諸説紛紛ある時

旅や出張で見知らぬ土地にいて不案内なことがあれば、たいていの人は誰かに尋ねる。誰かは観光案内所のスタッフであったりタクシーの運転手であったり住民らしき通行人であったりする。当地で評判の食事処を聞き出し、半日で回れる観光スポットを尋ね、所要時間や乗り継ぎ情報を知ろうとする。尋ねる相手がその道の権威とはかぎらないが、少なくとも自分よりもわかっているはずと見なしている。

知識不足を補おうとすれば、ガイドブックやネットでもいいが、もっとも手っ取り早いのは人というメディアだ。旅や出張はつねに「アウェイ」なのだから、「ホーム」の人たちに問い合わせるのは理に適っている。ぼくはそうしている。実は、一昨日の夜に山口に入り昨日研修をして帰ってきた。日本全国たいていの所を巡ってきたが、不思議なことに研修で山口から声が掛かったのは今回が初めてだった。

新山口という新幹線駅での下車も初めてである。到着したのが遅かった。食事処にホテル内の中華料理店を選んだ。観光する時間は到底ないから、名所旧跡について聞くことはない。ぼくの最大関心事は、宿泊ホテルから会場のセミナーパークまでタクシーでどれくらいの時間がかかるかである。だから、ホテルのフロント係の女性に尋ねた。「そうですね、早ければ30分。渋滞で混んだりしますと、40分かかるかもしれません」と彼女は言った。手慣れた応答に、ぼくはひとまず彼女を信用した。


しかし、「何か変」を直感したので、翌朝、念のために会場でぼくを待ち受けてくれる担当の方に電話をした。ホテルではこう言っているが、ほんとうにそんなにかかるのかと聞けば、「20分あれば十分です」とおっしゃる。おまけに「20分にタクシーに乗ってください」という助言までいただく。やっぱり40分もかかるはずがない。なぜなら、午後4時に終了して午後441分の新幹線には間に合うと聞いていたからだ。そこで、早めにタクシー乗り場に行き、タバコを吸っていた運転手に聞けば「10分ちょっとだ」と言う。乗り込んだタクシーの運転手は「15分」と言った。

あいにく同じ見解がないから多数決というわけにはいかない。しかし、この場合、諸説紛紛に戸惑うことはない。研修担当の方の意見に従っておけばいいのである。もちろん、遅れては話にならないから、フロント係の40分に従って早く着いておくのも悪くはない(実際の所要時間は行きが15分、帰りが20分弱だった)。ところで、食事処のお薦めが諸説に分かれたらどうするか。これはさらに簡単で、好きなものを食べればいいのである。

一年ちょっと前に会読会で取り上げた『足の裏に影はあるか? ないか?』の中のものさしの話を思い出した。二本の30センチのものさしの目盛りが微妙にずれているのである。どっちが正しいのか。たくさん集めて多数決を取るか、製造元の鋳型を調べるか、さらにもっと権威筋のパリ近郊に格納されているメートル原器を調べるか……。諸説から真らしきもの、より信頼できるものを引っ張り出すのは労力を要する。諸説に悩んだら――実は、悩むこと自体、すでに理詰めの選択ができない状況であるから――気分か気合で決めるしかない。ぼくはそうしている。できれば一番余裕のありそうな説に与しておくのがいい。

指し示して伝えるということ

「どれ?」「これだよ」「えっ、どっち?」「こっち」……ゲームをしているのではなく、よくある現実の場面。少し離れたところにいる人に、こちらにあるものを指し示したら、その人差し指がどこを向いているのかがよくわからない。「これ」と指し示した箇所の名称を知らないので指を使っているのだが、ピンポイントで対象を確定できない。指(☚)や矢印(➡)は対象に近接していればうまく機能するが、これらと対象との距離が長くなればなるほど、いったい何が対象であるのかわかりにくくなってしまう。

では、今度はゲームをしてみよう。遵守すべき条件は、左手を使えない、話すことが許されない、絵や文字にしてはいけないの三点。さて、あなたが相手に伝えたいのは「親指」である。左手で指し示さず、「おやゆび」と発話せず、絵や文字で表わさずに、はたしてどのように伝えればいいだろうか。

人差し指で隣りの親指の爪あたりを指すと、お金のサインになってしまう。かと言って、第一関節の腹あたりに人差し指の指先を当てれば、数字の69、あるいはかたつむりの形に見えなくもない。相手は、人差し指が示す対象を親指だとわかってくれるだろうか。人差し指を使わずに、仮に親指だけを単独で立ててみればどうか。すると、相手はそれをオーケーのサインと見てしまう。

親指でなくてもいい。小指、薬指、中指と順番に人差し指で指し示していくと、二本の指で「造形」されるものが何らかの記号的意味を相手に与えてしまう。同時に、残りの三本の指も「地」として意味を付加する。あなたの右手の動きを見て、相手は「きみは、人差し指で他の四本の指を示しているのだね」と勘を働かせてくれるだろうか。あるいは、あなたは何が何でも相手に伝えられると胸を張れるだろうか。


人差し指で、たとえば耳を示せば、相手は「耳が指によって示されたこと」をわかってくれるだろう。まさか、「人差し指を耳によって示した」とは思わない。なにしろ、人差し指は「インデックスの指」なのだ。人差し指をおもむろに対象に近づけて、対象のすぐ近くでピンと伸ばせば、たいていの場合、爪先で示した箇所は相手に伝わる。但し、頭と毛髪、顔と頬などでは誤伝達が起こる可能性がある。

では、伝えるべき対象が「人差し指」のとき、あなたはどのようなジェスチャーをするだろうか。人差し指の関節は内側にしか曲がらないから、曲げて示そうとすれば「鍵」のように見える。真っ直ぐ立てれば、人差し指というよりも「一本」という意味合いが強くなる。他の指で示そうとも、他の指はインデックス指として認知されていない。ならば、口で人差し指をくわえてみるか。残念ながら、それは「指しゃぶり」か間抜けなジェスチャーにしか見えないだろう。

以上のようなことをイメージしていると、不思議なことに気づく。人差し指そのものが人差し指を的確に指し示せないように、PP自体を示すのはむずかしいのではないか。PはどうにかこうにかQRを示したり伝えたりできても、Pそのものを明確にするのに苦労する。そして、実は、ことばも人差し指や矢印と同じ機能を持っているのではないか。指や矢印で対象を示せない時、つまり、近くにないモノや目に見えない概念をことばで描く時、ぼくたちはきわめて高度な技術や知識を駆使せねばならないはずである。

昨日、NHKニュースで「日本のはるか南……」と耳にしたとき、ぼくは「はるか南」の指し示す距離に一瞬戸惑い、「マリアナ諸島で……」とキャスターが続けても、イメージと知識が起動しなかった。伝える側の指示内容が伝えられる側の参照を的確に促すということは、信じられないくらいすごいことなのだろう。

ないものはない、あるものはある

♪ 探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに (……) 

ご存知の通り、『夢の中へ』の冒頭だ。まったく同じではないが、土曜日の夜、これとよく似た事態が発生した。場所は福井駅。大阪行き特急サンダーバードのチケットの変更をし終えて数分後のこと。いや、ぼくに生じた事態ではない。福井開催での私塾に大阪から参加した塾生Mさんの身の上に起こった一件である。なお、ぼくたちは居酒屋で焼酎を二杯ずつ飲んでいたが、決して酔っ払ってなどいなかった。

隣りどうしで帰阪しようと、ぼくはチケットを変更し、直後に彼が同じ窓口で指定席を買い求めた。その後、目と鼻の先の立ち食いそば屋に入った。店を出て改札に向かいかけた時、彼の挙動の異変に気づく。必死にカバンやポケットの中を探しているのだ。

♪ 探しものはチケットです 見つけにくいものではないのに カバンの中もポッケの中も探しているのに見つかりません (……)

もう一度みどりの窓口に戻り、窓口担当に発券を確認し、念のために落とし物窓口もチェックした。ない。「Mさん、胸ポケットの中は見た?」と聞けば、「はい」と言う。彼の胸ポケットにはアイフォンが入っている。彼はいくつか仕切りのあるカバンを何度も探し、本や資料の隙間に入っていないかを調べた。財布の中にはチケットを買ったクレジットの利用控えはちゃんと入っている。その財布の中は3回以上見直している。窓口で交渉したが、切符は金券扱いゆえ再発行などしてくれない。


緑色の証明書をもらってひとまず改札を入ることはできた。紛失していれば車中で切符を買い直さねばならない。車掌から買った後に紛失した切符が見つかれば、払い戻しをしてくれる。しかし、見つからなければお金は戻ってこない。特急に乗り込み福井駅を出発した。Mさんは座席に腰もかけずに、立ったままで再びカバンと財布とポケットの中を、それこそありとあらゆる隙間や凹のある箇所を「大捜査」している。冬場でも汗をかくほどの彼だ、まるでサウナに入っているように顔面から汗が噴き出して滴っている。

ぼくは作戦を立てていた。彼のカード利用明細控えが唯一の証拠、これを使いぼくが証人として車掌を説得できるかどうか、運よく温情にあふれた車掌ならば事情を察して何とかしてくれるかもしれない……などと考えていた。しかし、チケットを探している彼を横目で見ながら、こんな交渉がうまくいくはずがないと諦めもしていた。「失っていたらない。ないものは、ない」と心中でささやく。彼も探すのを諦めようとしていたその時、念のためにこう言った、「Mさん、胸ポケットは見たの?」 

胸ポケットからアイフォンをつまみ出したら、あっ、一緒に切符がついてきた! 切符は、胸ポケットという、一番ありそうなところにあったのだ。彼はカバンと財布を必死になって探してしていたが、胸ポケットには視線を落として一瞥しただけだった。黒色のアイフォンと同じサイズの切符、しかも磁気のある裏面は黒っぽい。横着したから重なって見えなかったというわけである。ないものはないが、あるものはある!

ところで、井上陽水はあの歌の半ばで次のように歌っている。

♪ 探すのをやめた時 見つかることもよくある話で (……)

根拠のない言い分

もうすっかり耳に馴染んでいるにもかかわらず、聞くたびに少し苛立ち、いや、こんなことに苛立っていてはばかばかしいと思い直して、鼻で笑っておく。そんなふうにあしらいながら、ここで取り上げるのも妙な話だが、身につまされる向きがなきにしもあらずだ。誰かが言いっ放しで理由を添えてくれない時、ぼくは以上のような心理になっている。

テレビ番組中のコマーシャルで「4,950円とたいへんお買い得!」と言っている。別のテレビショッピングでは「今ならとってもお求めやすい2,980円!」という言い方をしている。買い得とは「買って得をすること」と広辞苑にあるが、こんなアホらしい定義は役に立たない。買い得品とはお値打ち品だから、「出費に対して得られる品質や便益が大きい」ということだ。求めやすいは、ちょっとひねって「財布や家計の負担にならない」としておこう。

言い分はよくわかる。「この良質の商品は別の場所や時期ではこの値段では買えませんよ、しかもお手軽で、わざわざ別口予算を立てなくてもいいのですよ」――こんなふうにコマーシャルの中のナレーションは語りかけているのである。しかし、彼らは「なぜそう言えるのか」については言及しない。黙して語らない。


商店街の店先で八百屋や魚屋が枯れた太い声で「らっしゃい! 安いよ安いよ、買わなきゃ損だよ!」と叫ぶのはいい。「この大根は今日は一本百五十円だよ。ふだんより五十円安く、しかも○○産で、他の品種よりも辛味と甘味のバランスが絶妙ですよ、奥さん」などと店先で口上張っていたら、話途中で買い物客が店の前を通り過ぎてしまう。彼らに説明はいらない。長年店を構えて商売していること自体が信頼すべき根拠なのである。

テレビでは、初耳の会社の商品を見も知りもしないタレントかナレーターかが喋っている。です・ます調になっているだけで、実は「お買い得だよ、安いよ!」と叫んでいるにすぎない。お買い得かどうかは、自社従来品(または他社製品)の価格と比べなければ判別できない。さもなければ、単なる独断メッセージだ。証拠も含めた根拠も示さずに、お買い得と主張するのはあつかましい。なかには「これ一つでレモン10個分!」と証拠らしきものが示されるが、一日にレモン10個も食べる必要などないから説得力がない。

売り手側に一言文句をつけてきたが、彼らが無根拠セールスで済ましているのは、消費者がそれを容認しているからである。価格という数字につきまとう理性と不可思議を一緒にしてしまっているのだ。数字は科学でもあり魔術でもありうる。お買い得と繰り返されれば、たしかにそうだろうという信念が強まる。根拠を求める賢い消費者なら、「焼肉食べ放題! 今なら1,980円」に流されない。質のこと、自分の食欲・健康のことを少考すればいいのだ。

賢い消費者について考えるとき、テレビショッピングの「今ならもう一本」に急かされて高枝バサミを買った高齢者を思い出す。その爺さんの家の庭は小さく、枝が高い位置にある木は一本もなかったのである。「これ一台で辞書数十冊分」に促されて買いはしたが、そのままになっている電子辞書が机の引き出しに入っていないだろうか。

寡黙化する人々

「人は商品を買うのではなく人を買う」と豪語したジョー・ジラードは別格としても、カリスマと称されるセールスパーソンなら誰しも自分自身を売り込んでいるはずである。売る人そのものが売り物ではないにもかかわらず、商品価値のほぼすべてを人が決定しているというこの考え方は、実は決して珍しいことではない。むしろ、誰が携わっても同じという「セールスの匿名性」のほうが少数派なのである。

商品の購入にあたって顧客は売る人を買っている。これは、彼らが信頼を、説明を、笑顔を、経験などを求めているからである。極端な話、顧客が買っている商品はコミュニケーションに満ち溢れた環境で売られているのである。したがって、ジラードをもじって、「どんな商品を扱うにせよ、私が売っているのは、実はコミュニケーションなのだ」というセールスパーソンがいても決して不思議ではない。

「コミュニケーション上手」イコール「口達者な売り手」ではない。コミュニケーションとは相手を納得へと導くマメな情報共有をも意味する。だから、たとえばエドワード・T・ホールの「非言語的コミュニケーション」であってもかまわない。手まねや身振りも、文化的・文脈的パターンにのっとっていれば、十分に機能すると思われる。とはいえ、ビジネスシーンにおける非言語的コミュニケーションの影響力は失態時に強く出る。立ち居振る舞いが反文化的に働いたり無礼に捉えられたりというケースだ。ビジネスを牽引する主導的役割を果たすのが言語的コミュニケーションであるのは言うまでもない。


ホールの唱えた“silent language”は「沈黙のことば」と訳される。言うまでもなく、沈黙のことばは有言のことばとセットである。言語的コミュニケーションに怠慢な者が、いくら張り切ってジェスチャーをしても空しいばかりだ。それなのに、公の場での人々の静けさはいったいどういうわけだろう。しかも、寡黙な彼らは、沈黙のことばによる表現も不器用なのである。彼らの手まね身振りはほとんどの場合、携帯やパソコンの操作に限られているかのようだ。

稀に発話しても単語がパラパラと撒かれるだけで、ことばが文章の体を成していない。一語か二語話しては止まり、「あの~、ええっと」などのノイズが入り、そしてまた一語か二語が続く。単語どうしが相互に結びつかず構文が形成されない。とりわけ、動詞なきメッセージには面喰ってしまう。動詞がなければ、結局何を意図しているのか判然としないのである。これではまるで、カラスの「カァーカァー」やネコの「ニャーニャー」とほとんど同じではないか。仕事の現場での饒舌なやりとりを懐かしく思ってしまう今日この頃だ。

但し、現代人は私事の、つまらぬことに関しては大いに雄弁なのである。この雄弁がパブリックスピーキングに生かされない。現代人にとっての母語は、発話されない「沈黙のことば」と化し、話しことば自体が第一外国語になったかのよう。まさに、口を開いて日本語を話すこと自体が、十分に精通していない外国語を話すことのように重くなってしまったのである。これは母語の退行現象にほかならない。

便利が奪ってしまうもの

便利と不便について考える機会が増えてきた。このブログでも十数回は取り上げたように思う。ぼくの基調となる考えは、意識的に「インコンビニエンス(不便)を生きる」ということに尽きる。便利によって得たものと失ったものの収支は便利の恩恵を受けている――少なくともそう錯覚している――あいだはわからない。結果がすぐに見えればぼくたちも少々の修正を加えるが、便利の副作用はすぐには現れない。気づいた頃には手遅れということが大いにありうる。

便利のお陰で身につく能力と、不便ながらもどうにかこうにか身につける能力には甘辛あまからの度合にだいぶ違いがある。便利はおおむね「らく」と「スピード」を目指す。「イライラしないで気持よく」と言い換えてもいい。しかし、こう言った瞬間すでに破綻を来たしている。便利な自動車は便利な高速道路で渋滞してイライラと不快を招く。その結果、ドライバーたちは大いに不便を感じたりしている。ならば、始めから不便を生きれはいいではないか。

昨夜のらりくらりと本を読みながら、時折りなまくらにテレビの『エチカの鏡』を覗いていた。例のマイケル・サンデル教授のハーバード大学での講義「ジャスティス」の場面を写していた。その後は大学生のディベートに取り組む模様であった。これもちらほらと見る程度。この種の番組はぼくのテーマへの追い風になるはずなのだが、あまり手離しで喜べない。カリスマ講義もディベート技術も本来とてもきついことを題材にしているにもかかわらず、学び手のノリがコンビニ感覚で軽々しい印象を受けることがある。


サンデル教授の投げ掛ける問いはこうだ。「暴走列車を運転するあなた。このまま進めば5人を轢き殺してしまう。だが、列車を右に逸らせば、そこにいる作業員一人は犠牲になるが5人は助かる。あなたならどうするか?」  この質問に答えはない。要するに、自ら考えることに意義がある。結論を下してその論拠を説明するトレーニングなのだ。「解答は必ずしも存在しない」のはもはや明白だから、特別に目新しい話ではない。

一部の学生の解答が紹介されたが、他にどんなものがあったのか興味津々である。便利生活で飼い慣らされたという点では日米ともに大学生に大差はないように思える。この程度の質問のある講義を絶賛するようでは、わが国の教育のありようを嘆くしかない。ぼくの私塾ですらハーバード大学よりも難しくて答えのない設問を用意している。ちなみに、暴走列車を運転するぼくは余計なことをせずに真っ直ぐに進む。線路上の5人のうちわずか一人でも暴走列車の轟音に気づくほうに期待する。

今朝の朝刊で新刊予告の広告。『デジタル教育は日本を滅ぼす』(田原総一朗)には、「便利なことが人間を豊かにすることではない」とある。その横の広告は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(なんと田中眞紀子と外山滋比古の共著)。ぼくがこの二冊を買い求めることはないだろうが、デジタル化と便利(あるいは促成)が教育のキーワードであるのは間違いない。便利が奪ったものは何なのか? ことばの力と考える力である。この意味で、答えの定まらない問題を解くのもディベートもデジタル教育よりはすぐれた処方箋と言えるだろう。しかし、肝心要は日々の生活場面だ。不便に戻って、段取りと機転の工夫をする習慣形成こそがはじめにありきなのである。

軽はずみな一言

幼少の頃の写真を見ると、ほとんどがモノクロ写真ではあるものの、ぼくが色白であったことがわかる。中学時代に少々剣道をしていたが、室内競技。だから、中学を卒業するまではたぶん褐色系の風貌とは無縁であったと思われる。高校に入ってから自分が日焼けをする体質であることがわかった。ふつう色白肌だと赤く焼けるのだが、そうはならない。真っ黒にもならないが、少しアウトドアで運動するだけでほどよい褐色に焼けた。

ある時期からやや脂性へと変態したのかもしれない。あるいは単に、わずかな陽射しですぐに焼ける潜在的な体質だったのかもしれない。いずれにしても、この歳になってもすぐに日焼けしてしまうのだ。真夏日は別として、土・日にはよく散歩するものの、長時間アウトドアスポーツをするわけではない。平日出張ではほとんど陽に当たらないし、大阪にいる時も自宅と事務所の間を往復30分弱歩くだけである。

しかし、問題はその半時間にある。あいにく朝は東の方向へと歩き、夕方に西日を受ける方角へと帰ってくる。朝夕のどちらもまともに太陽に向かって歩いているのである。日焼けしやすい体質にとって10分は褐色を重ねるのに十分な時間なのだ。この時期はだいぶ濃さを増すので、ぼくの趣味をあまり知らない人に「よく焼けてますねぇ。ゴルフですか?」と聞かれること常である。その瞬間、キッとなって「ゴルフなんか、、、しませんよ!」とつい言ってしまう。そのあと「あっ」と思うのだが、もう「なんか」と言ってしまっている。手遅れだ。


さぞかし、この「なんか」はゴルフ好きにはとても失礼に響いていることだろう。「なんか」はそれ自体大そうな意味もないただの助詞なのだが、「○○なんか」と言えば、○○が望ましくないものを漂わせる。「なんて」と言い換えればカジュアルだが、軽視の感度は同じだ。「お前なんか」も「あなたなんて」も、いずれも低い価値のものとして見下している。相手が気分を害することは想像に難くない。なぜなら、「きみもビジネススキルばかりじゃなくて、哲学の一冊でも読んだほうがいいよ」と助言して、「哲学なんか役に立たないでしょ?」と反問されたら、ぼくだって心中穏やかではない。

ぼくはゴルフをしない。大学生の頃によく練習したし模擬コースのような所も何度か回った。先輩にはセンスがいいと褒められたりもした。けれども、アマノジャクな性分なので、やみつきになって身を滅ぼすかもしれないと察知し、二十歳できっぱりとやめた。だから、未練なんか、、、まったくない。この心理が「なんか」と言わせるのか。かつてよくカラオケに通った頃はカラオケに「なんか」を付けたことなどなかったが、いま誘われたら「カラオケなんか行かない」と言ってしまいそうである。

昨日のブログのM氏に「プーケットに一緒に行こうじゃないか?」と誘われた時も、たしか「プーケットなんかに行くくらいなら、ヨーロッパを旅しますよ」と憎まれ口を叩いた。たった一つの助詞を通じて心情がありのままに吐露される。そのM氏も奥さんに「お前いい」と口を滑らせたことがある。ここは「お前いい」でなければならない(「お前いい」は相当まずい)。多弁なぼくだ、口の禍の確率が大きいから、心しておかねばならない。「なんか」なんか、もう使わない。

遅れてやってくる珠玉の素材

研修用のテキストが完成すると一安心する。ただ、編集エネルギーの余燼が十分に冷めていないので、その後もテーマに関連した本をちらほらと読む。不思議なもので、そうしているとテキストで用いたものよりも「魅力的で適切な素材」を見つけてしまうのだ。その素材を「足す」だけで済むならテキストを手直しするが、構成自体に地殻変動をもたらすようなら諦めるしかない。しかし、見過ごすのはもったいないという気持から、口頭で紹介するかパワーポイントに組み入れたりすることになる。

私塾の第4講のテーマ『行動規範のメンテナンス〈東洋の知〉』は8月上旬にテキストを脱稿している。ところで、このテーマを選んだのはほかでもない。十代の終わりから漢詩に親しんできて、その流れからか、老子、孔子、孟子、禅、さらに釈尊、それに空海や親鸞などの有名どころをざっと勉強したことがあった。二十代前半に職場の先輩であったM氏が偶然その方面に明るかったから、よく教わったり意見を交わしたりもした。東洋の知への関心にはそんな背景がある。

さて、そのテキストが仕上がってから、講義のためではなく興味本位で関連書を読んでいた。すると、「あ、これ、忘れていた」という好素材がどんどん出てくるのである。行動規範と東洋の知を結んだのはわれながらあっぱれと自画自賛したくなるほど、ブッダのことばや禅語録には行動規範のヒントが溢れている。しかも、そうした珠玉の素材は、もう一歩踏み込まねばなかなか姿を現してくれないものなのだ。


読み残して放っておいた本の後半に出てきたのが、「無可無不可かもなくふかもなく」。今でこそ「良くも悪くもなく、まあまあ」というように使うが、元来は先入観で物事を決めつけないという意味。ぼくたちは十分に検証もせずに事柄や状況の良し悪しを判断する。多分に主観的、と言うか、独我的に。一見良さそうに見えるあれも、どう見ても悪そうに見えるこれも、ひとまず白紙の状態で眺めてみなさい。これが無可無不可の諭すところで、つまるところ、極に偏らずに中道の精神状態を保つべしということになる。

次に見つけたのが、道元禅師の「他是不吾たはこれわれにあらず」。他人がしたことや他人にしてもらったことは、自分でしたことではないという意味である。あなたの腹ペコを満たすのはあなた自身であって、誰かに食べてもらってもあなたは満腹しない。仕事も習慣もすべてそう。自分の仕事を誰かに代わってもらえば、その仕事は片付いたことにはなる。しかし、決して自分でしたことにはなっていない。他の誰でもない、この自分がやらねばならない、よしやるぞと決めたら自分でやり切るしかないという教えである。たしかに、今やるべきことを一番よく心得ているのは、この自分である。ふ~む。耳が痛い。

以上、偉そうに書き連ねたが、見て思い出したまでで、かつて頭に入れたはずのこれらのことばはすっかり記憶から抜け落ちている。再会すれば思い出す、しかし自然流では思い出せない。そんな知識やことばがいったいどれほど眠っていることか。実にもったいない。だからこそ頻繁な再読なのだろう。私塾や研修のテキストを書いて編集するのはとても疲れるが、そういう仕事に恵まれているからこそ、忘れた旧聞に再び巡り合える。実にありがたい。

まことに失礼ですが……

このブログの名称は〈Okano Noteオカノノートである。別によそ行きにすまし顔しているわけではなく、日々気になったことや発想したことを書き綴る〈本家オカノノート〉があって、その中から特に考察したものや愉快に思ったことを紹介しているのである。この意味では、ぼくの普段着のメモの公開記事ということになる。

一日に二つや三つのメモを書き留める日もあるから、一年で500くらいの話のネタが収まることになる。あまりにもパーソナルな視点のものはブログの対象外。それでも積もり積もってノートは飽和状態になる。飽和したから適当に吐き出せばいいというものでもないが、不条理や不自然や不可解への批判的な目線で書いたページが増えてくると、つい放出したくなってくる。たぶん精神的エントロピー増大の危うさを感じて自浄作用が起こるのだろう。

たとえばこんな話が書いてある。ふと小学校時代の転入生のことを思い出した。彼が「ぼくの名前は鎌倉です」と自己紹介したとき、なぜかクラスの中の半数ほどが笑った。彼が山本や鈴木や田中であったなら誰も笑いはしなかっただろうが、なにしろ鎌倉だ。大阪の小学校高学年の子らにとっては歴史で勉強した時代や大仏と同じ苗字が妙に響いたのは想像に難くない。不思議なことにぼく自身が笑ったかどうかを覚えていないが、話し方や苗字からこの男子が関東出身であることが推測できた(その後、彼とは結構親しくなった)。


紹介が終って担任が彼に尋ねた。「鎌倉君、きみは神奈川県出身やろ?」 「はい」と彼は答えた。「やっぱりな」と言って先生は鼻高々になっている。そりゃそうだろう、鎌倉という地名は神奈川なんだから、ふつうに考えればそう類推するものだ。たまたまピンポーンと正解になっただけで、たとえば「ぼくは松本です」と名乗っても、「きみは長野出身だな?」が当たる確率はさほど高くない。

先生、まことに失礼ですが、鎌倉で神奈川出身が当たったからと言って自慢にはなりません。おまけに、あなたは彼の前の在籍地や出身地が事前にわかる立場ではありませんか。

焼肉の食べ放題・飲み放題の話。二十代の若者が言った、「金がないので、オレたちはもっぱら2,980円の焼肉食べ放題・飲み放題のセットなんですよ。」 おいおい、金がなければ焼肉は贅沢だろう。食も酒も控えるのが筋ではないか。

まことに失礼ですが、きみたち、金がなくて、それでも焼肉と酒を時々楽しみたいのなら、一皿300円のホルモンと一杯280円の生ビールの店で粘り、それでも腹が一杯にならないのなら、小ライス150円を追加して合計730円で済ますのが分相応ではないですか。

目的・手段不在の話。気をつけないとつい聞き過ごしてしまう誰かの所信表明。「得意先のニーズに応えていきたい。それを実現するために頑張りたい」――よく若手の営業マンが会議で決意の程を語っている。ゆるいアタマの課長など、メッセージの論理構造よりも彼の毅然とした声の大きさに相好を崩してしまう。

課長、まことに失礼ですが、彼のメッセージに「目的と手段」はないのに気づいておられないようですな。「単なる二つの願望」になっていることがお分かりになりませんか。

ぼくのノートには「まことに失礼ですが……」で締め括らざるをえない、バカバカしいノンフィクションがいくらでもある。

ウサギとカメ、再戦

「イソップ寓話のウサギとカメのかけっこの話、知っているよね」

「もちろん。能力のあるなしよりも努力の大小のほうが成功にかかわるという教訓と理解している。それがどうかしたの?」

「もう十年も前になるけれど、『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』というテーマでディベートをしてもらったことがあるんだ」

「おもしろいねぇ。で、どうなった?」

「今度はウサギが勝利すると主張した者は、かけっこの絶対能力を持ち出した。ウサギは走るが、カメは歩く。①居眠りさえせずに一気に駆け抜ければウサギが勝つ。そして、②凡ミスに懲りたウサギは必ず巻き返す、というのが論点だった」

「多分に期待が込められているね。と言うか、居眠りイコール凡ミスが例外だったのか、それとも染み付いた属性だったのかがわからないから、『居眠りさえせずに』という条件はあくまでも仮定にすぎない」

「まあまあ、慌てずに。今度もカメに軍配が上がると主張した者は、どう反論したと思う?」

「かけっこは単に俊足対鈍足の勝負ではなく、他にもメンタルな要因もあるということだろうか。いや、ウサギのカメを見下す態度は変わらないから、やっぱり油断をする。だから、何度勝負をしてもウサギに勝ち目はない。こんなところかな」

「ウサギが今度は居眠りしないという証明もできなければ、きみが今言った、他にもメンタルな要因があるということも証明しにくい。したがって、結局のところ、このディベートではウサギが前回の失態を改善できるか否かというのが主要争点になったんだよ」

「要するに、カメにとっては自力勝利はないわけだ。カメはひたすらウサギが居眠りしてもらうことを祈るしかない。これに対して、ウサギは意地でも眠ってはいけない。自力勝利の目は自分の采配しだいなのだからね」

「いかにも。ちなみに、そのディベートではレトリックにすぐれたカメ派が勝ったけどね」

「それで、審査員であるきみはどんなコメントをしたんだい?」


「その前に一言。このディベートのテーマは『ウサギとカメが再戦したら、今度はどっちが勝つか?』だっただろ。これって論題形式の記述になっていない。だから、前回カメが勝ってウサギが負けたという事実から、必然『再戦したら、今後はウサギが勝つ』という論題として読み替えられた。立証責任を背負ったウサギ派が『今度は絶対眠らない』と言い張っても説得力はないよね」

「どうやら、ウサギ派の『三度目の正直論』とカメ派の『二度あることは三度ある論』の言い合いに終ったようだね。もっともこれは二度目の勝負ではあったけれど……」

「ぼくは最後にこう締め括ったんだ。寓話によれば最初のかけっこを挑んだのはカメだった。お前はのろまだと小ばかにされたカメから申し出たのだから勝算があったはずだ。そして、実際に勝利した。だから、ウサギがリベンジを誓う挑戦もきっと受けて立つだろう。おそらくカメはウサギの変わらぬ性向を見抜いているのだよ」

「う~ん。それだって、ウサギ派が導いた推論の蓋然性とそんなに変わらないよな」

「いや、そうではない。この戦い、ウサギという種とカメという種の戦いではないのだよ。これは、ある特定のウサギとある特定のカメとのかけっこだったんだよ。米国対日本という戦いではなく、一米国人対一日本人の戦いのようなものだった。そのウサギは居眠りする怠け者だったうえに、もしかすると仲間内で一番鈍足だったかもしれない。他方、そのカメは仲間内でもっとも俊足で試合巧者だったかもしれない」

「ウサギが種の競走ととらえ、カメは個体間競走と見た。なるほど。間違いなく詭弁だろうけど、おもしろい分析だね。賢いアキレスにも追いつかれないカメだから、ウサギに負けるはずもない」

「あっ、それはなかなかの論点だ。詭弁ついでに言えば、居眠りをした時点でウサギはおそらく狩人に捕まっていただろうから、再戦はありえなかったと思うけどね」