現実を押し売りする人たち

仕事中なのに、仕事とまったく無関係な文言が脳内を往来することがある。たとえば「行き詰まっているときは息詰まっている」とか何とか。「咽喉の痛みには特濃ミルク8.2」とか何とか。周囲に何かがあって、それを見た結果、ことばが浮かんでくるのではない。アタマの中の別の鉱泉からフツフツと湧き出てくるのだ。

考えれば考えるほど陳腐な常套句しか思いつかないこともある。表現の枯渇状態。その突破口になってくれるのが類義語辞典だ。調子のいい時はまったくお世話にならないが、一日中引きまくっている日もある。広辞苑や新明解を適当にペラペラめくることもある。見出し語との偶然の出合いに期待する。ついさっき、「きゅう【灸】」が目に入ってきた。そして、何年か前のある事件にタイムスリップしてしまった。


それは想像力を欠く情けない話であった。東京都の「鍼、灸、あんま、マッサージ、指圧師会」が、「灸を据える」はもともと治療行為である、それを懲罰という意味で辞書に掲載しているのはけしからん、定義を変更せよとケチをつけたのである。

そう言えば、さらにずいぶん昔、医師会もクレームを申し立てたことがある。テレビドラマで医者がタバコを吸う場面があり、それに対して「医者はそんなにタバコを吸わない」と怒ったのである。「そんなに」だったか「あんなに」だったか忘れたが、とにかく「医者にヘビースモーカーはいない」あるいは「そんなにスパスパ吸わない」とでも言いたかったようだ。しかし、例外的であっても、ヘビーに下品にタバコを吸う医者の一人や二人はいるわけで、それをネタにして何が悪いのか。医者が殺人事件を起こす物語はありえないのか。

お灸の話に戻る。ぼくはお灸は平気である。平気だが、家庭用の台付きモグサとは違って、専門家の施術時は若干の緊張が走る。鍼灸はある意味でストレスをかける療法で、痛くも痒くもなければ効果がない。一瞬の直線的熱さというか痛みというか、それを快とするか不快とするかは人が決めるものだ。実際、ぼくの周囲では鍼灸の未体験者は体験者よりも圧倒的に多い。

「灸を据える」が「痛い目に合わせる」という比喩表現に使われても構わないではないか(実際に使われてきた歴史がある)。それだけ一般汎用しているのは市民権を得ている証拠だ。専門家が考えるほど、ぼくたちは想像力欠如ではない。治療行為が現実で、ペナルティが比喩表現であることくらいはちゃんとわかっている。むしろ、現実だけを反映する一義的な意味しか持たないことばがいかに退屈かという点に想像を馳せてもらいたい。

ことばは現実を反映する。しかし、そこで止まらない。現実から乖離して跳びはねる。別の意味を取り込んだり別の意味が憑依したりする。だからこそ、ことばはおもしろい。 

ルガーノの「気」でリフレッシュ

先の日曜日、「週刊イタリア紀行」でボローニャを書きそびれた。出張帰りで疲れていたせいもあるが、90枚という、思いのほかおびただしい写真を前にしてなかなか選びきれなかった。しばし休憩とばかりに、一年ほど前に読んだ井上ひさしの『ボローニャ紀行』を再読しているうちに時間が過ぎてしまった。と言うわけで、先送り。

今日は水曜日で、単独の休日。つまり、連休の一部の休日ではない。昨日が仕事で明日も仕事。しかし、今日が休日、それも土曜日や日曜日ではなく、水曜日。この週の半ばの平日の休みというのがいい。とても贅沢な気分になれる。朝からすがすがしく、56キロメートル散歩してほどよい日光を浴びた。咽喉とアタマに痛みがあって風邪の一歩手前だったが、何だかよくなった気がする。

少し開けた窓から陽が射し微風が入ってくる。二年半前にパリ、ミラノ、ヴェネツィアに旅した時のガイドブックに目を通していた。およそ600ページのガイドブックだ。ルガーノのページに付箋紙が貼ってある。ミラノから半日で行けるスイスの街ルガーノの紹介記事はわずか1ページ。ミラノからルガーノに出掛けたあの日も、今日のような爽やかな日だった。


ミラノから鉄道で北へ行くと観光と別荘地で有名なコモ湖がある。さらにほんの少し北へ進めばもうスイス国境を越える。ミラノからわずか1時間のロケーション。そんな近くでも切符は自販機では買えず、“Internazionale”(国際線)の窓口へ行かなければならない。ずいぶん右往左往した記憶がある。国境を越えるから、警備隊の兵が列車に乗り込んできてパスポートと切符もチェックする。

ルガーノ駅に着けば眼下にルガーノ湖が広がる。スイスといえども風情はイタリアの街だし、みんなイタリア語を話している。しかし、やっぱりスイスなのだから、スイスフランに両替しないといけない。ユーロでは有料トイレにも入れないし、バスにもケーブルカーにも乗れない。何はともあれ、バスに乗りケーブルカーに乗り継いで、モンテ・ブレの山頂を目指した。抜けるような晴天ではなかったものの、頭も心も透き通るようにリセットできた。記憶をまさぐるだけでもいいリフレッシュができるものである。

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ルガーノ駅のこぢんまりとした 駅舎。
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スナック・喫茶の店、切符売場。
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モンテ・ブレの山頂からルガーノ湖と山間がパノラマで広がる。
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ルガーノ名物ダックスフンド型観光ツアーバス。
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湖畔の乗船場。
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ルガーノ市街の中心。
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街の広場で「路上チェス」に興じる市民。
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名残りを惜しむ最後の一枚。

その概念が見えてこない

あるゲストが企業訪問に誘われた。「企業経営の現場をご覧になりませんか?」「会社とは無縁なんで、ぜひ見学してみたいです。」

案内人は会社の正面玄関から順番にガイドをしていった。「こちらが守衛室です。こちらは受付ですね。そちらに小さな作業場があります。この大きな部屋が事務室になっています。大半の従業員はここで仕事をしています。この廊下の奥に食堂とトイレがあります。では、2階にまいりましょう。こちらが会議室です。その隣りがトイレですね。はい、トイレは2階にもあります。右手が資料室です。そして、こちらが応接室。一日に数人の来客があります。最後に、ここが社長室です。あいにく社長は本日不在です」

足早に、それでも小一時間ほど説明を受けたゲストは、最後にこう尋ねた。

「よくわかりました。ところで、肝心要の『企業経営』はどこにあるのですか?」


この話はぼくの創作なのだが、種明かしをすれば、これは哲学的命題の一つの変化形なのである。ゲストが案内されたどの場所にもどの仕事にもどの従業員にも「企業経営」というものは見えない。企業経営は仕事の場所や作業や人材を束ねた概念でありながら、企業経営そのものがどこかに存在しているわけではない。ぼくたちは企業経営というものを見学することはできないのである。

企業と無縁なゲストが目の当たりにするのは、企業経営ではない。社是や理念や経営方針を文字として感知することはできても、それらの実体は容易に認識できない。ゲストは部屋を見る。廊下や壁を見る。整理整頓状況や清潔や汚れを見る。従業員の働きぶりや立ち居振る舞いを見る。けれども、企業経営を見ることはない。

誰も彼もが経営評論家であるわけではない。ソニーやサントリーの商品を広告で知り、売場で見て買う。企業経営をつぶさに調べて買うのではない。顧客から見えない概念構築にいくら躍起になっても、それは明示的世界には現れてこない。具体的な事柄を統合して上位の概念にまとめてみても、結局は個々の具体的な事柄がはじめにありきなのである。

何々「と」何々

タイトルの括弧の場所は間違いではない。意識的にを括弧で強調している。

意思決定とは「かORであり、「とANDではない――などとよく声を大にして言うので、ぼくはいろんな人に「OR人間」みたいに思われている。つまり二者択一を好む人間。これは極端志向、賛否決着型、対立好きの印象を醸し出す。決してありがたがっているのではない。とても心外なのである。これではまるで、折衷や止揚とは無縁の、単細胞な石頭ではないか。

「異種情報のAND」。これが本来あるべき発想の原点だ。何々と何々をくっつけたり対比させたりするから発想が広がる。何々が二つあるからほっとしたり救われたりする。「一項」だけに集中できている状態が悪いわけではないが、「一項しか見えない、一項しかできない」はマイナス寄りだ。攻め一本やり、ハンバーガーばかり、失敗続き、会議の連続……これではたまらない。


この一週間は「と」に意識が向き、また「と」が勝手に二項の間に入ってきたりした。京都での私塾では「テーマソリューション」。翌日からの香川への出張は、十数年ぶりに「ぼくスタッフ」。養鶏の現場を見学して「卵ニワトリ」の関係に注目。土曜日の半日マーケティングセミナーは「第12部」の構成。滞在3日間は「うどんづくし」ではなく、「焼鳥(夜)うどん(昼)」と交互に堪能。

「アポキャンセル」もこの一週間に集中した。こんなに約束を取り決め、こんなにキャンセルが発生したのも珍しい。まずアポがあり、実際に会ったものの契約は成立せず、翌週再会のアポに合意するも相手がキャンセル。このキャンセル対策のために知人から連絡があって再度アポ。別の一件は連休明けのアポだが、これもキャンセル。次なるアポを現在画策中。もう一件あった。こちらは心身が疲弊してしまうほど、アポ、黙殺、キャンセルが何度か繰り返されたケースである。

他人の時間や約束に対する変更には寛容である。ぼく自身も社内的には時間や約束に対して優柔不断なこともある。ただし、対外的には「先約主義」を愚直なまでに貫く。これは精神的にはきつい。とにかく「都合が悪くなった」と言い訳しない方向に自分を追い詰めるのだから。決めた時間を無視するという点で、遅刻もキャンセルの一種だと見なす。この一週間は、ぼくの責任によるキャンセルはゼロであるが、めったに経験しなかった「アポキャンセル」の日々だった。世の中の大半の仕事はこんなことに向けられているのだろうか。

アポとキャンセルの調整にエネルギーを費やして疲弊するくらいなら、いっそのこと、さっさと会ってしまったほうが楽だと思う。そして、アポにはなるべく「と」がつかないのが望ましい。

ブランド信奉の反省

まったく他人のブログをチェックしていないが、天まで届くほどの記事がすでに書かれ、現在書かれつつあり、そして明日も明後日も書かれるのだろう。

その動画はすでに先週の時点でYou Tube検索三千万件という。そう、すでにご存知だろう、あのスーザン・ボイルの仰天歌唱力の話である。「人は第一印象で決まる」とか「人は見かけがすべて」という類いの主義主張をよく耳にし、その種の本もちらほら目にするが、急激に曇った自論に少しばかり反省を加えておくべきだろう。ブランド信奉者、いや狂信に近いブランド絶対主義者に対しては、心中静かに「ざまあみろ」と囁いておくことにする。

番組の中で女性審査員がいみじくも吐露したように、誰もが風貌、立ち居振る舞いから彼女を小馬鹿にしていた。レ・ミゼラブルの『夢やぶれて』を彼女が数秒歌った直後、会場の空気と観衆の価値判断は一瞬のうちに「コペルニクス的転回」を遂げた。価値などというものが存在に帰属する絶対的なものではないことを証明してくれた。最近めったにお目にかかれない恰好の事例である。

同時に、潜在するものは凡人などには見えないことも明らかにしてくれた。人はどんなにすぐれた価値にも、それが潜在しているかぎりめったに気づかない。情けないことに、”ブランド”なりの顕在化した現象(=表象的な記号)によってしか本質をつかめないのである。歌声を発する直前までのスーザン・ボイルにブランドは付与されていなかった。彼女が潜在的に有していた価値は、あの時点では無価値だったのである。裏返せば、本物ならば――したたかな価値が備わっているならば――記号としてのブランドなど不要なのである。ブランドは、自分の眼力に自信を持つことのできない人たちが求める道しるべにすぎない。

実力がありながら過小評価に苦しんでいる人にとっては、勇気と自信に火を点してくれた一件になった。刻苦精励して本物を目指している人、わずかな照明が当たるのを辛抱強く待とうではないか。いや、少しでも機会があるのならば、それを生かそうではないか。もし本物ならば、他者はブランドを超越した評価を下してくれるものだ。「無名の本物は過大評価のブランドを凌駕する」。ぼくにとって新しい格言が生まれた。結局自分自身に言い聞かせているのだろうが……。

分母と分子で考えている?

広辞苑第六版の編集方針。最初の項目は次のように書かれている。

一、この辞典は、国語辞典であるとともに、学術専門語ならびに百科万般にわたる事項・用語を含む中辞典として編修したものである。ことばの定義を簡明に与えることを主眼としたが、語源・語誌の解説にも留意した。収載項目は約二十四万である。

 中辞典にして24万語だ。あいにく手元に大辞典はないが、日本国語大辞典では見出し項目は50万になるそうである。方言も含めればいったいどれだけの語彙が存在しているのだろう。言うまでもなく、収載された見出し語はありとあらゆる文献から拾われたもの。文献に出てこないことばを見つける手立てはない。もっと言えば、ことばというラベルを未だ付けられていない抽象的・物理的事象や現象について、ぼくたちはその定義を知ることはできない。いや、仮にそういう事象や現象が存在していても認識できていないのかもしれない。新しいものを見つけたら命名するのが人の習性だからだ。

テストや受験、資格のための検定などに対してはDNAレベルで嫌悪してきたし、今もDNAは変異していない。やむなくすることが少なくないが、原則として採点側や評価側に立つのも好まない。だいたい分母に満点を置いて分子に採点された点数を配分するのが気に入らない。100分の70って一体何なのだ? その満点の100は当然出題者の意思で決まる。しかも、その100はこれまた何千か何万かから抽出された分子でもある。合格者を多く出したいかゼロにしたいかは、抽出作業過程での出題者の裁量でどうにでもなる。


任意に設定された満点に向けた学習は功利的かつ便宜的である。そんな学習ばかりしてきたから実社会でろくに役に立たないのだ。それを反省して一から勉強し直している。にもかかわらず、目標を失いたくないから検定や単位などの「合格」を目指す。生涯、満点への飽くなき学びが続くというわけである。

のべつまくなしに分母と分子で物事を測っていると、本気の学習などできなくなる。本気の学習とは、今の自分の能力を、「設定された満点」に向けるのではなく、際限なく高めていくものだ。日本語の50万語分の5万語しか知らないという思いなどまったくどうでもいい。あるいは語彙力判定テストを受けて、2万語と評価を下されても落ち込むことはない。森羅万象の知恵の前では何人も無知なのである。そう、分母などいくらでも小さくしたり大きくしたりするなど自由自在だ。

いま認識できている力、いま運用できている力――それを着実に高めればいいのである。満点という到達点などまったく意識する必要などない。それが実社会での本物の学習のはずだ。その過程で、自分が従事している仕事において「閾値越え」が生じる。

もちろん分母と分子をしっかりと意識するほうがよい場面もあるだろう。一例としては、財布に一万円札があって消費していく過程は、分母(所持金)と分子(支出額)の関係。分子が大きくなって分母に追いついたとき、財布の中が空っぽになっている。たぶん経済感覚には分母と分子が欠かせない。分子を使いすぎないという節約と、分母を欲張りすぎないという節度という意味で……。  

「何が~か?」と「~とは何か?」

先日テレビを見ていたら、ハンバーガーショップの女子店員が「このバーガーはヘルシーです」と言っていた。かねてから「ヘルシー」が本来の「健康的」という意味から逸れて「ファッション」として使われていることには気づいていた。その店員の言い分は、「牛肉が入っていなくて野菜のみのバーガーだからヘルシー」というものである。

ところが、料理番組などではアシスタントが「豚肉を使っているのでヘルシーですね」と、料理の先生に同調する。裏読みすれば、「それは豚肉であって、牛肉ではない」という意図なのだろう。つまり、バーガーショップの店員も料理番組のアシスタントも「牛肉がヘルシーではない」という点で意見が一致している。世界には牛肉を大量に消費する食文化も存在するが、その文化圏ではヘルシーでないものを食しているというわけか。

ひとまず寿命の長短などという野暮な話を横に置いて、日々の食事や材料のヘルシー度について考えてみる。

豚肉が牛肉に比べてヘルシーだからという主張は、トンカツ定食の大がビフカツの小よりもヘルシーを証明するものなのか。あるいは、サラダたっぷりの「非牛肉バーガー」を頬張っていれば、少量の焼肉に舌鼓を打つよりもヘルシーで居続けることができるのか。そんなバカな話はない。菜食主義が肉食主義よりもヘルシーであるならば、世界中に棲息する動物にあっては草食動物が肉食動物よりヘルシーということになる。繰り返すが、長寿とヘルシーを同列で語ることなどできない。ヘルシーだからと言って長寿とはかぎらないし、高齢化社会がヘルシーを基盤にしているとも思えない。


「何がヘルシーか?」と考えるから、都合よく自店のメニューを正当化してしまうのだ。野菜たっぷりがヘルシー、豚肉がヘルシー、さらには豆腐や煮魚がヘルシー……。よく目を凝らしてみれば、ここで言っているのは個々の素材のヘルシー度にすぎない。これは、ギアが上質、ボルトが上質、ネジが上質、歯車が上質というように、個物に格付けしているだけの話だ。これら個々の部品が良質、ゆえに、すべてを組み合わせた一つの統合体も良質とは限らない。つまり、「ヘルシーな野菜バーガー」を食べている人間そのもののヘルシーさの高さは保障されていない。

いやと言うほど、やれ豆乳だ、やれ納豆だ、いやバナナだと単品絶賛する愚を目撃してきたことを忘れてはならない。せめて「何と何を組み合わせればヘルシーになるのか?」というイマジネーションを働かせることはできないのか。

むしろ問うべきは「ヘルシーとは何か?」のほうである。ここまでヘルシーということばをやむなく使ってきたが、それが健康的を意味するにせよ、健全や無事を意味するにせよ、ヘルシーの本質をうやむやにして食品と結びつけて一喜一憂しても始まらない。ヘルシーの本質には、それぞれの生き物ごとの「食性に素直」ということがあるはずだ。それを「旬の食生活」と呼んでもいい。ライオンが草食動物を糧として生きていくのが食性であり、トキはドジョウや小さな虫を糧にして生きている。

人類、いや、わかっているつもりの日本で棲息する人々に限定しておこう。この風土で暮らすぼくたちは雑食という食性を維持してきた。それが「ヘルシー」なのである。

「~とは何か?」という本質的な問いを、「何が~か?」にすり替えてわかったような気になっている。「文房具とは何か?」が作用や目的や質料や形相などの本質を明らかにしようとしているのに比べて、「何が文房具か?」がいかに浅い問いかがわかるだろう。「ホッチキスが文房具」「水性ボールペンが文房具」「手帳が文房具」……これだけでいいのである。そこに知識はあるが、思考の足跡は微塵もない。  

イタリア紀行38 「記憶のアーチとピザ 」

ペルージャⅢ

サン・ピエトロ教会からホテルに戻りチェックアウトの手続きを済ませる。荷物を預けたまま、今度は街の北へと向かう。通り道だから必然目に入ってくるものの、114日広場と大聖堂を見納めする。北側への道は、この広場からはおおむね下り坂になる。坂道は何本もあるが、どの道を通ってもアウグストゥスの門に辿り着ける。

ローマ時代以前に12のエトルリア都市が繁栄していて、ペルージャはその一つだった。すでに取り上げたアレッツォやオルヴィエートなども古代エトルリアの面影を残す街である。それらの街を探訪したのも、このペルージャ滞在がきっかけになっている。キーワードは「エトルリア」だった。当時は、ただローマ時代より古い時代ということだけでわくわくしていた。

エトルリア時代の巨大な門である「アウグストゥス門」に対峙する。そこをくぐると時代を古代まで遡っていくのではないかと半分本気で思ってしまう。わざわざタイムトンネルなど発明しなくても、やみくもに「現代の手」を加えなければ、日常的にぼくたちは過去と現在を行き来することができるのだ。

建造物の壁や門は、本来外界と内部を仕切る「クールな機能」を持つ。けれども、直線だけで構築するのではなく、そこにアーチ状曲線の意匠を凝らすだけでゆとりが生まれる。住民や旅人にとって親しみやすく、しっくりとなじめる存在になる。そこかしこに見られたアーチはかなり印象的だった。

もう一つの「曲線の思い出」は大好物のピザである。このピザを食べるために、前日は外食しなかった。窯で焼くこと、ほんの12分。一気に焼いて、さっと生野菜を散りばめて「はい、お待ち!」まで注文してから3分ほどだったと思う。これは記憶に残る絶品であった。どのくらい絶品かを表現するのは困難である。敢えて言い表すなら、「もしローマやフィレンツェに行く機会があれば、このピザを目当てにペルージャに立ち寄ってもいい」と思うくらいのうまさである。 《ペルージャ完》

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  114日広場の大聖堂。
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坂の多い丘の上の街だけに建物の高さも不揃い。
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門や渡り廊下などアーチの形状があちこちに目立つ。
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起源を前4世紀まで遡るエトルリア時代のアウグストゥス門。車と比べればその圧巻ぶりがわかる。 
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フォルテブラッチョ広場に面するペルージャ外国人大学本部の建物。
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“Mediterraneo”(地中海)はピザ自慢の店。
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店名と同じ定番のピザを注文。ユーロのレートを正確には覚えていないが、日本円で600円くらいだったような気がする。本場ナポリでも何枚か食べたが、それを凌ぐうまさ。
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街角の菓子店。ペルージャはBaciというチョコレートが有名。
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Salumeriaとはハム・チーズなどの食料品店。
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雑貨店の展示。月曜日から日曜日までの曜日を刺繍したテーブルナプキンを買う

たまには出典不詳が愉快

詠み人知らずには、真性の不詳である場合と匿名希望という場合があるそうだ。講演や研修では、知りうるかぎり出典や著者名を極力示すようにしている。ところが、誰からともなく入ってきた情報や入手経路不明な知識のほうが圧倒的に多いのが現実。どこでどう身につけたのか知らないが、持論をトレースしていくと不確かな情報源に辿り着くのかもしれない。

自力で考えたと思っていたことが、丸々受け売りだったり。拝借したのではなく、偶然にして偉人の言と一致していることもあるだろう。ぼくはメモ帳からふと落ちてくる新聞の切り抜きや、割り箸の袋に走り書きした文言を見つけて、時々楽しんでいる。覚えていることもあるが、忘れていることのほうが多い。十中八九、出典は書いていない。出典がないのはオリジナルなアイデアだから? それとも、引用だったが出典を記さなかっただけ? もはやわからない。


こんな紙の切れ端があった。「できることをしないのは怠慢であり、できないことをできると言い張るのは欺瞞である。」 誰かの名言なのだろうか。ぼくが何かの拍子にメモしたのだろうか。出典不詳、記憶消滅である。

こんなジョークもある。「神経のことを英語で”ナーブ”と言います。だから、イライラすることは神経に障るので”ナーバス”と言うんですね。ナーブが傷つくと大変です。だから薬が必要になります。ナーブを治す天然の薬、それが”ハーブ”なんですね。でも”ハーバス”ということばはありませんから、ご注意を」という具合。ただのダジャレだ。その時はたぶん何かの弾みでおもしろく感じたのだろう。出典不詳も、もしかしたらぼくの作品なのかもしれない。だとすると、ちょっとセンスが悪い。誰かがハーブの形容詞形でハーバスと言ったので、ほんとうは”ハーバル”だよと教えてあげた記憶もない。

抜き書きメモ。これはうっすらと記憶に残っている。「交渉とは知的力学の応用である。交渉力を構成するのは、情報、時間、力。譲歩は投資の量に比例する。ゆえに、失うものがない者は交渉に強い。」 この下線部はぼくの持論となっていて、あちこちでこの話をする。手元に本がないので確かめられないが、これはハーブ・コーエンの交渉の本の部分要約に違いない。

こちらは最近のメモ。「カラダ・バランス飲料DAKARAの余分三兄弟のコマーシャル。余分とは脂肪、糖分、塩分の肥満の三要素。これを”ヒーマン・ブラザーズ”という。」 もちろん”リーマン・ブラザーズ”のもじり。これはぼくの創作である。しかし、それに続く一文「糖分と天海あまみは仕込まれたコードか?」はネット上かどこかで目についたメモだ。それは覚えているのだが、出典不詳。ご存知ない方のために説明すると、このコマーシャルの主役は女優の天海祐希であり、甘味をかけている。

出典や信憑性に左右される日々、たまにはそんなものから解放されて、「人類の知恵はみんなの知恵」と精神を奔放にさせればいい。 

編集という手間と創造

昨日の午後から始めて、今日は丸一日、おそらく明日の午前まで続く。そんな編集作業をしている。同じテーマについて、これまで書いてきたテキスト3種類(A4判にして45ページ)、パワーポイントのスライド約160枚を、それぞれ1012ページと5060枚に編集する。

編集はさまざまな概念を包括することばだ。再構成あり、加筆訂正あり、取捨選択あり、組み合わせあり、並べ替えあり、項目・見出しの整理あり、情報のアップデート……と数え切れない。松岡正剛の編集工学の本にはさらに延々と編集機能の用語が並ぶ。

結論から言うと、期限に追われず時間があれば、過去に書いたものや作成したものにいつまでも未練を持たぬほうがよい。スピードだけを考慮すれば、最近の思考メモを中心にまとめるほうがうんと速く片付く。通常、白い紙に何かを書いていくほうが創造的で、その分手間もかかると考えるものだ。しかし、たとえ単語を一つだけ書いてあるカードであっても、それが百枚にもなると「編集方針」が必要になってくる。何かの見立てをしないかぎり、にっちもさっちもいかなくなるのが常だ。


期限に間に合う自信があったので、冒険をしてみた。約5時間用のセミナーに改造しているので、まず使えそうなパワーポイントのスライドを60枚に絞った。選ぶというよりも、賞味期限に「?」がつくものを捨てる感覚である。次いで6つのカテゴリーを「仮設」して、そこにパワーポイントのスライドを割り振りしていった。ここまではまずまずうまくいったように思われた。

だが、本来ぼくはテキストを執筆してから、その内容をパワーポイント上の事例なりエピソードによって解説するスタイルを取っている。これと逆の試みをしてしまったわけである。これが難儀なことになってしまった。それぞれのスライドと連動するテキストの行や段落探しが大変なのだ。かと言って、スライドを一枚一枚見ながら、それと関連するテキストを書くのも妙な話である。それは、まるで出来上がった一杯のコーヒーを豆と熱湯に戻していくような、上位概念の逆抽出作業なのだ。

半時間ほど思案。思案している時間がもったいないので、ブログを書くことにした。ブログを書きながら気づいた。一枚のスライドにすべてのテキストなどいらないではないかと。これまでもテキストのすべての内容にスライドを付随させたわけではなかった。だから、その逆もたぶんオーケーである。ほんのちょっぴり、明るい気持ちになって仕事に戻れる。