イタリア紀行41 「暮らしの息づかい」

ボローニャⅢ

トスカーナ州(州都フィレンツェ)と並んで、ここエミリア=ロマーニャ州も肉類やチーズなどをふんだんに使った郷土料理で有名だ。とりわけボローニャは、パスタの「ラグー」、つまりミートソースの本家本元である。このミートソースが”ボロニェーゼ”と一般に呼ばれるもので、パスタにはタリアテッレまたはフェットチーネという手打ちの平麺が使われる。肉汁が濃厚できしめん状の麺によくからむ。ペンネを使う店もある。

口にした牛肉のことごとくが昔懐かしい野趣に富んだ味がしたが、あながち気のせいではなかったと思う。斜塔近くのマクドナルドのハンバーガーにしても「牛肉本来」の味がした。牛肉本来がどんな味なのか説明は難しいが、とにかく日本のそれとは違う。そう言えば、トスカーナ地方ではキアーラという銘柄の牛肉が食べられるが、それも素朴でストレートな味を特徴としている。

ボローニャはイタリアにあって主要な商工業都市の一翼を担っている。経済を牽引しているのは伝統的な手工業や中小企業だ。街の風情の見かけとは違って、国際絵本展などの「超」のつく国際イベントや国際見本市が活発。とりわけ35月と911月は目白押し。ぼくが滞在したのが3月上旬で、予約を買って出てくれたローマ在住の知人はホテル探しに大いに苦労したらしい。幸い、斜塔近くの好立地のホテルを3泊予約できたが、心臓に良くないほどのハイシーズン料金だった。

街のとりどりの表情に向けてシャッターを押したつもりが、手ぶら散策の時間も楽しんだので、撮り収めていない、ちょっと残念な場所もある。初老の男性が親切に案内してくれたアルキジンナージオ宮の写真は一枚もない。中庭があって二階部分が当時の名残りを色濃く象徴する回廊になっている。実は、ここは旧ボローニャ大学で、世界初の人体解剖でその名を知れている。当時の様子がそのまま残っている解剖学大階段教室にも案内してもらった。

城塞跡への行きと斜塔への帰り。ぶらぶら歩いた通りの名前は覚えていない。イベントや観光のシーズンに入った直後にもかかわらず、団体客と遭遇することもなく、ほとんどの通りは人影がまばらで閑散としていた。ところが、通りと通りが交叉する地点や放射状の通りの基点にやってくると、ふいに人々が行き交い賑わってくる。出発前日、土産用に手打ち乾麺のパスタや生ハム・サラミやチーズを市場で買う。観光客相手ではないので、すべてお買い得な「地元住民価格」だった。

ボローニャには他のイタリア都市との共通点ももちろんたくさんある。ただ、ここでは絵はがきで見覚えのある光景に出くわすことはない。たとえばローマのコロッセオ、ヴェネツィアのサンマルコ広場、フィレンツェのドゥオーモに対峙するときのような高揚感には達しない。そう、他のイタリア観光地とは違って、ボローニャでは無条件にはしゃぐことはありえないのだ。それだけになおさら人々の暮らしの息づかいが伝わってくるような気がする。 《ボローニャ完》

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街外れの城塞跡。この外には幹線道路が走っている。
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昼間ほど人影が見えない。黄昏の時間になるまでは静まり返っている。
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マッジョーレ広場の大道芸人。
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広場をそぞろ歩きする家族。
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ボローニャ風ラグーの平麺が絶品だったトラットリア。
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 斜塔近くの市場。
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公設市場のような区画もある。
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ボローニャにはアドリア海の魚貝が届くらしい。ちなみに「カエル」は鮮魚店が扱っている。
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市場通りの点景。
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ディスプレイの「ナカタ」。この年、中田英寿はボローニャに所属していた。

情報欲の皮が突っ張る

運よくうまいものに巡り合えた人間は、その運のよさに感謝して一品を心ゆくまで味わえば十分に満足できるはずである。ところが、人は運のよさのことを忘れてしまい、さらに多種大量を貪ってしまう。腹いっぱい、酒いっぱい、金いっぱい、遊びいっぱい……欲望は尽きることはない。

いつになったら、あるが上にも欲しがらないようになれるのか? ギャル曽根百人分の食欲と胃袋でも手に負えないほどの食糧を眼前に積み上げられたら、おそらく降参するに違いない。いや、もっと簡単な方法がある。いっそのこと身体を壊してしまえばいいのだ。壊れた身体の一部の欲の皮だけがもはや突っ張ることはあるまい。

食に関しては卑しいところが残っているが、昔に比べれば少しは節制できるようになってきた。酒や金や遊びはもうすっかり枯れた境地である。ただ一つ、欲の皮が突っ張ってしかたがない対象がある。そいつにだけは卑しくなったり貪ってはいけないと頭では重々承知しているし、他人にまでそのことを示唆しているにもかかわらず、それをついつい求めてしまう。それは、情報である。情報依存症になってはいけないと、自他ともに言い聞かせているくせに。


光る情報が欲しくなるのだ。この情報欲というのは一種のメンタルな病だろうと思う。資料はもう十分なのである。当初構想したものはちゃんと出来上がっているのである。もうストップすればいいはずなのだ。にもかかわらず、落ち着かない。一日に一つ、いや、週に一つでも二つでもいい、光る情報に接しないと不安になってくるのである。

ここまで自戒の念に苛まれなくてもいいのかもしれない。プラス思考で考えてみれば、あと一つの情報を欲張るのは、固定化しつつある知のネットワークに一条の光を照らすためだろう。くすぶっていた視界がパッと開けるような効能もあるに違いない。

しかも、大量の情報を求めているのではなく、きらりとした一点情報なのだから触媒としてはほどよいのではないか。それをゆっくり噛みしめればゆゆしき問題ではない。と、ここまで書いてきたら、冒頭の文章につながってくるではないか。わかっているつもりのことなのに、どこでどう狂って貪欲への一線を越えてしまっているのだろうか。しかし、わかった。

「ユーレカ!」と叫んで、裸で風呂から飛び出すほどの大した悟りではない。要するに、あと一つの情報を楽しく求めてみて、なければないで情報探索を潔く切り上げて自力思考にシフトすればいい。そんな環境を作るのはさしてむずかしくはない。書物や辞書やインターネットをしばし遠ざければ済む話である。

考えるきっかけになるネタ

考えるためにはアタマをつねにスタンバイさせておかねばならない。逆説的だが、スタンバイには「何も考えない」状態も含まれる。哲学では、このような思考の空白状態を〈タブラ・ラサtabula rasa〉ということばで表わす。しかし、「この何も考えられない状態がタブラ・ラサなんだ」と高尚ぶって自分を慰めてみても、何も考えられない状況が続くのはやっぱり苦しい。精神力で歯の痛みを軽減できないように、根性を逞しくしてもアイデアは沸々と湧いてはくれないのである。

自動販売機のウーロン茶のボタンを押せばウーロン茶が出てくるが、アイデアはそのようなアルゴリズムに忠実ではない頭という自販機では、お金を入れてボタンを押してもめったに何も出てこないのである。たまに出てきたと思ったら、オレンジジュースを押したはずなのにコーラだったりする。ぼくたちが日々付き合わねばならない首の上の「そいつ」は、まるで詐欺師みたいなのだ。ところが、何ヵ月か何年かに一度、突如として気まぐれな大盤振る舞いをしてくれる。120円しか入れていないのに、缶コーヒーだのお茶だの天然水だのが何本もいっぺんに出てきたりする。


世に数ある発想法というのは、上記のようなアイデアのバーゲンを強制的に可能たらしめるべく開発された。人間誰しも、思考の空白や停止が続くことがある。さっぱり何も考えられない、何も浮かんでこないという時間帯や時期があるものだ。そんな時、ぼくは過去に記したメモを読む。メモが目次の役割を果たして脳内のデータを呼び出してくれることがある。次に、辞書も適当にめくる。ことばとの偶然の遭遇がヒラメキにつながるのを何度も経験している。

過去のメモと辞書に共通するのが、慣用句や諺との出合い――または再会――である。実は、ぼくのノートの3分の1くらいを表現や格言や諺が占めている。諺の、とりわけ比較文化的吟味が、考えるきっかけになってくれることが多い。

たとえば「早起きは三文の徳」。この「徳」を「得」とする俗解もある。いずれにしても、何かいいことがあるという意味。しかし、同時に「三文」はつまらぬものの代名詞でもある。つまり、「早起きしても、メリットはたかが知れている」とも読めるのだ。いや、「早起きしていると、小さいけれど徳が生まれる」と素直に読むのが正解か。

わが国では直截に人間のことを語っているが、英語になると“The early bird catches the worm.”と「鳥」が主役になって、「早起きする鳥は虫を捕まえる」と意味を変える。たいていの鳥は早起きだと思うので、虫を捕まえる鳥とそうでない鳥が出てくるではないかと心配する。三文の徳と虫の値打ちは比べにくい。精神を取るか、虫という朝飯を取るか。前者が「徳」で、後者は「得」になるのだろう。

イタリア語では“Chi non dorme piglia i pesci.”となる。「眠らぬ者は魚を捕まえる」だ。主体が人間になり、虫が魚になる。「早起き程度で何かにありつくなど甘い考えだ」と言われているような気がしないでもない。たしかに「眠らない者」は「早く起きる者」よりも優位に立つに違いない。並大抵の覚悟ではないだろうが、報われれば、虫どころではなく魚にありつける。ちなみに、英語の虫は単数形で一匹だが、イタリア語の魚は複数形で表されている。


ぼくには本題と違うところからネタを探す習性がある。本題にズバリ入ると思考が活性化せず、逆に縁遠そうな情報のほうが考えるきっかけになってくれる。考えに行き詰まったらテーマの足元を去り、ことばの世界を逍遥してみるのがいい。

対話に「あれもこれも」は禁物

「インターネットで飛び交う情報は過去のものばかり」と主張する場面があった。なるほどその通りだろう。しかし、もし「だからインターネットの活用には限界がある」と続けたら、これは勇み足になってしまう。議論における主張をどこで締めくくるかというのはかなり重要だ。調子に乗って弁舌を走らせてしまうと切り返されてしまう。

冷静に考えてみれば、インターネットに限らず、情報はすべて過去のものであることがわかる。書物だってそうだ。会話など交わされた直後に過去形に転じる。経営方針などの計画や天気予報や競馬の予想を未来形の情報のように錯覚してしまうが、未来をテーマとして扱っている過去の情報にすぎない。


閑話休題。昨日、第2回のディベートカフェを主宰した。第1ラウンドが「朝青龍のガッツポーズの是非」。この論題を11で議論する。第2ラウンドは33で議論する「脱インターネット宣言」(こちらのディベートで冒頭の主張がひょっこり顔を出した次第である)。

いずれも即興である。午後5時に論題を発表、若干の資料も配付。その場で発表されたチームの中で小一時間作戦を練る。ディベートフォーマットは肯定側の「立論」で始まるが、即興ディベートではこれを中途半端に作ってしまわずに、論点だけをメモしておく程度がいい。なぜ即興でやるのかにはいろんな理由があるが、第一義は「よく交叉接合する当意即妙の議論」を楽しみたいからである。

ところが、ディベートカフェのメンバーはほとんど即興ディベートの経験がない。数ヵ月前に論題を公示され、その論題に関して肯定側と否定側の立場から調査して証拠を集め、事前に肯定側の立論をきっちりと構成したり否定側の反駁戦略を立てたりしてディベートに臨んでいたのだ。このような「正規のディベート」では議論を「あれもこれも」と欲張り、論点が多岐にわたることが多くなる。議論も複雑になる。

かぎりなく生きた対話を目指す即興ディベートでこの癖が出るとまずい。即興には幕の内弁当は向かないのだ。むしろ、「あれかこれか」で一品を選ぶアラカルト型が好ましい。余計な枝葉を捨て去り、複雑なからめ手も避けて、単刀直入に論題に切り込むのがわかりやすい。「見方によって違う」とか「ケースバイケースだ」などの姑息な答弁は減点対象にしなければ、即興ゆえの議論のスリルが湧き上がらない。

「ディベート脳」については賛否両論あるが、「死んだ演説」ばかりではなく、時には「生きた対話」に向き合ってみるべきだろう。

食材を送ってくれる人はいい人

『徒然草』の七段にある「命長ければ恥多し、長くとも四十よそじに足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」は、はたして兼好の本心か。「長生きしたら恥をかくことが多くなる」という説にはうなずける。しかし、「目安として四十歳までに死んでおくのがいい」が本気なら、ずいぶん勇気のいる極論だ。兼好自身がこの随筆を書いた時点で不惑にはなっていなかったようなので、たぶん冗談半分に違いない。ちなみに、生年・没年ともに不詳ながら、兼好は七十まで生きたと伝えられている。 

誰かが書いた文章をどう解釈するかは読者の勝手である。とりわけ、学者でもないぼくたちが、何百年もの後世になって徒然なるままに古典を読むに際しては、神経質なまでに厳密に解釈しなくても許されるだろう。ぼくごときのブログ記事と『徒然草』を同列に並べるつもりはないが、愚直なほどまじめに書いているつもりのブログ記事が、意に反してギャグや極論として読まれることがあっても文句は言えない。逆に、ギャグのつもりがホンネで伝わってしまってもいかんともしがたい。

兼好が『徒然草』に記したことを真に受けるか軽く読むかによって賛否が分かれる。たとえば、兼好は「物をくれる人、医者、知恵のある人」をよき友のベストスリーに挙げる。これに対して、医者と知恵者はさておき、物をくれるからいい友だちなどというのはけしからんという批判が下る。心でひそかに思うのならともかく、公然と唱えるとは厚かましいにもほどがある、というわけだ。はたしてこのイチャモン、適切なのだろうか。正直なところ、ぼく自身は物をくれる人をいい人だと信じて疑わない。


物をくれる人がいい人とは言っているが、「ゆえに、物をくれない人は悪い人」だなんて言ってはいない。それどころか、「物をくれる」はもらう人から見た客体の行為だが、同時に客体からすれば「物をあげる」行為なのである。つまり、「物をくれる人」は「物をあげる人」なのであるから、施しの精神の備わっているという賞賛にもなりうる。兼好の「良友論」は、決して己だけが得すればいいというエゴイズムではないのだ。 

いや、そんな生真面目な考察などどうでもいい。これはきっとセンス・オブ・ユーモアなのだ。この随筆を真っ先に読んだのはおそらく兼好の友人たちであり、次いで有閑階級の人々であっただろう。徒然草は、物をくれる友人、医者、知識人らを読者として想定していた。この読者想定の心理は手に取るようにわかる。医者を強く意識したことはないが、ぼくのブログは、ぼくと付き合いのある人、ぼくの話を聞く機会のある人、知的好奇心の旺盛な人らを読者対象にしている。そして、兼好同様に、想定する読者にはぼくに物をくれる人(くれた人)も含まれている。

連休に入る前から立て続けに物をいただいた。まず朝挽きの新鮮な豚肉。とても食べ切れない量なので半分ほど塩漬けにした。次いで徳島から「たらいうどん」が届いた。賞味期限まで時間があるので、吉日にいただくつもりにしている。この連休中には筍と蓮根のスペシャリストMKから筍を頂戴した。親切にも「筍を送ります」との電話。昨年は大量の筍に夢でうなされ、毎日レシピを変えながら10日間食べ続けた。まるで苦行する僧侶のような気分だった。「今年は少なめで」とお願いした。届いた筍は昨年の三分の一ほどだった。「ちょっと少ないな」とぼく。身勝手なものだ。

豚肉、たらいうどん、筍。くれた人たちには感謝している。みんなほんとうにいい人たちなのである。   

イタリア紀行40 「広場、斜塔、街並み」

ボローニャⅡ

「やみくもに走り抜いて成長や発展へと向かわなくても、再生や改造を通じて街は豊かに安定できるはず」――これが、ボローニャ方式が挑んだ命題であり、世界の先進都市に一つの理想モデルを示すことになった。職人企業連合をはじめとする、書き尽くせない創意工夫が結実している。

ポルティコのある景観だけでも生活の快適性につながっているのは間違いない。だが、特筆すべきは、市民が利用できる文化芸術関連の公共施設だ。人口40万人の街とは思えぬほどの圧倒的な質と数を誇る。美術館・博物館37、映画館50、劇場41、図書館73という数字だけを見ても、わが国の人口百万都市でさえボローニャの足元にまったく及ばない。

日本全国でさまざまなテーマを掲げて話をしている。行政を対象にした政策形成やまちづくりの研修機会も増えてきた。決して事例主義者ではないのだが、指導するにあたっては、街づくりについてそれなりの勉強もし知識も更新する。ただ、ここ十年ほど注目を浴びてきた「創造都市」、とりわけ”クリエーティブ”という用語の、度を過ぎた一人歩きが気になっている。何でもかんでもクリエーティブという集団シュプレヒコールは、創意工夫からもっとも縁遠いものではないか。名立たる世界の都市が道を誤り軌道修正に悶々としているのに対して、ボローニャは本来あるべき街づくりに目覚め、常軌を逸しないように努めている――このことが創造的なのだと考える。

わずか4日間滞在しただけの一観光客だが、生意気を言わせてもらうならば、「歩きやすい街は生活しやすい街」というのは真理だ。ボローニャは歩きやすい。入り組んでいても迷わない。ネットゥーノ広場前のネプチューンの噴水からマッジョーレ通りを東へほんの300メートル行くと、二本の斜塔が立つポルタ・ラヴェニャーナ広場に達する。この通りがゴシック建築といい風情といい、歴史を漂わせる。宿泊したホテルが斜塔の裏手だったこともあり、行ったり来たりのそぞろ歩きを何度も繰り返した。

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マッジョーレ広場の入口にはネプチューンの大噴水。
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ポデスタ館前にはカフェ。
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重厚感漂う市庁舎(コムナーレ宮)。
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市庁舎の中庭。建物にはボローニャ出身の画家モランディの作品を集めた美術館が併設されている。
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ネットゥーノ広場側から見る斜塔、高さ97メートルのアシネッリの塔。ピサの斜塔のように傾いている。
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アシネッリの塔の隣りの背の低いガリセンダの塔。傾き度が大きく危険なため上れない。
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ホテルの窓から見る斜塔の借景。
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アシネッリの塔の最上階までの階段は498段。上り下りすれば軋(きし)む古い木製。
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急な勾配の階段を恐々上り切ると展望のご褒美がある。
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斜塔から見渡すボローニャの街の全景。

「わかる」ということが、実は「よくわからない」

「クラシック音楽はわからないから、つまらない」。たしか先週だと思う、つけっ放しのテレビからこんな音声が聞こえてきた。小学生のつぶやきだった。わからないから、つまらない……なるほど、そうだろうなと暗黙のうちに同意していた。

ところが、ぼくは大人である。「わからないからつまらない」と簡単に物事を片付けるわけにはいかない。大人だからもう一歩踏み込んでみなければならぬ。そこで自問してみた。わかれば楽しくなるのだろうか? 「クラシック音楽はわからないけれど、なんだか楽しい」は成り立たないのだろうか? そもそも「わかる」とはどういうことで、「わからない」とは何を意味しているのだろうか?

自宅の本棚に目をやって、しばし何段か追ってみたら、「わかる」をテーマにした本で以前ざっと読んだのが4冊並んでいる。ずばり『「わかる」とは何か』、その隣に『「わからない」という方法』、そして『「わかる」技術』に『わかったつもり』だ。よくもまあ、うまく揃っていたものである。これらの本の目次はほとんど覚えていないし再読したわけでもないので、どんな切り口で書かれているのか知る由もない。


それにしても、考えれば考えるほど、「わかる」が結構むずかしいテーマであることに気づく。「クラシック音楽はわからないから、つまらない」と言った小学生の男の子に一度は共感したが、ちょっと待てよ、音楽というものは、それがクラシックであれ童謡であれジャズであれ演歌であれ、鑑賞すればいいわけで、わからなくても問題ないのではないか。もし「わかる」が「理解する」という意味ならば、それこそそんな論理的了解の必要などさらさらないはずだ。

音楽がわかることと算数がわかることは、たぶん違う。算数で問題が解けたり道すじが見えたりするのと、鑑賞者として音楽がわかるのとは根本的に違うはずである。音楽鑑賞や美術鑑賞に際して、詳しい知識を身につけているからといって「わかる」ようにはならない。たしかに「わからない」よりも「わかる」ほうがいいに決まっている。だからと言って、芸術鑑賞において「わからなければならない」必要性やノルマなど一切ない。「こんなもの、わかるってたまるか!」という反発や居直りさえあってもいい。


もしかして学校教育は「わかる」ことを当然のように前提にして成り立っているのではないか。どんなことにも答えがあって、その答えを見つけたら「わかった」と見なし、答えが見つからなかったら「わかっていない」と判定を下す。こんな調子で、「わからないことはつまらないこと」と決めつけるような空気を充満させて、つまらない教育を膨らませているのではないか。

「わかる」の対極に「わからない」があって、その二つの状態しかないのであれば、まるでON/OFFのデジタル処理みたいではないか。そんなバカな話はない。「わかる」にはいろんな程度の「わかる」があり、「わからない」にもいろんな程度の「わからない」がある。人によって度合が異なるものなのだ。「それなりにわかる」という、きわめてファジーな了解の仕方すらある。「わかる」と「よくわかる」の差が、実はよく「わからない」のである。

もしあることについて「完全にわかる」ことがありえないのだとしたら、ぼくたちはたぶんすべてのことについて「あまりよくわからない」状態に置かれているに違いない。そして、たいせつなことは、あまりよくわからないからつまらないなどと刷り込みをさせず、むしろ、あまりよくわからないからこそ楽しいのだという方向へ子どもを導くことだろう。

今日の話、わかったようでよくわからないという印象をお持ちになったのであれば、お詫び申し上げる。

歩いて知ること、気づくこと

長期連休あり、渋滞あり。長蛇の順番待ちあり、閑散としたレストランあり。悲喜こもごものゴールデンウィークである。他人が出掛けるときは出掛けない流儀なので、ぶらぶら散策するコースは交通量も少なく人出もほとんどない。大阪を南北に走る主要な谷町筋や堺筋はある種の歩行者天国である。御堂筋ですら、信号無視気味に横断できた。

堺筋本町から北浜へとゆっくり北上。堺筋の東側を歩くか西側を歩くかによって景観はまったく異なる。「あ、あんな店が……」という場合は、たいてい道路を挟んだ反対側を見ていての発見だ。店の前を歩いていても看板が目線より高いと見過ごしてしまう。


北浜の交差点南西角に碑が建っている。このあたりを通って中之島界隈までよく歩くので、記念碑の存在は以前から知っていた。ただ、いつも交通量の多い場所だから、碑の前でひたすら信号待ちしてひたすら公会堂、市役所方面へと歩を進める。今朝は立ち止まって読んでみた。「大阪俵物会所跡」とある。延享元年(1744年)にこの会所がスタートしたという。長崎と中国(当時は清)の海外貿易時に金銀銅が大量に流出するため、当時の輸出特産品である俵物を代用にあてたという旨が書かれている。

その俵物が、フカヒレ、干しなまこ、干しあわびと知って驚いた。こんな昔から中国で日本の乾燥海産物が珍重されていたのだ。三百年近くもブランドを保持しているとは……。高品質がブランドイメージを随えることの何よりの証明である。

肥後橋まで歩いていくと、橋の真ん中まで堂島から長い列ができている。連休最終日、ロールケーキ目当てに朝から並ぶ忍耐と根性はどうだ。噂にちょくちょく聞いていたし目撃もしていた。口にしたことがないので何とも言えないが、ぼくには考えられない「待ち」である。ことグルメ系の食べ物に関して列を成してまで並ぶ必要性をまったく感じない。それがどんなに美味であれ、誰かに頼まれたにせよ、何時間も待つ価値を見出だすことはできない。空腹で死にそうなときに炊き出しに並ぶとは思うが、ロールケーキを求めて並ぶことは絶対にない!


『安藤忠雄建築展 2009――水がつなぐ建築と街・全プロジェクト』の割引き優待券があったので一枚もらってきた。安藤忠雄に文句はない。しかし、チラシのタイトル「対決。水の都 大阪 vs ベニス」は滑稽である。「対決」と「vs」を生真面目に考えずに受け流せばいいのだろうが、対決させてどうなるんだと皮肉りたくなってしまう。大阪とベニスの航空写真を上下に並べて類比しているつもりなのだろうが、水路があるという事実以外に両者には類似点など一切ない。大阪は現代的な車の社会であり、ベニスは近世を残す人の社会である――このたった一つの理由だけで、両者を「対決」や「vs」で向き合わせるようなきわどいアナロジーには無理があるのだ。

水都大阪プロジェクト、大いに頑張っていただきたい。だが、何十年経っても、大阪はベニスにはなれないだろうなと確信した。ベニスになるためには、江戸時代末期の風景をそのまま残しておかねばならなかったのだ。それは叶わぬ夢である。それでもなお、秩序なく林立する高層ビルと、その谷間に申し訳なさそうに生き長らえる大正・昭和の古い建造物と、独特の水路系が織り成す大阪を歩く。週末にこの中途半端な街を散策するのが嫌いではない。

イタリア紀行39 「ポルティコという知恵」

ボローニャⅠ

ペルージャから鉄道でフィレンツェへ。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の敷地に接するホテルに滞在、毎日「耳元で」鐘を聞いた。フィレンツェには3泊のつもりだったが、4泊すれば4泊目が無料になるサービスがあった。つまり、3泊しても4泊しても同じ料金なのだ。ならば、当然4泊を選択するものだろう。フィレンツェでは毎夜違うリストランテやトラットリアに通い、美食三昧の日々を過ごした。そして、この旅の最終目的地であるボローニャへと旅立った。

日本からのパッケージツアーにボローニャはまず入らない。だからと言って、見所が少ないわけではないのだが、ボローニャで過ごすのが半日ならマッジョーレ広場とその周辺を観光すれば十分、などと旅の本には書いてある。その記述、ボローニャに対してとても失礼である。ぼくは3泊滞在して余裕綽々で街歩きしたのだが、帰国後にいろんな「見学漏れ」に気づいた。主たる市街地が2キロメートル四方とはいえ、ボローニャは高密度集中を特徴とする街なのである。安直な街歩きで済ませていたら、見えていたはずの光景が実はまったく見えてはいなかったということが後日判明する。

ボローニャについて何を書こうかと思案するとキリがない。けれども、「ビジュアル的最大特徴」は、チェントロ・ストーリコ(歴史的市街地)をくまなく巡るポルティコ(柱廊)で決まりだ。この街では、建造物と通りの間の歩道がほぼ完全にアーケードで覆われている。全長で約40キロメートルあるらしい。ポルティコの二階部分は建物が3メートルほどせり出すよう増築されている。

ヨーロッパ最古と言われるボローニャ大学(1088年創立)には、現在ももちろんだが、16世紀頃までに大勢の学生たちが欧州各地から留学生としてやってきた。『ボローニャ紀行』(井上ひさし)によれば、当時はまだ校舎らしい校舎もなく、また狭い街では学生を収容するだけの住居も足りなかった。そこで、留学生のための貸間の普請と私道のポルティコへの改造が進められていったらしい。

訪れたのは3月上旬だったが、到着の前日か前々日には大雪が降ったと聞いた。ポルティコは遊歩や店先の景観に華を添えるが、同時に雨風や雪をしのぐのに恰好の避難通路にもなる。場所によって装飾や建築様式は変化する。歩くにつれて街角の表情が質素になったり高貴になったりして飽きることはない。夕方のそぞろ歩きにはもってこいの舞台装置だった。

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中央駅の近くにある高台の公園から見下ろす街角。
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インディペンデンツァ通りのポルティコはひときわ格調高い。
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マッジョーレ広場まで1km延びるポルティコのある通り。
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裏通りを歩いてもポルティコ。表通りの喧騒とは対照的。
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天井に古い木造部分がむき出しになっているポルティコ。
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レストランであれどんな店であれ、店舗前の歩道をアーケードが覆っている。
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教会が群居するサント・ステファーノの三叉路広場。

情報を選び伝えるマナー

定期的であるはずもないが、時折り思い出したかのように書きたくなるテーマがある。「なくてもいい情報」の話である。昨年のにも書いたのを覚えていて、さっき読み返してみた。変な話が、自分で書いておきながら大いに共感した次第。先週、同じような体験をした。饒舌な情報に対するぼくの批判精神は相変わらず健在である。

先週の金曜日、出張先は高松。新大阪発ひかりレールスターに乗車予定。すでにホームには列車が入っており、各車の扉付近に清掃中の表示がかかっている。待つこと数分。ホームにアナウンスが流れる。

「折り返し運転のための清掃が終わりました。」

この後にもいろいろプラスアルファの情報が耳に届いた。「清掃が終わった」という情報にひねくれてはいない。それはオーケーだ。「待たせた」と「まもなくドアが開く」という情報もあった。いずれもなくてもいいが、まあ問題ない。要するに、「清掃が終わった、待たせてすまなかった、すぐにドアを開ける」という案内はぼくには不要だが、他の誰かのためにはあっても悪くはないだろうと思う。

だが、「折り返し運転のための」は必要不可欠か。清掃して車庫に直行するわけがない。新しい乗客を乗せて運転するのだから清掃していたわけだろう。だいいち、その列車が博多から新大阪にやって来て、しばしのクールダウンと清掃の後に博多へ折り返していくという情報を乗客に伝えることに何の意味もない。これは駅員どうしの確認で済ますべき話だ。このアナウンスと同時にホームにやって来た乗客には、「折り返し運転のための」と聞いて、何事かあったのかと怪訝に思う人がいるかもしれない。


この種のメッセージをぼくは「目的内蔵型報告文」と勝手に名づけている。要するに目的部分は自分に言い聞かせる確認情報なのである。「腹を満たすためのランチに行く」と同様に、「折り返し運転のための清掃が終わりました」も冗長である。「書くための水性ボールペンを貸してください」も「頭を鍛えるための脳トレーニング」も目的部の情報は不要である。

「まわりのお客さまの迷惑となりますので、携帯電話はマナーモードに設定したうえ、通話はデッキでお願いします」などを字句通りに外国語に翻訳できないことはない。だが、ほとんどの国ではそんな言わずもがなのことを言わないのだ。「通話はデッキで」くらいは言ってもいいかもしれない。だが、座っている席で通話すると他人の迷惑になるというのは、余計なお節介、いや「オトナの幼児的扱い」にほかならない。

よきマナーへの注意を呼びかけるアナウンスにも、最低限のマナーが求められる。必要な情報を選択してきっちりと伝えきるマナーだ。最近、アナウンスが流れない4号車両「サイレンスカー」が消えたらしい。アナウンスがないために不安になる乗客が多く不評だったのか。こうなると、鉄道会社の饒舌な情報発信を一方的に咎めることもできない。責任の一端は乗客の情報依存症にあるようだ。