかと考えるようになった。つまり、州は日本の都道府県と同じ位置付けや感覚ではないということだ。州は国家に近いのである。国家が集まったアメリカだから、意味としては「アメリカ連邦共和国」なのではないか……。

アメリカは日本の国土の約25倍である。その国土が50州から成っているということは、平均化すると一つの州が日本全土の半分の大きさに相当する。もはや都道府県という行政区画とは次元が違う。明らかに国家と呼ぶにふさわしい。本多勝一は衆を「民」と考え、英語名には民のニュアンスなどはないから「合州国」が適切と考えたようである。『広辞苑』を引いてみた。「合衆」という見出しはなく、あるのは「合衆国」だけで、「①連邦国家に同じ。②アメリカ合衆国の略」」と書かれている。『大辞林』には合衆の見出しがあり、「いくつもの物や多くの人などが一つに集まること」と説明されている。その後も少し調べていたら、福沢諭吉の『文明論之概略』に次のくだりがあるのを見つけた。

初め羅馬ローマの国をたつるや幾多の市邑しゆう合衆ごうしゅうしたるものなり。羅馬の管轄、処として市邑ならざるはなし。此衆市邑の内には各自個の成法ありし、自から一市一邑の処置を施して羅馬帝の命に服し、集めて以て一帝国を成したりしが、帝国廃滅の後も市民会議の風は依然として之を存し、以て後世文明の元素と為れり。

ローマ帝国はもともと市や村の連合だった……帝国内を構成するのは市と村であって、それぞれ独自の法律があり政治をおこなっていたがローマ帝国の指示には従っていた……帝国が滅びた後もなお市政は続き、これがその後も国家の基本となった……というような大略だろう。ここに「主役は都市で、複数の都市のまとめ役が概念としての国家」という構図を見る。欧米の政治の基本概念は都市国家なのだ。アメリカの州は、州という名の都市国家と見立てればいいのだろう。合衆とは民衆を集合するのではなく、市と村を連合するもの。よって、アメリカ合衆国とはきわめて適切な訳語だったのである。そのアメリカ合衆国、話を書き出しに戻せば、やっぱり影はずいぶん薄くなったと痛感する。意志ある脱米なのか、自然の成り行きとしての脱米なのか……これは一考に値するテーマである。

時の鐘

釣鐘屋敷跡2 釣鐘

オフィスは大阪市中央区の釣鐘町一丁目。百メートルちょっと西へ歩けば二丁目で、そこに釣鐘の鐘楼がある。現オフィスに移転して26年になる。鐘は定刻に毎日鳴るのだが、オフィスビル群に囲まれ、また窓も閉めているから、こんなに近接していても、よほど聞き耳を立てないかぎり打鐘に気づかない。

由緒のある鐘である。寛永十一年(1634年)に大坂町中時報鐘として設置された。「おおさかまちじゅう じほうしょう」と読む。鐘は高さ1.9メートル、直径1.1メートル、重さ3トン。この場所はかつて釣鐘屋敷と呼ばれていた。屋敷はとうの昔になくなっている。

釣鐘屋敷跡1 鐘楼

釣鐘を包む鐘楼はマンションに紛れるように佇む。1660年、1708年、1724年、1847年と四度も焼失したが、鐘そのものは焼けずに無事だった。しかし、1870年以降は、これまた四度、保管場所を転々とした。近くの小学校、大阪商工会議所の前身の地、大阪城の前の府庁屋上などを経て、百有余年後の1985年に〈時の鐘〉として現釣鐘町二丁目についに里帰りを果たした。毎日朝八時、正午、日没の三回鐘が鳴る。人の手ではなく、コンピュータ制御による打鐘だ。大晦日にも除夜の鐘打ちがおこなわれている。


四度の火災にもかかわらず、音色はかつての美しさを失わず、名鐘の一つとして誉れ高い。釣鐘を守る鐘楼も五度目の建造になる。五度目の正直というわけでもないだろうが、屋根は五つの輪で意匠を凝らし、〈自主、自立、自由、活力、創造〉という、かつての大阪町人の精神を象徴しているという。現代の大阪人がどこかに置き忘れてきた気概である。

平屋やせいぜい二階建ての住居が当たり前だった時代、この鐘が街の四方八方に時報を告げたというから、音色の響き渡りのほどが想像できる。実は、この釣鐘の鐘の音、近松門左衛門の『曾根崎心中』のここぞという場面で「音響効果」を受け持っている。遊女お初と徳兵衛の情死を題材にしたこの浄瑠璃の道行みちゆきの場面の書き出しは、荻生徂徠もべた褒めした名調子の名文だ。

此世このよ名残なごり夜も名残 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ あれかぞふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生こんじょうの 鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

見事な七五調。お初と徳兵衛の耳に響いた七つの時の鐘の音、それが釣鐘の時報だったとは感慨深い。釣鐘町から心中の現場であるかつての曾根崎天神の森まで約2.5キロメートル。よくぞ鳴り響いたものだと感心する。その鐘とたぶん同じ音が今も生きている。

取るが我等が得もの

京都の知人は、手元に金がある時は安い居酒屋で飲み食いして現金払いする。「いつもニコニコ現金払い」ができるのは持ち合わせがあるからだ。しかし、金の融通がきかない時にふいのお客さんの接待ということになると、なじみの高級割烹とお茶屋に連れて行く。掛け買いができるからである。縁のない世界なので詳しいことは知らない。知人によると、請求は年に一回のみ。十二月に一年分をまとめて支払うそうだ。何百万という金額になることも珍しくないらしい。

今もこのような掛け売り・掛け買いという商習慣が一部で生きている。かつてのように、掛金取り立てのために駈けずりまわって集金しているのだろうか。もしそうなら、隠れたり言い訳で逃れたりという輩がいても不思議ではない。貸し手と借り手の駆け引きにあって、昔は「取るが我等がとくもの」と豪語する人物に出番があった。ずばり「取り立て上手」のことである。こういう情景をイメージすると、師走を特に慌ただしく感じてしまうのもうなずける。


☑井原西鶴終焉の地

自宅からオフィスまで1.3キロメートル。その途中に井原西鶴(1642-1693)の終焉の地の碑がある。交通量の多い谷町筋の道路を背にしている。西鶴は道路向かいの鎗屋町やりやまちに住んでいたという。元禄期に書かれた『世間せけん胸算用むねさんよう』は、まさに師走の掛金を巡る貸し手と借り手――主として中下層の町人ら――の喜怒哀楽を描いた作品だ。「大晦日おおつごもりは一日千金」という副題が示すように、二十章のすべてが大晦日の一日に起こった物語として綴られている。久々に気まぐれに本を繰ってみた。

(……)この帳面見給みたまへ、二十六軒取済とりすまして、ここばかりとらでは帰らぬ所。この銀済まぬうちは、内普請うちぶしんなされた材木はこちのもの。さらば取って帰らん。

この引用の冒頭に「取るが我等が得もの」という大見得が切られている。取り立ての男が、「この帳面を見てごらんなさい。ここまで26軒まわって回収してきて、お宅から取らずには帰れません。支払いをしていただけないなら、リフォームにお使いになった木材を回収します。さあ、持って帰らせてもらいましょう」とプレッシャーをかけている。それにしても、見事な回収率である。

元禄時代、現金による当座買いのほうが珍しく、商売の主流は帳面による掛け売りと掛け買いが主流だった。この仕組みがすっかり姿を消したわけではないが、当世、大晦日が一年の最後にして最大の収支決算日ではなくなった。ところで、11月末に一回6,000円ほどするストレッチの回数カードを3回分買った。一括払いすると割引特典があるからだ。買ったのはいいが、2回利用した後、仕事の都合で期限までに3回目を消化できなかった。特典に目がくらんで損をした。何事もできるかぎり現金払いがよく、現金で受け取るのがいいと思う年の瀬である。