「無用の用」の逆襲

「無用の用」は気に入っている表現の一つ。有用だと思うものだけを残してその他の無用をすべて捨ててしまうと、残した有用なもの自体が意味を持たなくなってしまう。有用なものを生かすために諸々の無用があるわけだ。「有用=主役、無用=脇役」という位置取りだが、主役と脇役はいとも簡単に逆転してしまうことがある。たとえば鶏卵。ある料理では黄身が必要で白身は不要、別の料理では白身のみ有用で黄身はいらない。まあ、タマゴの場合は安価だし、黄身も白身もどっちみち使い道はあるから心配無用だが……。

蒲鉾は板に乗っかっていて、当然板から外して食べる。板なんぞ食べないから作る時点で無用だと言うなかれ。板にへばりついているから蒲鉾なのである。無用な穴をふさいで全体をすり身にしてみたら、たしかにずっしりと重みのある棒状の練り物ができるだろうが、それはもはや竹輪ではない。穴が貫通しているから竹輪なのである。レンコンしかり。そもそも穴がなければレンコンという根菜は存在しない。穴が無用だからどうしても埋めたいと思うのなら、からしレンコンにして食べてもらうしかない。

こんなことを言い出すとキリがないほど無用は氾濫しているし、それらの無用と神妙に向き合えば、存在したり発生したりしているかぎり、そこに有用を陰ながら支える用があることにも気づく。身近にあって、本来無用のものが有用として供されている代表格はオカラかもしれない。あるいは、日々の新聞と一緒にやってくるチラシの類。片面印刷のチラシは裏面をメモにできるという点で無用の用を果たしている。他方、内容にまったく興味のない、両面印刷されたチラシは役立たずか。そうともかぎらない。紙ヒコーキや折り紙になってくれるかもしれないし、何かを包むのに使われているかもしれない。


無用の用が価値ある有用を逆転していることさえある。すでに別のオーナーに代替わりして別の料理店になっているが、二年前まで肉料理を出していた鉄板焼きの店があった。夜に人が入らないので店じまいしたようだが、ランチタイムはそこそこ賑わっていた。正確な値段を覚えていないが、たぶんステーキ定食が1200円前後、切り落しの焼肉定食が800円前後だったと思う。いつ行っても、誰もが切り落しを注文するばかりで、ステーキを食べている人を見たことがない。ちなみに切り落しというのは、もともと演芸場や劇場の最前列の、大衆向けの安い席のことだった。舞台の一部を「切り落して」設けたのである。これが転じて「上等ではなくて半端なもの」を意味するようになった。

さて、ブロック状のロース肉の有用なステーキ部分以外の肉の端っこを切り落す。むろん本体よりも切り落しのほうが量は少ない。しかし、これだけ切り落しに注文が殺到すると、ステーキ用の上等な聖域をも侵さねばならない。そう、無用な切り落しでは足りないから、ステーキ部分を削ぎ落としてまで使うのである。切り落しが主役を脅かす結果、もはや主役に出番はない。ブロックの塊すべてが切り落される。有用あっての無用だったはずの切り落しが堂々たる有用の任を担っているではないか。

ものの端っことは何だろう。それは、いらないものか、美しくないものか、商品価値の低いものか。かつてはそうだったかもしれないが、食べてみれば同じ。切り落しが400円も安いのならそちらに触手は動く。ぼくなどとうの昔にカステラの切り落しに開眼した。濃厚な甘みを好むなら「辺境のカステラ」のほうが絶対の買いなのである。ぶっきらぼうに袋に放り込まれているくらい何ということはない。ところで、割れおかきというのもあるが、よく売れるからといって、わざと割っているわけではあるまい。いや、肉の切り落し同様に、無用の用が逆襲している可能性もあるだろうか。

プロとアマの境界

イタリア料理の話から始める。ぼくはパスタが大好物である。もっと正確に言えば、麺類一般が好きなのである。だから、うどんの話でもラーメンの話でもいいのだが、ここ最近もっともよく食べているのがスパゲッティやショートパスタなので、手っ取り早くイタリア料理から文章を起こすことにした。

昨年秋から先月にかけて10軒ほどのイタリア料理店を訪れた。この店のパスタはさすがプロの技であると脱帽したのはわずか一店のみ。残りの店はぼくが自宅で一工夫すれば調理できる程度のものであった。だからと言って、レベルが低いとか不味いというつもりはさらさらない。ほとんどの店が出したパスタ類には合格点をつけてもよい。つまり、ぼくのパスタもプロに伍して合格というわけである。その昔、喫茶店でよく食べていたミートソースやナポリタンをぼくたちは本場イタリアでも食べているだろうと信じていた時代があった。今では、わが国のスパゲッティは本場に追いつき、半数以上の店では追い越したと言っても過言ではない。

要するに、プロの料理が一般に浸透して身近になり、同時にアマチュアも腕を上げたのである。イタリア料理専門店ではないビアホールのパスタだってひけを取らない(去る火曜日に食べたカヴァッテッリの出来はすぐれていた)。プロフェッショナルにとっては専門外の料理店も家庭もライバルになったということである。ぼくの知り合いのお米の専門家によれば、家庭炊飯のレベルが格段に向上したので、うかうかしているとお店のライスが家庭の味に負けてしまう事態になっているらしい。お家ごはんも決して侮れないのである。


パスタとごはんから話を餃子に転じてみると、シーンは一変する。店で食べて旨いと唸った餃子をテイクアウトして自宅で焼いて食べる。するとどうだろう、店で食べるほど旨くないのである。よしんば火加減も鉄板の厚さや湯の注ぎ方を工夫したとしても、釈然としないものがある。同じ餃子を焼いているのだ。違いはどこにあるのか。たかが餃子されど餃子、店で作る人と買って自宅で作る人の間に「見えない紙一重」の差があるとしか思えない。

家具職人や工芸の匠などの手さばきや細工を見ていると、乗り越えられない壁が聳えるように見える。超然とした差異、すなわち、ただ驚嘆するしかない彼我の技量の差は、紙一重どころではない。それに比べれば、ぼくが従事している企画業や教育の世界など、ほとんどプロとアマの差がない。専業主婦がプロの企画マンを軽く凌いでしまうコンセプトを生み出すし、広告コピーライターが悪戦苦闘しても捻り出せないコピーを易々と書いてしまう。昨日講師デビューした人がキャリア30年の先生を逆転することなど珍しくもない。

それだけ奥行きのない業種なのか。いや、そうではない。企画にしても教育にしても知を扱う。そして、知の世界にはもともとプロもアマもないのである。どちらかと言えば、知的職業というのはパスタ料理に近く、ぼんやりしたり油断したりしていると、すぐさまプロがアマに追いつかれてしまうのだ。いや、ぼくが見るかぎり、アマがたまたまプロをやっているケースも多いのである。アマチュア恐るべし! なのだ。しかし、このことは、企画や教育がきわめて日常的であることを意味している。そして、日常的であることは、プロにとって決して悲観すべき材料ではない。企画や教育のプロはどこかでかぎりなくアマチュア的でなければならないからだ。では、プロとアマが拮抗するそのような世界にあって、両者に一線を画するものは何か。それは、目に見える具体的な熟練度などではなく、プロ意識という精神性なのだろうとぼくは考えている。 

また別の機会に……

まとまった休みを前にして、おそらく世間の誰もがそうするように、ぼくもあれをしようこれをしようと前もって行動を定める。この日に何々などの無理算段は決してしないが、5日間なら5日間でやってみようと思うことを大まかにスケッチはしてみる。ところが、夏真っ盛りの盆休みも年末年始の正月休みも、そして昨日までの大型連休も、季節は変われどもいっこうに変わらぬ自分がいる。毎度毎度、想定したほどの行動をやり遂げることはめったになく、成果もせいぜい七、八分止まりなのである。

そんな後味の悪さを残すくらいなら、何も考えずに、いっそのこと無為徒食を決め込んで居直ればいいのに、その勇気さえ持たない。予定を立ててもしっくりいかないていたらくなのだから、行き当たりばったりの惨状は推して知るべしだろう。結果が思惑違いになろうが、弱い精神の持ち主にとっては何がしかの小さな計画は一敗地にまみれないためのせめてもの抵抗なのである。

と言いつつも、悔やんでも悔やみきれない休暇を過ごしたわけではない。読もうと思って手元に置いた本にはだいたい目を通したし、自宅から東西南北すべての方向へと数時間ばかり散策もしてみた。うまいものも食った。人混みに辟易してすぐに帰ってきたが、ある日の午前中には行楽地へも出掛けた。『不思議の国のアリス』の原本との違いと連動性を確かめるべく、3Dではないが『アリスインワンダーランド』も観てきた。ついでの力を借りてルイス・キャロルの『不思議の国の論理学』も再び拾い読みしてみた。予定した以外の時間にもそれなりにやっただけの意義はあったかもしれない。


「また別の機会」はめったにないと思っている。いま疑問に思ったことを調べなければ、明日以降に調べてみようと思い立つ確率は間違いなく小さくなる。食べたいものは食べたいときに口に運ぶべきで、チャンスを逃すと永遠の先延ばしスパイラルに陥ってしまう。調べものも食事も、その他すべてにおいてこのことわりは生きている。

とある本に、本題から脱線した話が出てきた。その脱線話を途中まで書き綴っておきながら、著者はふいに閑話休題として話を元に戻す。このエピソードはおもしろいのだが、これ以上語り続けると、この文章のテーマから外れてしまうから、また別の機会に譲りたい、と著者はやめてしまうのだ。おいおい、それはないだろう、そこまで言っておいて読み手を興味津々にさせながら、別の機会とかわされては困る。いったいぼくは別の機会にあなたが書くであろうその話にどうすれば巡り合えるのか。あなたの書くエッセイをずっと追い続けるのは非現実的ではないか。

読書の世界で別の機会はないだろう。読んでみたいという衝動をいま満たさずして、後日縁があればお読みいただきたいでは納得がいかない。そう言えば、「この話は別のところでも書いたので繰り返さないが……」という言い回しにもよくお目にかかる。悪いけれど、あなたの本をそんなにたくさん読んでいるわけではないから、けち臭いことを言わずに概略でも繰り返せばいいではないか。熱心な読者ばかりではないのだ。

この話をもっと書きたいが、「また別の機会」にしたい。こうぼくが書いてもさほど問題はない。今のところ、ぼくの駄文発表の本拠地はこのブログだけであるから、近いうちに続編をお読みいただけるはずだ。「近いうちに」も「またの機会に」も同じことかもしれないが、書店に行ってぼくの著作を探さなくてもよい分、こういう逃げ方はさほど罪深くはないだろう。 

考えることと考えないこと

すでにゴールデンウィーク真っ只中の人たちもいるが、世間一般的には明日からの5日間が大型連休になるのだろう。この時期と秋のそれぞれに5連休を設けようと政府が休日分散化案(あるいは地域別連休案)を練っているのはご承知の通り。スムーズにいけば、2012年度から実施する意向のようである。

ハイシーズンゆえに割高になる旅行費用、それに観光地集中による交通渋滞への対策らしい。観光庁長官によれば、「観光市場の拡大のみならず、国民が心豊かに暮らすための生活の質の変化」(毎日新聞)を睨んでいるそうだ。余計な世話を焼くものである。「生活の質の変化」などは個人が日頃から心掛けるべきであって、政府の政策や環境整備などとは直接的につながるものではない。長蛇の列に並ぶのも渋滞に巻き込まれるのも、絶対に嫌なら避けることができる。そういう状況を覚悟しながらも、(自宅でのんびりせずに)人気観光地へと出向くのは個人の自由裁量である。

閑古鳥の啼く観光地と長蛇の列を成す観光地の格差は休日とは無関係に存在する。分散化しようが地域別にしようが、人気スポットは変わらないから、どんな休日であっても混む場所は混む。もし混まないときに行きたいのであれば、平日に休暇を取って行くのがよい。そう、最上の休暇は個人もしくは家族にカスタマイズされた休暇にほかならない。ところが、政府はこう主張する、「有休取得と声を上げても進まない」と。ところが、「地域分散化によって休暇への意識を高め、これにより有給休暇を取得する動機になりうる」とも言う。ほら、結局有休取得に答えが落ち着くではないか。国の休暇案を動機にするまでもなく、個人が内なる動機にさっさと火をつければ、個性的で「心豊かな」休暇への第一歩を踏み出せばいいのだ。自分の生き方くらい自分で設計すべきではないか。


いかにも彼らは考えているようだが、大企業サラリーマンと公務員の視点に偏っていて、生活と仕事の関係や休暇の本質についてはほとんど熟考できていない。人気観光地は年中割高なのだし、人で混み合っている。休暇を分散化し地域別にしても混雑は緩和しない、いや、そうすればますます集中する可能性だってあるのだ。職場に気遣って有給休暇をまともに取れないような人間が、国にアレンジされた休暇を楽しめるはずもない。繰り返すが、最良の休暇は誰にも気兼ねなく、自分の意思で選択し愉しむ休暇である。昨日オープンしたクリスピードーナツ心斎橋店で最大6時間並ぶのも自由、見向きしないのも自由である。

『考えることと考えないこと』というタイトルでぼくが明らかにしたいのは、考えてわかることと考えないからわからないことの対比、そして考えてもわからないことと考えなくてもわかることの対比である。各界の意見に真摯に耳を傾け幅広くヒアリングを重ねてわかることもあれば、そうすればするほどわからなくなることもあるのだ。ぼくは仕事柄「よく考えること」を鼓舞するのだが、あまりにも純文学的に説くのは誤解を生むのではないかと最近反省している。

「考える」という行為は「考えない」という状態とセットにしなければならない。「よく考えよ」という教えを額面通りに受け取ってもらっては困るのである。「考えない」あるいは「考えなくてもいい」があるからこそ、「考える」ことの意味や出番があるのだ。ちょうど「息を吐け」の文脈に「息を吸え」が暗黙のうちに包含されているように。考えるには、詮無いことを考えない、あるいは考えても仕方のないことを考えないという相反状態がなければならない。国民の心豊かなライフスタイルについて考えに考え抜いた結果が休日の分散化もしくは地域別休日とは、思考エネルギーの注ぐべき方向違いと言わざるをえない。  

好き嫌いのスタンス

日常生活の大小様々な意思決定の主役が理性的判断などと言うつもりはない。もちろん服飾品にしても文房具にしても、どんなものを用いるかにあたって各人それぞれが理に適ったものを使っているはず。しかし、理性そのものが支配的であるわけがない。日々の意思決定には、好き嫌いという、本人にはきわめてわかりやすい感覚のスイッチが働く。オンかオフの行方が決まってから理性による自己説得という手順になるものだ。

とは言え、好き嫌いは不安定である。「何色が好き?」と聞かれて「白」と胸を張って答える人がいないわけではないが、何から何まで白で装うのは非現実的だ。わが国のしきたりに従えば、葬式に白ずくめはまずい。黄色のシャツが好きだからといって、男性で黄色の靴も好きという人を知らない。茶色が嫌いでも、コーヒーが好きなら茶色の液体を口に入れる。

敢えて一色ということになれば、ぼくは青色を好むが、身に着けるときはさほどではない。と言うよりも、芸能人でもあるまいし、青に執着していては日々の衣装や仕事着に困る。青を好む性向はおおむね青を基調とした風景や絵画に対してであって、カーテンや調度品が青いのは願い下げだ。但し、水性ボールペンや万年筆のインクはすべて青色である。まあ、こんなふうに何から何まで好き嫌いを貫き通せるものではない。


広告の仕事をしていた頃、あるスポンサーの部長が「ここのところは赤がいいねぇ。ぼくは赤が好きだから」と洩らした。好き嫌いの尺度である。広告のデザイン要素と絵画は少し違う。好きな絵は好き、嫌いな絵は嫌いでいいが、広告という、複数スタッフが関わって制作される企業の媒体は市場に働きかけて何らかの効果を出さねばならない。この色がいい、このコピーがいいなどと私的嗜好性だけで制作を進めるわけにはいかないのだ。全員一致の科学的根拠を踏まえよなどと言っているのではない。企業として説得や効果に関して何がしかの指標や基準があってはじめて、妥当と思われる色使いなり文章なりが決まるのである。そんな面倒なことが嫌ならば、有名デザイナーやコピーライターに丸投げすればよろしい。

禅宗に「五観ごかん」という教えがあり、その三つ目に「しんを防ぎ 過貪等とがとんとうを離るる」がある。心を正しく保ち、過った行ないを避けるために貪りの心を持たないという意味である。要するに、くだらぬ好き嫌いに拘泥するなということだ。五観の偈は「食事五観文」とも呼ばれ、特に食事に関する戒めを説く。ここで道徳的な説教を垂れるつもりはない。あれが好きだ、これは嫌いなどと食材に文句を言っているようでは、世の中生きていくうえでさぞかし数々の障害物にぶつかるだろうと思われる。なぜなら、嫌いなことが好きなことを圧倒しているからだ。

幸いにして、たしなみの頻度を別にすれば、ぼくの食の嗜好は偏っていない。出されたものはつべこべ言わずに何でも食べる。同様に、対人関係にも好き嫌いを持ち込まない。ぼくにとっては人物の好き嫌いなどよりも意見の相違のほうが関心事なのである。たとえば議論の際、好き嫌いだけで主張をされては困るが、理性の前段階に感覚というものがあって、そこに好意と嫌悪の情が介在することをぼくも認める。しかし、なぜ好きかなぜ嫌いかを説明するのは容易ではない。説明不可能なことを議論の対象にしても空しいばかりである。 

今日は会読会の日である。みんなそれぞれの気に入った書物を一冊選び読んでくる。ここまでは好き嫌いの判断でいい。しかし、その書評を仲間に公開する段になれば、理性的処理によって解説ないし啓発しなければならない。好き嫌いの次元で講評するような話に熱心に耳を傾ける気はない。好き嫌いにはコメントできぬ。これはぼくの嫌悪感の表明ではない。せっかくの書評にぼくは大いに関わりたいのである。 

ぼくは恐いおじさんである

久しぶりにまずまずの陽射しに恵まれた先々週の土曜日、いつものように散歩に出掛けた。くねくね歩き続けているうちに、とある雑貨店の前に出た。店の前にいわゆる「ママチャリ」が止めてあって、その傍らに幼稚園児らしき女の子が固まったように立っている。不安そうにも見えた。こういう状況に出くわすと、知らん顔できない性分なのである。

「何歳くらいかな? 6歳くらい?」と聞くと、首を振り「5歳」と答えた。「6歳くらい?」と尋ねたのは、その子が大柄だったからだ。「5歳だったら、幼稚園でも大きいほうだね」と言えば、うなずいた。その表情には緊張感が走っている。とは言え、不安そうな緊張感はぼくが店に近づく前から遠目にうかがえた。「お母さんはお店の中?」などと確かめる。どうやら買うものが決まっている母親が、少々の時間外で待たせておいたような雰囲気である。ぼくは店に入り、商品を物色しながらもしばらくその女の子を気に止めていた。

その雑貨店で何かを買おうと思ったわけではないが、店内を奥へ進めばアロマコーナーがあった。時々ヒーリングインセンスなるお香を部屋で用いるものの、アロマポットは持っていない。驚くほど安いアロマポットが置いてあり、買うことにした。アロマオイルも何種類もあるので、テスターを順番に嗅いでいた。ちょうどその時である。店の外で堰を切ったような女の子の泣き叫びが轟いた。間髪を入れず、「どうしたの!?」という母親の響く声。たとえわずかな時間とはいえ、一人店外で母親を待つ不安でいっぱいだったのだ。泣くのはしかたがない。ともあれ、母親の買物が終ったようで一安心だ。


外の様子はぼくには見えなかったが、泣きじゃくる娘に話しかける母親の声はよく聞えてきた。耳を傾ければ、どうも様子が変なのである。「誰かに何か言われたの!?」とか「何か変なことされたの!?」と詰問しているではないか。そんな時間が数十秒続いただろうか、やがて女の子の泣き声は遠ざかっていった。この時点でぼくは合点がいったのである。

女の子は一人にされて母親を待つことにこわばっていたのではない。ぼくが遠目に見た女の子の不安な表情は、女の子がぼくを遠目に見た結果だったのである。陽射しが強かったその日、ぼくはサングラスをかけていたのだ。このサングラスは他人が見れば濃いのだが、ぼくが見る景色や物などの色合いは肉眼とさほど変わらない。帰宅しても普段の眼鏡に替えないでそのままかけていることさえあるほどだ。ぼくは自分がサングラスをかけていることをすっかり忘れていた。

女の子は遠目に見たサングラス姿のぼくを恐いおじさんと感知したのである。ぼくに限らず、サングラスはどんなひょうきん顔でもコワモテに変貌させる。ぼくには恐いおじさんのアイデンティティはないはずだが、その子にはそう見られた。誰にどう見られても気にしないほうだが、ここはそうも言っておれない。人は見かけによらないし、人は見かけ通りであったりもする。人は一つのスタンスで生きているつもりながら、他者からは多種多様なスタンスの人間に見られている。

この小さな一件はなかなか意味深長である。子どもは正直に喜怒哀楽を表してくれるが、大人は人間関係上我慢してノーをイエスと言っている。「恐いおじさん」や「変なやつ」と思っていても、ふいに泣き出したり逃げ出したりしないから、状況不変だからといって安心してはいけない。大人の世界では泣きや怒りはなかなか顕在化しないのである。

日々の「わからない」

アイスランドの火山爆発による航空事情はほぼ平常に戻ったようだ。早速、例によって経済損失がはじき出された。一日あたり2億ドル、日本円にして1,850億円の損失だそうである。なぜ貨幣単位の損得で事態を把握しようとするのかがどうもよくわからない。

大小様々な自然現象は起こる。人間が何をしていようが、そんな都合におかまいなく地球はマイペースで活動する。その結果、「被害」という概念が生れるのだが、身勝手な話である。地球から資源を欲しいまま取り込みながら、そのことの経済利得には知らん顔しているではないか。それよりも何よりも、なぜ自然現象による影響を経済指標に置き換える必要があるのか。

まもなくゴールデンウィークを迎えるが、またぞろ一日いくらの経済効果などと言い出すのだろう。自然を、楽しみを、日々の活動を何でもかんでも金銭に換算するのは無粋な話である。


オフィスから二、三分歩き大川の対岸に沿って行けば造幣局がある。十数年ぶりに通り抜けてみた。観光ガイドブックのテーマにもなっている「日本人と桜」に惹かれてか、外国人観光客も少なくない。桜を愛でるのも悪くはないが、桜を愛でる人たちを眺めるのもおもしろい。カメラを接写で構えて微動だにしない人、一目散に通り抜ける人、枝に触るなとアナウンスがあるのに触る人、ろくに桜も見ずにずっと世間話をしている人、先日どこどこの桜を見てきたと講釈するばかりで今に集中していない人……。

投句箱がある。詳細はよくわからないが、今年一句作って投函して入選すれば、来年に桜の木にぶら下げられるようだ。つまり、今年掲げられているのは昨年訪れた人たちの句である。ぼくの見たかぎり、およそ半数の作品の下の句が「通り抜け」で結ばれていた。佳作か秀作ゆえに咲き誇る桜の木々に吊るすのだろうが、必ずしも花見に一興を添えているとは思えない。「ロマンスが 生れそうです 通り抜け」にはまいった。いまどきロマンスである。しかも、通り抜けしながら生れてきそうに思うらしいのである。もう一句、「アンニョンハセヨ ニイハオハロー 通り抜け」。国際色を反映してはいるが、これで秀逸とは選者も甘い。俳句のよさもわかりにくいが、通り抜けとの関係が皆目わからない。


これまたオフィスの近くに新しい飲食店がオープンした。勉強会後の懇親会に使えないかと思い、試しにランチに出掛けてみた。店は閉まっている。たしか先日通りがかった時には昼も営業していたはずなのだ。近づくと貼紙がしてあって、「換気装置故障のため、しばらくランチタイムの営業を致しません」と書いてある。

ところが、夜は営業しているのである。これでは換気装置の故障がお昼を休む説明になっていないではないか。わざわざ具体的な装置故障の理由を知らせることはない。なぜ「しばらくの間、夕方からの営業とさせていただきます」と貼紙しないのか、これもよくわからない。

サプリメント依存症候群を嘆く

依存までは至らなかったが、仕事や出張で多忙な時期に体調を気遣ってサプリメントを用いていたことがある。特にビタミンとミネラル系、それに宴席の後に肝臓によさそうなもの。なければないで何ともなかったが、常備していたので必然習慣的に常用することもあった。効能実感はほとんどなかったと思う。現在は、思い出したように時折りビタミンやウコンを摂るが、一種のまじないである。もちろん、まじないすら信じてはいないが……。

昨年6月渡米した折りに、土産代わりに総合サプリメントを二箱買ってきた。結果的に土産にならずに自家消費していて、まだ一箱目の途中である。個包装になっており、その一袋に大小様々な固形の粒が10種類ほど入っている。そのうちの半数がふつうの人では飲みづらいほどの大きさだ。この個包装の品目すべてを喉から胃に送り込むには訓練が必要だろう。アメリカ人は何でも大きなものを好むものである。

ちなみにサプリメントは英語で“supplement”と綴り、「サプラムント」のように発音する。よく使われる形容詞が“supplementary”で、こちらは「サプラメンタリ」と発音する。この形容詞は後に“toを伴って「~を補足(補充、追加)する」という意味になる。つまり、サプリメントとは「主なるもの」に対する副次的存在なのである。今さら強調するまでもなく、「不足を補う」という基本概念が転じて、書籍や雑誌などの「補遺、付録」に使われることが多い。たとえば正規の主教材に対して、副教材などをサプリメントと呼ぶわけだ。


日本では自明のようにサプリメントを栄養補助食品や健康補助食品の意味で使っているが、英語はもっと汎用的である(常用の昭和55年版と古い英和中辞典にも新しいオックスフォード英英辞典にも、“supplement”に栄養や健康のサプリという定義は見当たらない)。栄養や健康のサプリという場合は“dietary supplements”、具体的に“vitamin supplements”と言う。但し、コストコなどの売場で「サプリメントを探しているが、どこに置いてあるか?」と聞けば通じるだろうし、実際にぼくはそのように尋ねて教えてもらった。

好事家的薀蓄という悪い癖が出た。「主あっての副」が忘れられつつという主張が本旨である。主の足りないところを補うのがサプリメントであるはずなのに、「主なき副」に依存するとはどういうことか。飽食の時代にサプリメントなる副食は不要だろう。いや、偏食気味だから補うのだと言うのか。それならば、主食において偏食を是正するのが筋である。セサミンよりもゴマを、DHAよりも青魚の全食――アタマからシッポまでを日々実践すれば済むことなのだ。

サプリメントの話は生き方や学び方全般に通じる。主が「ケ」という日常生活に根ざし、副が「ハレ」という非日常行事に現れるのである。たとえば、日々仕事をしているからこそ「仕事術」というサプリメントの学習に意味がある。自力で何事かを成そうとし、それでも足りない何かをほんの少量、外部から調達するのが学びのまっとうな姿なのではないか。ろくに仕事もせず仕事をしようともしない連中を集めて職業訓練を施しても、主なき副だけの成果など期待できない。過剰摂取したサプリメントは放出されるか内臓に沈積して副作用をもたらす。決して日常生活世界の活動にうまく取り込めないのである。

アマノジャクな読書観

平成20年に国会で国民読書年の決議がおこなわれ、今年がその〈国民読書年〉であることをご存知の方も多いだろう。ちなみに「こくみんどくしょねん」と入力したら、「国民毒初年」と変換された。何だか初めて食べるフグの毒にあたりそうな雰囲気だ。たとえ文字離れに読書離れが進んでいるとは言え、また出版界に少数の勝ち組が出現するものの頻度は稀で大半が発行即消滅というご時勢とは言え、国民の読書人口の逓減を国家や有識者や出版業界に嘆いてもらうことはない。

国民読書年のスローガン、「じゃあ、読もう。」が情けなさに輪をかける。「じゃあ」はどんな叱咤や説教に反応しているのか。「きみ、本を読んだほうがいいよ」とか「立派な人間になりたければ読書が一番だ」とか言われての「じゃあ、読もう」なのか。たしかに「そこまで言うなら、しかたがないな、読んでやろう」と聞えてくるようでもある。意地悪じいさんのようにひねくれずとも、そのような含意を感じてしまう。

そうではなく、「みんな本は好き? じゃあ、読もう」というニュアンスか。それなら、幼少年期に一斉にみんなで本を読もうというのもいいだろう。読書が教養の基礎になるのは自明だから、早い時期に習慣を刷り込んでおくことは悪くない。だが、国民全体を視野に入れれば、一人前の人間に読書の必要性を説いたり書物への回帰を促したりするのは余計なお世話だ。読書体験はあくまでも個別なものであり、何をどのように読むか、いや、読むか読まないかまで自分で画策すればよろしい。

印象的なユダヤ格言がある。「ユダヤ人は本を読まない。本を書く」というのがそれだ。なるほど、本を読むのは消費行動であり本を書くのが生産行動であるならば、経済的には本を書くほうが理に適っている。だいたい、インプット過剰でアウトプット不足というのが一般人の知の収支状況だから、赤字から黒字に転換するには、勉強という仕入れをほどほどにして創造や表現を志向すべきだろう。学ぶ者以上に教える者が学ぶのは真理である。好きでもない本を無理やり読むくらいなら、ブログの一つでも書いているほうが勉強になるのかもしれない。


人からどうのこうのと言われて読書するほど不愉快なことはない。「読め」と命じられたら読みたくなくなるし、「読まなくてもいい」と慰められたら読んでみたくなる。とりわけぼくなどはへそ曲がりなので、自分の読みたいように本を読めないのならば、本など読む必要がないとさえ思っている。成人がこの場に及んでハウツーづくしの読書術を指南される姿は決して格好のいいものではない。

どういうわけか、ぼくは周囲の人たちから読書家と思われている。正直に言うと、中高生の頃は、本を読むのが好きだったわけではなく、むしろ苦痛に感じていたのである。活字を追うよりも絵を見るほうがわくわくしたし、ページを捲るよりも音楽の流れに乗るほうが好きだった。だいいち、どんなに本を読んでも内容を覚えていることなどめったにない。それでも「読まないよりは読むほうがいい」と思いなして、無理に読んでいただけの話である。

しかし、これではあまりにも情けないので、絵画や音楽に親しむように読んでみようと心掛けた。絵は何度も見るし音楽は何度も聴くではないか。せっかく読んだのだから何がしかの成果をアタマに残しておきたい、ならば本も再読すべきなのだろうと思った。しかし、記憶しておいてどこかで使ってやろうなどという魂胆はない。ぼくにとって読書は純然たる教養行為であるか、あるいは思考を誘発するためのきっかけにすぎない。だから、目次に目を通し、少し読んでみて教養にも思考の刺激にもならないと判断したら、中断する。また、冒頭の書き出し数行で立ち止まり、そこでずっと考えて残りのページを読まないこともある。

そのような読み方も含めれば年間百冊ほどの本を読んでいるだろうが、この歳になって何冊読んだとか、どんな本を読んでいるかを自慢してもしかたがない。職業的読書人ならともかく、ぼくたちは誤ってディレッタンティズムに陥ってはいけないのである。 

「一生に一度は」という軽さ

先週、久しぶりにTBS『世界遺産』を見た。劣化が著しかった壁画『最後の晩餐』。その大修復は1999年に完了した。要した歳月はなんと22年! しかも、その修復を手掛けたのはたった一人の女性であった。その女性が歴史上の名画誕生と再生のエピソードを語った。

教会の壁画のほとんどは漆喰の上に顔料を塗って仕上げるフレスコ画で描かれる。半永久的に保存可能だ。但し、漆喰が乾ききる前に手早く絵を描かねばならず、また色の種類にも制約がある。レオナルド・ダ・ヴィンチは遅筆だったため、フレスコ画を苦手としていた。しかも、丹念に多色を重ねられないのも彼の嫌うところだった。したがって、当時としては珍しく晩餐をテンペラ画で描いたのである。見る人すべてを唸らせる名画になりえたが、手法的には完全に失敗だった。描いてから数年後には絵具が剥がれ始めたのである。

番組を見ていて、200610月のミラノを思い出した。『最後の晩餐』見たさにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会まで足を運び、案の定「予約なしでは入れない」と断られた話。本ブログでもその話を書いた。番組で女性ナレーターが「一生に一度は見ておきたい名画」とさらりと言うではないか。その通り、今度ミラノに行く機会があれば、準備万端何ヵ月も前に日本で予約しておこうと思っている。


と同時に、別のことも頭をよぎる。そのような「一生に一度は」と修飾すべき体験の数々を強く願いながら、どれだけ未体験のままにしてきたことか。怠慢もあるだろう、時間不足もあるだろう。いや、そんな一生に一度の願いが分不相応に多すぎるのだろう。事は、世界遺産クラスの対象ばかりではない。一度は訪ねておきたい、一度は食しておきたい、一度は見ておきたい、一度は読んでおきたい……数え上げればキリがなく、歳を重ねるごとにそのような願望が増え続けるばかりである。

トランジットしたことはあるが、ぼくは上海の街を訪ねていないし、ドリアンなる果実を食べていない。『モナリザ』は見ているが、『最後の晩餐』を見ていないし、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない。こんなことを言い出すと、訪ねていない、食していない、見ていない、読んでいないほうが圧倒的に多いから、途方に暮れてしまう。加えて、「一度きりでほんとうにいいのか」と問いかけてみれば、「できれば、もう一度」という願望も膨らみ続けていることがわかる。「一生に一度体験」と「一生にもう一度体験」を足してみれば、一生ではとても足りないのである。

好奇心は飽くなきまでに「せめて一度」を求める。そして、そのような体験を望みながら、既決ボックスの件名数を未決ボックスの件名数が凌駕していくのを傍観している自分がいる。気がつけば、貴重な時間を費やすべき価値ある「一生に一度」がとても軽くなっているではないか。一生に一度という最上級の評価が安値になってしまっているのである。五万とある一生に一度の願望をうんと目の細かいフィルターにかけて、希少体験を絞り込むべきなのだろう。

 そうしてみた時、それでもぼくは『最後の晩餐』の鑑賞へとおもむくだろうか。