自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。

楽なように見えてきついこと

私塾大阪講座の今年度第1講が今日の午後に始まる。昨年までは午前10時から午後5時半までだった。ぼくにとってはまったく長丁場ではないが、昼食を挟んでの7時間半の思考鍛錬は慣れない人にはきつい。というわけで、本年の全6講は午後1時半スタート、6時半終了の5時間に変更した。午後からという気楽さ、二度か三度の休憩を挟んでの5時間は取り組みやすい。

しかし、この変更は「気楽にやれて、取り組みやすそうだ」というカモフラージュにすぎない。時間短縮は時間密度の高まりを意味する。なにしろ、ぼくの場合、時間量に合わせて講座を企画し話しているのではない。こんな講座でこういう学びと鍛錬機会を得てほしいと構想して、その内容をすべて盛り込むのが流儀なのだ。したがって、時間の多寡で内容は大きく変わらない。短時間になればそれだけきついというわけである。


道具は便利である。かんなは木材の表面を滑らかにしてくれたし、自動車は徒歩一日かかる場所へほんの12時間で連れて行ってくれるようになった。いろんな便利があるが、最たるものは出来の良さ、負担軽減、そして時間の効率だろう。とりわけ携帯電話や最新IT機器がこうした効率に関わる不便を便利に変えたのは間違いない。

ところが、便利になった一方で、人間から何かを引き算するのも近年の道具に共通する特性だ。鉋あたりで止まっている道具のほとんどは、見事な出来映えを可能にし、使い手の作業の負担軽減とスピードアップに寄与している。他方、携帯やIT機器はどうか。これらを使わなかった時代の人々に比べて現代人が格段にいい仕事をしているとは思えない。また、仕事を楽々こなしているようにも見えないし、短時間労働で切り上げて余暇を楽しんでいる様子も窺えない。

ぼくは楽になるためだけに道具を使うまいと心に決めた。道具は自分一人で達成できない仕事の質や生活の質の向上に用いるべきだろう。道具の価値を効率的便利だけに置くのをそろそろやめたほうがよさそうだ。道具に囲まれて送る日々の仕事や生活は、逆説的にとてもきついのである。


「きみは何をしたいのか?」を問うことは、「きみが他者、ひいては世間に何を施したいのか?」を問うことと同じである――こう言っておいて、あとは知らん顔したら、彼は意味がわからないようで苦悶していた。

「何かをしたい」は願望である。この願望が現実に叶うためには、好き勝手であっていいはずがない。その願望が行動になることを他者が求めてくれないかぎり、願望が実現する場所はない。人間社会というのはそうなっているのである。自分のしたいことは他人が求めることと同じであり、願望と施しは表裏一体でなければならない。

これは他者や世間のニーズに合った願望を持てということではない。そういう迎合的・反応的生き方をするならば、もはや願望ではない。「自分のしたいこと」が始めにありきでいいのである。その願望が他者や世間への施しにつながるように実現させる努力をするのだ。「夢や希望を持て」と訓を垂れるのは簡単だが、したいことをすることは実はとてもきついことなのである。

表現にみる発想の違い

日本語でも外国語でも初めて見る用語や不確かな単語は辞書で調べるのがいい。推測は危険である。推測のひどい形が、他人から尋ねられ、知ったかぶりしてでっち上げるケースだ。その昔、ビールを飲まない英語教師が、「先生、ビール瓶のラベルに書かれている”エル、エー、ジー、イー、アール”はどういう意味ですか?」と生徒に聞かれた。その教師は“l-a-g-e-r”と人差し指で綴り、「それは、より大きな、つまり大瓶という意味だね」と捏造した。

言うまでもない、“lager”は「ラガー」というドイツ語由来の「貯蔵」ということばだ。低温で貯蔵熟成させるビールの総称であって、“larger”(より大きな)とは綴りが違っている。捏造した教師はその場を切り抜けることはできなかった。なぜなら、尋ねた女子生徒が「そうなんですか。でも、小瓶にもその綴りが書かれているんですが……」と追い討ちをかけたからである。生兵法は怪我のもと。その道のプロと言えども、いや、その道のプロだからこそ、知らないことは確かめねばならない。

外国語に関して言えば、和製英語にたくさんの落とし穴がある。ぼくは1970年代の前半に数年間英語教授法の研究に携わりながら自らも英語講師として現場で授業を担当していた。ぼくが英語を学ぶ前から「ナイター」や「サラリーマン」などの和製英語はふつうに使われていた。なかなか創意工夫された表現だとは思うが、前者が“night game”、後者が、まったくイコールのニュアンスにはならないが、“employee”“office worker”である。さきほど和製英語ランキングというサイトを覗いたら、「オーダーメイド」「スキンシップ」「コンセント」の三つが上位を占めていた。それぞれ順に“custom-made” “personal contact” “outlet”が正しい英語と書いてある(但し、私見では、スキンシップ(和)とパーソナルコンタクト(英)を単純対応させるのは危険。文脈的翻訳が必要だろう)。


和製英語に厳しい向きもあるが、文化比較の材料になっておもしろい。もともとの英語が日本風土でなじめないとき、特に発音しにくい時にこなれるようにアレンジされる。連日サッカーの試合で盛り上がっているが、あの「ロスタイム」は和製英語である。試合の前半・後半のハーフ45分間のうちに「ケガなどによって中断され、失われた時間」を意味している。とてもわかりやすいが、不思議な表現だと思わないだろうか。「ロスタイム3分」というのは、「失われた時間は3分」と言っているにすぎないのだ。だから何、だからどうするかなどまで言及してはいない。

英語ではちゃんと言及している。“Additional time”(アディショナルタイム)と呼んでいて、失った時間を足して「追加の時間」と表しているのである。この一例だけで比較文化を気取るわけにはいかないが、とても興味深いではないか。わが国でロスタイムと「現象」を表現するのに対して、英語では「対策」のほうを表現しているのだ。わかりやすく言えば、「失う」ほうを強調するか「足す」ほうに力点を置くかの違い。時間を還付するのであるから、英語のほうが適切だ。しかし、ロスタイムは言いやすくわかりやすい。

「ああ、失くしちゃった」と言うか、「さあ、足しちゃおうか」と言うかの違い。そして、「失くした」と言いながら「足す」の意味に転用している。それがロスタイム。まるで、「転んだ」を「起き上がる」に使っている感じだ。そう言えば、野球用語にも和製英語がいくつかある。たとえば、おなじみの「デッドボール(死球)」。これは打者に当たった後に転がったボールが主役。英語では“hit by pitch”で「投球による(打者の身体への)当たり」という意味で、目線は人に行っている。

ちなみに“bases on balls”とは「審判による四つのボール判定によって打者が一塁に出ること」。これを明治の時代に「四球」と訳した。感服する(ほとんどの野球用語は正岡子規が訳して広めたことはよく知られている)。この四球、メジャーリーグの中継を英語実況で観戦していると、ほとんどの場合“walk”と言っている。打って一塁へ走るのではなく、堂々と「歩いて行ける」からウォークだ。この四球とウォークの関係が、ロスタイムとアディショナルタイムの関係に似てはいないだろうか。ここでも前者が現象、後者が対策になっている。もちろん、興味本位に見つけた事例であって、二例を以て一般法則を導くつもりなどさらさらない。

インスピレーションと知の統合

世の中にはアイデアマンと呼ばれる人とアイデアがひらめかない人がいる。総合的な能力差がなくても、アイデアの質と量には歴然とした差が見られる場合がある。自ら企画の仕事に30年、また企画の研修や指導に20年携わってきて、なぜそのような差が生れるのかに大いに関心を抱き分析しようとしてきた。「地頭」の違いなどと簡単に片付けるつもりはない。もっと別の何かがあるはずだと思っている。この記事一回きりで結論が出るわけでもないが、ラフスケッチだけ描いておきたい。

「統合失調症」という精神の病については以前から知っていたが、最近ある本を読んでいたらこのことばが出てきた。精神分析の専門書ではないが、常識の喪失との関連で書かれていて興味深く、アイデアとインスピレーションを別角度から考察するきっかけになってくれた。統合失調とは、精神機能のネットワークが不全に陥っている状態である。認知症もその一つのようだ。たとえば、「~しなければならない」とか「~したほうがいい」と強く意識していても、実際はそれができないという状態である。この精神の病は、どこかアイデアが出にくい状態に似ているような気がする。

仮にぼくの弟の名前を「久左衛門」とするとき、誰かと会って「大坂久左衛門です」と自己紹介されたら、「あっ、弟と同じ名前だ!」と思う。時間をかけてわかるのではなく、瞬時にその人と弟の名が照合されて一致していることに気づく。久左衛門という名前の特殊性もあるが、それだけで頭が働いたのではない。それが「たつお」や「しょうじ」や「ゆういち」であっても、何らかの照合作用が起こるものである。しかし、まったく何とも感じない人もいる。


「ここにいる5人の中にあなたの知っている人はいるか?」と尋ねたら、彼(P)は一人ひとりをよく見て「いません」ときっぱりと言った。その数分後、5人のうちの一人()が彼のところへやって来て「こんにちは!」と声を掛けた。そして、「昨日はどうも」と言ったのである。結論から言うと、昨日の夜、PQの二人は他の複数の人たちとともに会話の輪に入っていた。PQと会話したのを覚えていたが、その人の顔を再認識することはできなかった。昨日の今日にもかかわらず。Pにとって、会話とQの顔は別物だったのである。

あることに部分的な強い関心があっても、そのことが本人の知覚全体の中で孤立していたり居場所を持たなかったりすることがある。他の事柄とつながらないからひらめきが起こらない。たとえばスプーンは口に食べ物を運ぶ道具としてフォークや箸と同じ群にあり、同時に相互に差異によって成り立っている。したがって、さほどの努力をしなくても、スプーンというモノまたはことばからフォークや箸は連想されるだろう。この種のネットワークが細かく広がっていれば「意外なつながり」、つまりインスピレーションが起こりやすい。

他人にとって無関係に思える二つのものが、アイデアマンにとっては関係性の事柄どうしに見えている。エドワード・デ・ボノはたしか「無関係な願望」と「目新しさ」の強い関連を指摘していた。また、うろ覚えだが、エドガー・アラン・ポーも「熟考とは深さではなく、広がりである」というようなことを言っていた。一ヵ所の垂直的深堀よりも複数個所の水平的連鎖のほうがひらめきやすいのである。複数の情報をよく取り込んでも、それぞれの情報を相互的に関連づけなければ、知が統合されることはない。これは習慣形成によるところが大で、要するにぼんやりと惰性で生活したり仕事したりしていては、アイデア脳が生まれないということである。 

他者の成長

あくまでも他者の成長についての観察と実感である。ぼく自身の成長についてはひとまず括弧の中に入れた。また、他者の成長を二人称として見るのではなく、三人称複数として広角的に眺望してみた。つまり、他者を間近にクローズアップするのではなく、少し距離を置いて親近感を薄めてみたのである。観察であって、冷めた傍観ではない。実感であって、ふざけた評論ではない。

十数年間付き合っていても、他人の気持などなかなかわからない。自我認識でさえ危なっかしいのに、他我の考えに想像を馳せるのは至難の業だ。しかし、樹木の根や幹の内部が見えなくても、葉の生い茂りぶりと果実の色づきや膨らみを観察できるように、発言や行動はしっかりと目に見える。内面的な概念や思考が言語に依存するというソシュール的視点に立てば、言動を中心とした変化――時に成長、時に退行――は知の変化そのものを意味する。

最盛期には、年に数千人の受講生や聴講生に出合った。ほとんどの人たちとの関係は一期一会で終わる。今も縁が続いている人たちは数百人ほどいるが、毎月二、三度会う親しい付き合いから年賀状社交に至るまで、関係密度はさまざまである。職業柄、他者を観察する機会に恵まれているから、十人十色は肌で感じてきたし個性の千差万別もよく承知しているつもりだ。人の心はなかなか掴めないが、言動に表れる成長に関してはかなり精度の高い通信簿をつけることができるはずである。

ぼくは自他ともに認める歯に衣着せぬ性格の持ち主である。毒舌家と呼ばれることもある。ほんとうに成長している人物には「たいへんよく成長しました」と最大級の褒めことばを贈る。だが、いくら率直なぼくでも面と向かって「きみは相変わらずだね」とか「ほとんど成長していないね」とは言いにくい。ゆえに、成長していない人の前で成長を話題にすることはなく、黙っているか、さもなくば「がんばりましょう」でお茶を濁す。裏返せば、「成長したね」とか「このあたりがよくなったね」などとぼくが言わない時は、「成長が見られない」と内心つぶやいているのに等しい。


たった一日、場合によってはほんの一時間でも、人は成長できるものである。決して極論ではない。他方、どんなに刻苦精励しようとも、何年経ってもまったく成長しない――少なくともそのように見える――ケースもある。周囲を見渡してみる。伸びている人とそうでない人がいる。昨年はよく成長したが、今年になって減速している人もいる。五年よくて五年悪ければ相殺されるから、結局は十年間成長しなかったことになる。三十歳だからまだまだ先があると思っていても、四十歳になってもほとんど成長していなかったということはよくある。もちろん本人は自分の成長をこのように自覚してはいない。誰もが自分は成長していると自惚れるものだ。

ところで、体力と精神力が低下すると知力が翳り始める。年齢と成長曲線の相関? たしかに加齢による心身劣化は不可避だ。しかし、加齢よりもむしろ不健康な習慣のほうが知の成長・維持を阻害する。不健康状態が長く続くと新しいことが面倒になり、これまでやってきた旧習に安住して凌ごうとする。うまく凌げればいいが、そうはいかない。毎日少しずつ人生の終着点に近づいているぼくたちだ、無策なら可能性の芽も日々摘み取られていくばかり。

成長には心身の新陳代謝、すなわち新しい習慣形成(あるいは古い習慣の打破)が欠かせない。そして、習慣形成に大いに関わるのが時間の密度なのである。成長は時間尺度によって端的に数値化できる。これまで二日要していた仕事を一日で片付けることができれば成長である。無用の用にもならないゴミ時間を一日2時間減らせば成長につながる。わかりきっていることを何度も何度も学び直すのもゴミ時間。その時間を未知のテーマを考える時間に回す。それが成長だ。つまらない人間とつまらない話をして過ごすつまらない飲食のゴミ時間を減らす。要するに、無為徒食をやめ、束の間の自己満足をやめる。失った貴重な時間を誰も損失補填してくれない。

ぼくの立ち位置からいろんな他者が眺望できる。ある人の過去と現在を比較できるし、その人と別の人の比較もできる。このままいくと彼は行き詰まるぞ……あの人はいいリズムになってきた……数時間前に会ったときから変わったなあ……いつになったらこの道がいつか来た道だということがわかるのだろう……こんなことが手に取るように観察でき実感できる。時間の密度と価値を高める生き方をしている人は伸びている。もちろん、ぼくも誰かによって成長通信簿を付けられているのを承知している。

固有名詞が消えるとき

固有とはそのものだけにあること。おなじみの固有名詞は人名や地名などの事物の名称を意味する。「イヌ」は普通名詞だけれど、「ラッキー」や「ポチ」は固有名詞ということになる。しかし、ちょっと待てよ、ラッキーとかポチと命名された犬はどこにでも普通にいるではないか。たしかに、まったく固有というわけではない。

広辞苑では、固有名詞を「唯一的に存在する事物の名称を表す名詞」と定義している。厳密に解釈すれば、名称の差異だけではなく個体の差異が重要なようだ。名前が同じでも、あそこのラッキーとうちのラッキーは違う。見た目が違う。仮に同じポメラニアンであっても、いずれの飼い主も個体差を見分けることができる。だからラッキーは固有名詞、というわけなのである。何が何でもどこにもない名前にしたいのなら、同姓同名を嫌うブラジル人のように延々とミドルネームを足し算するしかない。けれども、そんな呼称は面倒極まりないので、結局「ジーコ」と略すことになり、固有性は薄まる(それでもなお固有名詞ではある)。

動物や事物に名前を付けるのは、それらに「私の」や「われわれの」という所有意識や愛着を抱く時やその他大勢から区別したい時だろう。普通名詞のまま扱うのではなく、固有名詞を与えようと思い立つのは、個体としてのアイデンティティを容認したからである。ペットの犬や猫に名前を付けるが、市場で買ってきて、まだ生きている伊勢えびにニックネームは付けない。「そりゃそうだろ、食べる対象には名前は付けないよ」と言った友人がいたが、そんなことはない。一頭買いしている行きつけの焼肉店では、「本日の黒毛和牛 ハナコ 牝4歳」なる鑑定書のコピーがメニューと一緒にテーブルに置かれている。


ついさっきまで「ジローさん」と呼んでいたのに、ある瞬間から「あなた」に変わってもあまり違和感はない。なぜなら、そこにはジローさんと、ジローさんと呼んでいる人物の二人しかいないからだ。「ジローさん、あなたはね……」という同一文章内の並列も実際にある。仮にずっと「あなた」と呼び続けても、ジローの唯一的存在が否定されるわけではない。あなたという呼称は決して脱固有名詞的ではなく、二人の関係においてはジローと同等のアイデンティティを受け持っている。

ところが、サッカーのワールドカップを観戦していて、ぼくは固有名詞が消えるのを何度も目撃したのである。ついさっきまで「クリスティアーノ・ロナウドの華麗なシュート!」だの「メッシがドリブルで突破する!」だのと実況で叫んでいた。にもかかわらず、相手チームがフリーキックをしたボールがロナウドに当たっても、「ボールがロナウドに当たって跳ね返る」とは言わない。ボールは「壁」に当たったのである。あのロナウドが壁になって固有性を失うのである。

競馬にも同じようなことがある。厩舎で管理されているときは「ディープインパクト」と呼ばれている。レースへの出走が決まれば予想紙の馬柱にもその馬名が書かれる。武豊が騎乗して名馬と名騎手の名コンビがゲートを出る。だが、万が一落馬すれば、その瞬間ディープインパクトは名前を失うことになっている。稀代の名馬は、レースが終わるまで「空馬からうま」という無名状態になり下がるのだ。まだレースを駆けている他馬にとっては、邪魔な存在以外の何物でもない。

ロナウドは壁になっても直後にロナウドに戻るし、名馬は一度空馬になっても種牡馬としてスタリオンで繋養される。しかし、現実の人間関係や仕事の文脈でぼくたちがいったん固有名詞を失うと、ただの普通名詞として、あるいは名のないイワシや物体同然に扱われ続けるだろう。関係性の中で固有名詞的存在であり続けるのはたやすくないのである。手を抜いたり油断をしていると、「壁」と呼ばれ「空っぽ」と呼ばれてしまう。何としても最悪「あのオッサン」までで踏み止まらねばならない。

問いは思惑を表わす

あることについて問いは理屈上いくらでも立てることができる。たとえば天気に関してなら、「今日の天気はどうなりますか?」と聞いてもいいし、「今日は晴れますか?」や「今日、雨は降らないですね?」と尋ねることもできる。答える側の答えが「晴れ」に決まっていても、これらの問いの形式に応じて答えの形式は変わってくる。「どうなりますか?」に対しては「晴れるでしょう」か「いい天気になりそうです」だが、「晴れますか?」にはふつう「はい」であり、「雨は降らないですね?」と聞かれれば、「ええ、天気だと思います」となるだろう。問いも答えもバリエーションが他にもいろいろありそうだ。

余談になるが、日本語では問いの形式に忠実な肯定形や否定形で答えるのがふつうである。「あなたはXXXが好きですか?」という肯定疑問文に対しては「はい」が好き、「いいえ」が嫌いになる。「あなたはXXXが好きではないでしょ?」という否定疑問文に対しては、「はい、好きではありません」あるいは「いいえ、好きです」のような変則的応答をすることが多い。ところが、英語圏の人々は、相手が「XXXが好きですか?」と聞こうが「XXXが好きではないですか?」と聞こうが、問いの形式には振り回されない。好きなら「イエス」、嫌いなら「ノー」とはっきりしている。

さて、答えの方向性と表現の形式は問い方によってコントロールされる。すなわち、問う側が応答領域を絞ったり膨らませたりできる。この意味では、すべての問いは「誘導尋問」にほかならない。相手に機嫌よく答えさせるか、それとも挑発して感情的に答えさせるか――問う側に技量があれば、意のままに操ることができる。「どちら様ですか?」と「何者だ?」の違いを比べてみればわかるだろう。いずれの問いにも一定した応答できるならば、答える側もなかなかの腕達者である。


もちろん、まったく見当もつかないことやまったく知らないことを尋ねる場合もある。答えの行方が見えないケースである。しかし、そこに上下関係がある時、そして上位者が問う側に立つ時、ほとんどの場合、上位者は自分の思惑を反映した問いを立て、自分の望む方向へと答えを導こうとする。警察官による不審者への職務質問や被疑者への取り調べ、人事部員による応募者の面接などは典型的な例である。

さらに、答えの概念レベルさえ規定することもできる。「出身の都道府県」を聞くか「出身都市」を聞くかは尋問者の裁量だ。「趣味は?」と聞くよりも「好きなスポーツは?」と聞くほうが限定的である(スポーツ音痴は後者の問いに困るだろう)。「その鳥は黒かったかね?」と尋ね、相手が「たぶんカラスだったと思います」と答えたら、「鳥の種類を聞いているのではない! その鳥は黒かったのか、と聞いたのだ!」と一喝する。答える側は「すみません。はい、黒でした」と言い直す。詭弁は問いにも使えるのである。

上位者の誰も彼もが悪意に満ちているわけではない。しかし、上位者の想像力の欠如ゆえに、質問それ自体が意地悪になることはありうる。本人は素朴に聞いたつもりだが、答えようのない問い、答えてもジレンマに陥らせるような問いを発してしまっている。「なぜこんな結果になったのかね?」などは頻度の高い問いだが、ほとんど答えようがない。「あまりいい結果ではなかったね?」「はい」「同様の結果は将来起こりうると思うかね?」「おそらく、あるでしょう」「一人で原因分析をして対策を立てられるかね?」「私一人では難しそうです」「では、誰の知恵を借りればいい?」……このような連鎖的問いと「なぜだ!?」という一発詰問との違いは自明だろう。

誰かがミスをした。あなたは彼を呼び出して問う。「どうしてこんなミスをしてしまったんだ!?」という尋問が生産的であるはずがない。責めを負う側が問われるときに「なぜ」や「どのように」に対して適切な答えを返すことはほとんど不可能なのである。おそらく二者択一型の質問のほうが答えやすい。だが、二者択一の質問は狡猾な手法にもなりうる。「きみのミスは故意によるものか、それとも無意識によって起こったものか?」 尋問者がジレンマの罠を仕組んだ問いである。二者択一ならば、「故意です」はありえず、必然「無意識でした」と答えざるをえない。しかし、どうして人は己の無意識を意識することができるだろう。「何? 無意識? それなら精神の病だな」と決めつけられてしまう。尋問者の思惑を読み切れば、正しい答えは「わかりません」である。瞬時にその答えを見つけるのは容易ではない。 

声掛けとコミュニケーション

「誰々さんがいたので声を掛けた」。よく聞く話だが、この声掛けは自然にできたのか意識してのものなのか。たまたま目と目が合ったので儀礼的にしたのか、それとも無意識のうちに笑顔で「こんにちは、お元気?」と話しかけていたのか。お互い知り合いなのに声を掛けない人もいるが、ふつうぼくたちは知人友人を見つけたら声を掛ける。では、なぜ声を掛けるのか? こんなことについてあまり考えることはないだろう。仮に考えたとしても、うまく説明できそうにもない。

ちなみに、先日ぼくは知り合いの年長の女性を見掛けたが、声を掛けずに通り過ぎた。その女性はオフィス近くのビルのオーナーで、アパレル関係の企業も経営していた。そのビルの地階に紳士服の店を長らく出していて、ぼくは十数年来の顧客であった。よくスーツやネクタイを買っていたし、あまり文句も言わないので、店にとってはいいお客さんだったはずである。その店は数年前に閉店した。しばらくしてから別の場所で再開したとの案内はもらったが、新しい店には行っていない。まあ、とにかく店舗でぼくをいつも応対していたその女性だった。遺恨もトラブルもなかった。しかし、「あ、ごぶさただなあ」と内心思いながら、すれ違うだけだった。

むずかしい話をするつもりはない。日本人の場合、たとえば、エレベーター内で見知らぬ者どうしが挨拶を交わすのは稀だ。しかし、時折り、ホテルのエレベーターに先に乗っているぼくが「開ボタン」を押さえているのを見て、入ってきたご夫婦のどちらかが目を合わせて「あ、どうもすみません」と言う場合があるし、観光客らしいその二人に「どちらからお越しですか?」と尋ねるときもある。こんなふうに声掛けすることもあるのに、旧知のあの人に気づきながら、なぜぼくは知らん顔して過ぎ去ったのか。


一言でも二言でも声を掛け合うというのは一瞬の呼吸、理由なき波長感覚の仕業と言わざるをえない。しかし、そのような、間髪を入れぬタイミングだけが声掛けの引き金になっているのか。そうかもしれない。だいぶ前に混雑する駅のホームで高校の同級生とすれ違ったが、声を掛けなかった。こちらが気づき、相手が気づかなかった。これは一瞬の呼吸が合わなかったからかもしれない。また、別のときに別の友人にばったり遭遇してお互いに指を差して名前を言い合い、一言二言どころか、しばらく立ち話をしたこともある。おそらく一瞬の呼吸が合ったのに違いない。

しかし、ほんとうに一瞬の呼吸の合う合わぬが声掛けの決定的な要因なのかと自問すると、必ずしもそうとも思えないのだ。無意識のうちに声掛けするかしないかを何か別の要因によって決定しているような気がするのである。ぼくに関するかぎり、一つ明らかになった。それは、会話が愛想だけに終わりそうな気配を感じたら、自分から声を掛けないということだ。「だいぶ暑くなってきましたね」「そうですね」「扇子がいりますよね」「そうですね」「かき氷も恋しいですな」「そうですね」……実際にあった会話だが、ことごとく「そうですね」という機械的返事で肩透かしを食らいそうな予感があれば、めったに声を掛けない。エレベーターのような閉塞空間の場合のみ、やむなく最小限の儀礼的挨拶だけで済ます。

愛想トークが苦手。おまけに社交辞令が嫌い。かと言って、何かにつけて意味を共有化すべくコミュニケーションを企んでいるのでもない。そうではなく、話すべき何かを直感できなければ、敢えて声を掛けようとしないのだ。少なくとも、同じ知り合いでも「暖簾に腕押し」や「糠に釘」のタイプを見極められるようになった。コミュニケーションという大げさなものではなく、小さな話題でも意思疎通へと開かれそうか、すぐに閉ざしてしまいそうかを、たぶん直感している。ぼくは、アルゴリズム的な音声合成人間にはめったに声を掛けないのである。

効率的な仕事――検索を巡って

「思い立ったが吉日」にひとまず凱歌があがった昨日のブログ。そこで話を終えるなら、ぼくは見境のないスピード重視派ということになり、さらには大づかみにさっさと仕事の全貌を見届けては結論を下し、ベルトコンベア上を流れる商品のようにアイデアを扱う作業人、あるいは知の錬金術師、あるいは発想の一発屋、あるいは多種多様なテーマのダイソーなどと皮肉られてしまうだろう。

少しは分別も備えているつもりだ、「思い立ったが吉日」が人生全般の万能訓であるなどと信じてはいない。昨日のブログでは、限られた時間における作業や仕事の成否の見極め方について触れたつもりであり、その限りにおいては早々に着手して何がしかの変化や結果を探るのがいいと主張したのである。つまり、ぼく以上に中長期的なテーマの実験を行なっている研究者にしてからが「思い立ったが吉日」を肝に銘じるくらいだから、日々の作業なり仕事なりにそのつど小刻みな期限が設けられている身であれば、効率を念頭に置くのは当然の成り行きなのである。

そこで、話を検索に置き換えてみたい。考えても考えてもひらめかない、しかも時間が切迫しているとき、ぼくたちはどん詰まりの状況を脱しようとして突破口を外部に求める。ヒント探しのための検索がこれだ。もちろんアタマの中を検索すればいいのだが、それが考えるということにほかならないから、ひらめかないのは自前の記憶の中にヒントを探せないということに等しい。外部データベースの検索は避けて通れないのである。

言うまでもなく、外部データベースは情報技術によって天文学的な広がりを見せている。したがって、期限との闘いが前提となっているかぎり、ぼくたちは検索上手にならなければならない。いかに効率よく迅速に明るみの方角を見つけて袋小路から抜け出すかに工夫を凝らさねばならないのだ。ネットサーフィンなどという悠長なことをしている場合ではない。インターネットを知恵の補助ないし有力情報源としている人たちにとっては、検索技術の巧拙は作業や仕事の成否に直結するのである。


ぼくのやり方は至極簡単だ。考えることに悶々とし始めたら、まずはキーワードのみメモ書きしておいて手元の辞書検索から入る。なぜなら、思考の行き詰まりは大部分が言語回路の閉塞とつながっているからである。続いて、自分がこれまで記録してきた雑多なノートを無作為に捲ってスキャニングし、文字側からの手招きに応じてそのページを読む。場合によっては、書棚の前に行って、関係ありそうな既読の本を手に取る。ここまではまったく検索とは似て非なる動作だ。それどころか、期限意識とは無縁な遠回りに映るだろう。しかし、やがてぼくも、ほんのわずかな時間だが、ねらいを絞って便利なインターネットを覗く。これだけが唯一検索らしい検索になっている。

ぼくの流儀なのでマネは危険である。ぼくの場合、検索にあたっては、つねに非効率から入り最後に効率に向かう。思考時間より多くの時間を調査や検索に使わない。おそらく電子ブックが読書の主流になっても、ぼくは積極的に用いることはなく、相も変わらずに紙で製本され装丁された本を読むはずである。効率が悪いことは百も承知だ。デジタルならキーワードや絞り込みなどの条件を設定して検索すれば、千冊分のデータの中に即刻「ありか」を見つけることができるだろう。しかし、ぼくは千冊の実物の本から記憶に頼って探すほうを選ぶ。

「仕事は効率」と言いながら、ちっとも効率的ではないかと指摘されるかもしれない。しかし、自力で考え、次いで非効率的に調べ、最後に短時間検索するというこの方法が、期限内に仕事を収めるうえでもっとも効率がよいのである。探し物がすぐに見つかることにあまり情熱を感じない性分であり、しかも、すぐに検索できた情報があまり役立たないことをぼくは経験的に熟知している。思考と検索を分離してはいけない。正確に言うと、外部データベースの検索時に脳内検索を絡ませねばならない。だから、一発検索の便利に甘えていたらアタマは決して働かないのである。ぼくにとって非効率的な検索は思考の延長であり、そのプロセスの愉しみがなければ、仕事などまったく無機的なものに化してしまうだろう。 

「思い立ったが吉日」の効用

「定番の『企画技法』に加えて、年に数回ほど『仕事の技術』や『プロフェショナルの条件』について話をすることがある。演習を実施してシミュレーション体験もしてもらうのだけれど、受講生の遅疑逡巡という場面にしょっちゅう出合う。選択の岐路に立って慎重になり、慎重さがためらいになり、ためらいはひらめきの機会を逸し、意思決定を遅らせる。ぼくはスピード重視派なので、見ていてイライラしてしまう。」

「きみがイライラする理由がわからないわけではないよ。しかし、人にはそれぞれのペースというものがあるだろ。たとえば、読書にしても、多読・速続がいいのか、それとも少読・精読がいいのかは一概に決めることはできない。実際、急ぐか急がないかに関してだって諺の主張も分かれている。『急いては事を仕損じる』と『善は急げ』のようにね。」

「う~ん。『急いては事を仕損じる』は短兵急の危うさを説いていてわかるが、『善は急げ』は少し違うなあ。だって、すでに『善いこと』だとわかっているんだろ。善いことを行なうのに躊躇する必要はない。それこそ黙って即刻行動に移せばいいからね。『急いては事を仕損じる』の対抗価値には『思い立ったが吉日』のほうがふさわしい気がするが、どうだろう?」

「たしかに。それで思い出したけれど、半月ほど前にテレビで『夢の扉』という番組を見ていたら、小池英樹という教授が『思い立ったらすぐにやってみる』のが研究者の心得には欠かせないというふうなことを言っていた。」

「優秀な研究者はだいたいそう思っているよ。それは何とか賞を取るとか、一番にならねばならないとかの世俗的な下心から来るのではなくて、研究や実験の分母を増やすという純粋な思いゆえだろうね。成功確率が高いと人は逆に身構えるけれど、当たらない確率のほうが高い分野にあっては、試行錯誤は当たり前だし、山のような失敗分母がごくわずかな成功分子をもたらすのだからね。で、その小池教授の『思い立ったらすぐにやってみる』の話、もう少し詳しく聞かせてよ。」


「アイデアというのは、いいなあと思ってみて実際にやってみたら、さほどでもなかったということがよくある。その逆に、大したことがないと値踏みしていたのに、実際にやってみると驚嘆するような結果をもたらすことがある、というわけ。ダメだと見切るにしても、すごいと発見するにしても、やりもせずに判断しているよりも、即刻やってみたほうがいいということだな。」

「アタマだけで判断するのと実際の行動による見極めは違うということだね。うまくいくかどうかを遅疑している暇があったら、とりあえずアイデアを現実化してみる。そこにスピード感があれば、失敗もチャンスも素早く発見できる。なるほど、やっぱり『思い立ったが吉日』は正しいな。正確に言うと、思い立った日は吉日だけれど、結果は吉か凶かはわからないということだね。しかも『急いて事を仕損じようではないか』という呼びかけにも聞こえてくる。」

「まったくその通りだよ。演習指導をするときに、きみは胸を張って『思い立ったが吉日』を受講生に強調すればいいようだな。ついでに、『急いては事を仕損じる』のもまんざら悪いことではないとね。ところで、年金の記録漏れがあって未納扱いされていると文句を言っていたようだけど、ケリはついた?」

「いや、まだ日本年金機構の事務所には行けていないんだ。いろいろあってね。」

「おやおや、思い立ったが吉日を唱えるのなら、かいより始めるべきじゃないか。せっかくこんな話が出たのだから、今すぐ思い立てばいい。」

「わかった。あいにく今日は思い立たなかったので、どうやら今日は吉日ではなさそう。来週のいつか、思い立つように仕向けて、その思い立った日に行ってみるとしよう。」

「やれやれ。やっぱり『言うは易し行なうは難し』か。」

「あっ、大切なことに気づいた。」

「何?」

「二人して『思い立ったが吉日』の効用を褒めそやしたのはいいが、核心的な問題は『思い立たない』ことにあるのだった。思い立たないからこそ、大半の研修生たちは前に進めないのだよ。この諺の正当化の前に、どうすれば思い立つかという、宿命とも言うべき命題をぼくは片付けなければならないんだ。」

「疲れる仕事だね。同情するよ。」