語源を遊ぶ

ぼくの英語遍歴――

中高生の時代、英語は得意科目の一つだったが、所詮与えられたものを記憶して点を取ったに過ぎない。自発的に学ぶ対象を決めて独学し始めたのは19歳の時。毎日数時間ひたすら音読した。学びの身でありながら、指導する側に回るのが手っ取り早いと考え、21歳から英会話学校で英語を教え始めた。

二十代後半から英語を使う国際広報の仕事に就いたので、28歳を最後に英語の勉強をやめた。仕事上でアウトプットすることが必然になり、使えば使うほど新たなインプットを促すことになったから、もはや学習の必要がなくなったのである。

さて、日本の英語教育。原則、義務教育の7年目から本格的に英語を学ぶことになっている。高校でも学ぶので、好き嫌いを問わず、また習得度のいかんにかかわらず、ほとんどの人が6年間授業を受けることになる。教えた経験から言うと、誰もが英語を習得できるようにはならない。何をもって習得とするかは本人次第だが、習得という満足を得られるのはつねに少数派である。他の習い事とは比較にならないほど習得率が低く、百人に一人どころではないほどの狭き門と言ってもよい。

だが、英語学習のゴールや結果が必ずしも習得である必要はない、とぼくは考えている。母語だけで生涯を過ごすのに比べて、ある時期に英語に触れれば日本語のコミュニケーションに深みと妙を加えるきっかけになるからだ。だから、いろんな意見があるだろうが、十代に6年間英語に触れることに意味無しとは思わない。一方が母語である日本語で、他方が拙い英語であっても、二つの言語で表現や概念を知れば世界観が広がるのは間違いない。


ことばのロマンス

漢字の字源や由来を知ると楽しい。同様に、英語や他の言語の語源も、調べ始めると興味が尽きない。

実は、ラテン語も独学したことがある。言うまでもないが、ほぼ死語であるラテン語を誰かと話そうなどという魂胆があるはずもなく、また、習得してラテン語の古い本を読もうという野望があったわけでもない。ラテン語を少し齧っておけば、現代のイタリア語や英語やフランス語の表現に親近感が持てそうな気がしたからである。

つい最近も古本屋で『ことばのロマンス』という本を買った。この種の本は他人に薀蓄する以外に役立ちそうもないし、数ヵ国語の現代語・中世語・古代語を行き来するから、読むのが少々面倒である。それでも、遊び心で拾い読みしてみるのだ。語源に興味を持てば、語彙の「体幹」がしっかりしてくるような気がしてくるのである。

Skirt(スカート)という英語がある。これは北欧起源という。このことばの二重語にshirt(シャツ)がある。ちなみに、二重語とは同じ起源を持つ二つの単語のこと。つまり、英語のスカートとシャツは根が同じというわけ。では、根はどこか。俗ラテン語のex-curtusである。意味は「短い」だと聞いて驚く。短いは英語でshortだ。そうか、道理でskirtshirtshortは酷似している。何のことはない、わざわざ「ミニスカート」などと言わなくても、元々スカートそのものが短かったのである。

英語にjiltということばがある。手元の辞書によると、「〈気をもたせたり婚約したりした後で、女が恋人を〉捨てる」という意味の動詞である。名詞ではずばり「男たらし、浮気女」。英語の古い形ではjilletで、女性の愛称Jill(ジル)も同じ。JillJuliana(ジュリアナ)の短縮形だ。そして、かのシェークスピア作中のJuliet(ジュリエット)がこれの二重語。そう、ジュリエットは語源的に男たらしだったのである。スカートの語源とジュリアナの語源を足し算すれば、1990年代のジュリアナ東京のああでなくてはならなかった理由が見えてきそうだ。

「山のあなた」と「海のあなたの」

語学への関心が高まった十代半ばから半世紀近く経った今に至るまで、時々ふと思い出して上田敏の訳詩集『海潮音』を本棚から取り出す。上田敏が英語、ドイツ語、フランス語に堪能であったことはよく知られている。しかし、詩を訳すには外国語に堪能である以外に別の才がいる。

原詩の心象や情景を汲み、まったく異言語である日本語でリズムと語感を響かせ、文字数も合わせねばならない。筆舌に尽くしがたい才である。上田敏の訳は一頭抜きんでていて他を寄せ付けない。名立たる欧米の詩人の原詩をはるかに凌いでいる。詩集であれ小説であれ、文学作品の翻訳が原作に優ることは稀だ。

海潮音 初版復刻版

最近古本屋で『海潮音』の復刻版を見つけた。三百円の値札を見て躊躇なく手に入れた。ウェブの青空文庫なら無償なので、興味のある方は通読して気に入った詩を味わったり口ずさんだりしてみればどうだろう。


原詩を知る人はめったにいないが、ドイツの詩人カール・ブッセの訳詩なら誰もが一度は見たか聞いたかしているはず。

  山のあなた

山のあなたの空遠く
(さいはひ)」住むと人のいふ。
(ああ)、われひとゝ()めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
(さいはひ)」住むと人のいふ。

『海潮音』には、南仏の詩人テオドル・オオバネルの一編も収められている。

  海のあなたの

海のあなたの遙けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、
海のあなたの遙けき国へ。

まるで「山のあなた」と対になっているような一編である。もちろん二つの詩が山と海を主題にして対詩を成しているわけではない。一方がドイツの詩人、他方がフランスの詩人。詩作の時代も場所も違う。しかし、上田敏の訳によって、二つの主題が響き合っているかのように鑑賞できるから不思議である。

ルビを振る

こと書くことに関しては、日本語ほど表情豊かな言語は他にないだろう。漢字があり、ひらがながあり、カタカナがある。アルファベットも抱き込める。公式文書以外ならおびただしい種類の絵文字にも出番がある。

日本語特有の表記でもっとも特徴的なのは、横書きなら本文の上、縦書きなら右横に小さく文字を振る。読みにくい漢字に付けるのが「ふりがな」。書き手自らの創意による読み方も注釈代わりに入れることができる。「刑事」と表意しておいて「デカ」と表音させる芸当もできる。ふりがなも含めて、このような小さな文字を〈ルビ〉と呼ぶ。

以前はこのブログ上では直接ルビが振れなかった。たとえば「地位も名誉も放擲して隠棲の決意をしたことを男は拳拳服膺しなかった」などという文章の場合。本ブログのプラットフォームでは、「地位も名誉も放擲(ほうてき)して隠棲(いんせい)の決意をしたことを男は拳拳服膺(けんけんふくよう)しなかった」と、難読字の後に括弧内で表記するしかない。この一文などは漢字が読めても意味がわかる文章ではないが、傍線部の文字の上にひらがなのルビを振りたくなる衝動に駆られることがある。

最近ではプラグインというアプリの一種でルビが使えるようになった。

「地位も名誉も放擲ほうてきして隠棲いんせいの決意をしたことを男はけんけん服膺ふくようしなかった」

案外簡単である。但し、ルビはあくまでも補助であるし、そうそう頻繁に出番があるわけではない。ルビを振れども本文下手では話にならない。

ルビを振る

太宰治が書いた文章中に「文化にルビを振るなら、はにかみ」というくだりがあって、大いに感心したのを覚えている。「文化とはにかみだ」とは書きにくいが、「文化はにかみ」と表記すればさらりと言いのけて文章を綴れてしまう。子ども向けの本なら「ぶんか」、異文化交流の話なら「カルチャー」と読ませてもいい。

披露宴に「かねあつめ」とルビを振ったことがある。前段の結婚式を「かみだのみ」、後段の二次会を「かこあばき」と読ませた。首尾よく「か」で始まるひらがな五文字で表現できた三点セットである。

わずかなスペース内に日本語と英語を併記できるのもルビの利点だ。知識のひけらかしはいただけないが、読み手の理解と知識の一助となればという意図なら、これはコミュニケーションにおけるおもてなしの一つと言ってもいい。

以前、四字熟語にルビを振る演習を研修に取り入れたことがある。「一石二鳥」なら「コストパフォーマンス」のように。「十人十色」に「みんなちがっていいんだよ」と書けば、相田みつを調だ。ルビは日本語の書き手の特権だから、煩雑にならない程度にうまく行使すれば文に味が出る。

時々音読のすすめ

声に出して読みたい日本語ブームが起こってから10年以上になる。話題を呼び本もいろいろとよく売れた。黙読がすっかり読書の主流になった時代に、本を読みながら語感を磨くという一つの選択肢を提起した。しかし、今では熱もすっかり醒めたようである。

単純な絵や記号を文字に進化させてきた古代文明。文字は何事かを記録するために発明された。だが、記録用に発明されっ放しではなく、必然伝えられ読まれるようになった。近代になっても識字できる人々は圧倒的に少数であったが、彼らが読む時は声に出していた。つまり、古来、読書とは音読することだったのである。

黙読の習慣が定着したのはかなり最近のことだ。諸説いろいろあるが、表音文字であるアルファベットの国々では19世紀まで音読が普通だったという説もある。図書館の普及もあって黙読が音読を逆転するのだが、私的な場面では相変わらず音読派が多かった。昭和30年代でも声に出して本を読む大人が少なからず周囲にいたのを覚えている。

幼少の頃に漢文の素読を徹底的にやらされたと勝海舟は『氷川清話』で書いている。子どもに意味などわかるはずもないが、誰かが読み上げる漢文や漢詩の音を真似し、あるいは、文章を読めるようになると、それを繰り返し只管音読しかんおんどくする。こんなことをしてどうなるものかと納得していなかったかもしれない。だが、こうして習慣形成された響きとリズムが言語力の基底になった。退屈な音読トレーニングが成人してから生きてくるのである。


春望高校時代、杜甫の『春望』を音読して暗記暗誦したことがある。原文を見ずにそらんじるようになると、大人気分になり、また少々賢くなったと錯覚したものである。たとえ錯覚でもいいではないか。ほんの少しことばの自信が芽生えれば儲けものなのだから。だいたい習い事はすべて、真似をしているうちにできるようになったと錯覚し、しばらくして頭を打つが、それでも諦めずに続ける……という繰り返しによって上達していくものだろう。

朱子のことばに「読書三到」がある。本を読むに際しての三つの心得を説く。読書とは、まず声に出して読む(口到こうとう)、次いでよく目を開いて見る(眼到がんとう)、そして、心を集中する(心到しんとう)。この三到によって熟読するのが肝要だと教える。

話すことにマメでない人がいる。話そうと思えば清水の舞台から飛び降りる覚悟のいる人がいる。時々音読するのがよいと助言するのだが、三日坊主で終わる。声に出すというのは口だけの作業ではなく、全身体的行為だからきついのである。腹筋や腕立て伏せを決意しても続かないのと同じ。続く人が少ないからこそ値打ちがあるとも言える。外国語の学習に音読が効果的であることに疑う余地はない。日本語は母語だから勝手に身につくなどという誤った考えを捨てよう。同じ効果は日本語でもてきめんだ。口の重い人はせいぜい音読に励むべきである。

眠れなくなる回文創作

軽い機敏な仔猫何匹いるか二十数年前に土屋耕一の『軽い機敏な仔猫何匹いるか』を読んだ。後先を考えずにことば遊びに食いつく性分だから、読後約一年間は回文熱が高じてしまった。仲間と創作に励み競ったこともある。

回文。上下同読のことば遊びである。冒頭の本は土屋耕一が創作した回文を集めたもので、タイトル自体が「かるいきびんなこねこなんびきいるか」と回文になっている。

「トマト」や「新聞紙」も上下同読だが、文章にはなっていない。おなじみの「竹やぶ焼けた」(たけやぶやけた)。短いが、一応文章になっている。「品川に今住む住まい庭が無し」(しながわに いますむすまい にわがなし)もよく知られている。五七五では「我が立つた錦の岸に竜田川」(わがたつた にしきのきしに たつたがわ)がきれいにまとまっている。古来、俳句や和歌ではおびただしい回文が作られていて、「むむ、これで回文になっているのか!?」と目を疑うほどよくできたものもある。下品系では「ヘアリキッドけつにつけドッキリあへ!」 これはぼくが作ったのだが、まったく同じものを作っている人が何人もいる。回文には制約があるから、短文の場合は偶然の一致がよく起こる。


オリジナリティを意識するなら長文である。しかし、長くなればなるほど、助詞が抜けたり文法が変則になったりするし、ふだん使わない言い回しを強引に捻り出さねばならない。自然文で作るのは決してやさしくない。なお、「は⇔わ」「お⇔を」「清音⇔濁音」などは互換性ありと見なす。

ワープロ時代にずいぶん作ったが、データがどこにあるかわからない。ワープロとフロッピーはオフィスのどこかにあるはずだが……。自作だから十や二十は何とか思い出せる。一つご笑覧いただこう。

「今朝女の子 飯時に土間で危機を聞き 出窓に木戸閉め この難を避け」 (けさおんなのこ めしどきにどまでききをきき でまどにきどしめ このなんをさけ)

回文をやり出すと、何をしていても単語や文章が浮かんでくる。たとえば「空が青い」と頭で響くと、「いおあがらそ」と下から音を逆読みする。やがて、ことばが次から次へと押し寄せてきて眠れなくなる。一度は経験しておいてもいいと思うが、苦労の割には駄作しかできない。佳作の一つや二つができるまでは少々時間もかかるし、それなりの覚悟はいる。

定義はいろいろ

辞書辞書を引く。頻度の高い見出し語には定義や語釈が多いことに気づく。また、辞書ごとに定義のラインアップが違うことも分かる。一般辞書から離れて専門用語辞典を覗けば、目新しい定義が目につく。もちろん、用語の定義はこれだけにとどまらない。

アンブローズ・ビアスが『悪魔の辞典』を著したのは一世紀も前のことである。正統派の辞典に対し、裏から斜めから、あるいは前衛的に字義解釈をおこなった「異端派の辞典」である。今日まで悪魔の辞典の流れを汲む本は絶えず発行されてきた。ぼくの本棚にも数冊が並んでいる。言うまでもなく、おもしろさという点では広辞苑や新明解は太刀打ちできない。

「博士」という号がある。正統派の定義では、「学問やその方面の知識・技術に詳しい専門家」ということになる。他方、異端派の『ビジネス版悪魔の辞典』(山田英夫著)によれば、博士などは定義していない。代わりに「博士号」についての皮肉がつぶやかれる。「博士号をもつ研究者を多数擁しながらも成果が出ない状態を、『ドクタースランプ』と呼ぶ」という具合だ。アラレちゃんか……。いま話題の某研究所の内情がアラアラにアレアレ状態だから、これを根も葉もない用例として切り捨てるわけにもいかない。


〈無知の知〉はソクラテス哲学の重要なテーマの一つである。無知を自覚する時点で、何でも知っていると錯覚している者よりもましだということだ。人はどれだけ学んでも何から何まで知ることができないという点で無知だと言うのである。これも一種の悪魔の辞典的用例ではある。

仕事柄、知識の多寡や知の研鑽について考える機会が多いが、「知っている」というのは人それぞれだとつくづく思う。ぼくから見れば、あるXについてA君はB君よりもよく知っている。ところが、A君本人はまだまだ知らないと自覚しており、B君はかなり知っていると過信している。A君には無知の知がある。正真正銘の無知というのはだいたいB君タイプである。余談だが、ネットでちょこっと調べ物をして知ったかぶりをしていると、やがてB君になってしまう。

以上から、悪魔の辞典風に言えば、【無知】とは「知っていることが知らないことよりも多いと錯覚している状態」。ついでに、【浅学】とは「あることについて、知らないことが知っていることよりも圧倒的に多い状態」である。さらに、【博学】は「ひろいと表わすものの、実は、浅学よりもほんのちょっとましな程度」に過ぎない。依然として、知らないことが知っていることよりも絶望的に多い状態である。

分母に「∞(無限大)」を置けば、まことに人はみな平等に無知な存在に出来上がっている。しかし、現実社会においては誰も知の領域を無限大などと見なしていない。だから、ものをあまり知らない人間とものをよく知っている人間が入り混じる。前者のほうが楽そうだが、そういうわけにもいかないのが無知を自覚する者の宿命なのである。

説明が過剰になる時

説明の説明の説明

〈説明責任(accountability)〉が頻繁に問われるあまり、説明不足への風当たりが強くなっている。たしかに、説明を十分にしておかないと、言及していない箇所の理解を相手に委ねることになる。理解が誤解になり、伝えたつもりのことが伝わっておらず、また、伝えていないことが勝手にイメージされて一人歩きしてしまうこともある。

かと言って、知らなくても誰も困らない瑣末な事柄まで説明するのも考えものだ。頭が混乱するほどこれでもかとばかりに説明を受けたものの、終わってみれば一言で事足りる話だったなどということはよくある。説明の過剰に聞き手は苛立つ。過不足のない説明のさじ加減は容易ではない。

標識に「頭上に注意」と書いてあるだけなら、怪訝に空を見上げるばかり。何に注意したらいいものやらさっぱりわからない。では、「頭上に注意。ハトやムクドリの糞が落ちてきます」はどうか。今度は説明が過剰になっている。ハトやムクドリまで特定してもらう必要はないのである。「頭上、鳥の糞に注意」で必要十分だ。ハトやムクドリのは嫌だがスズメやカラスの糞ならいいという選り好みをする通行人がいるはずもない。


大阪に谷町線という地下鉄線がある。駅の数は全部で26。ターミナルは八尾南駅と大日駅。この二つの駅に南森町駅を加えた3駅はダイヤによって扉の開く側が左になったり右になったりする。残りの23駅のうち、いつも左側の扉が開く駅は5つ。残りの18駅はつねに右側が開く。こんなことがわかるのは、車両内に路線の駅名と扉開閉の情報が表示されているからだ。ごていねいにも駅名の下に「左」「右」というアイコンが記され、「進行方向にむかっての左側・右側であること」が説明されている。

次いで、ターミナルの二つの駅には「注1」とあり、「ダイヤによって(扉の開く側が)変わる」と書いてある。「注2」は南森町駅に付けられていて、二つのターミナル駅のどちら行きかによって開く扉側が違うとの説明が加えられている。

これらの情報を読み込んで理解するのに23分はかかった。そして、読み解いた結果、この説明がぼくにはまったく必要ないことにがっかりした。過剰である。おそらく几帳面に些事に気づく職員の仕業なのだろうが、本来乗客への説明のために始めたはずが、何のことはない、自分のための確認に終始してしまったのである。そもそも、次に降りる駅で左右どちらの扉が開くのかという情報を希求してやまない乗客がいったいどれほどいるのか。仮に大勢いたとしても、注釈を付けるほど大仰な話ではあるまい。

ものは言いようか?

大学生の頃、英語のスピーチの指南役と言えば、デール・カーネギーだった。カーネギーを知る前は、スピーチの価値は中身にあると硬派に信じていたから、いつも何を話すかばかり考えていた。ある時、“It’s not what you say, but how you say it.”というカーネギーの一文に出合う。「(重要なのは)何を話すかではなく、それをどのように言い表わすかである」。どんなにいい話であっても、下手に喋ったらダメ、ものは言いようだぞ、表現次第なのだぞ、ということだ。

だが、「ものは言いよう」に代表される〈修辞法レトリック〉が万能でないことは専門家なら誰しも知っている。洋の東西を問わず、体躯をろくに鍛えずに、貧弱を隠蔽するために着飾る傾向への批判はつねにあったし、近年も風当たりが弱まってはいない。古代ギリシア時代のソフィストらの詭弁も表現優先の修辞法によるものであった。ところが、詭弁術とは異なる〈説得立証〉と〈言論配列〉という修辞法も鍛錬メニューとして存在していた。説得立証は「説得のための証拠・論拠立ての方法」であり、言論配列は「序言・陳述・証拠・証明・蓋然性・概括」などの組み立て方を扱う。

ここで言論配列に注目したい。これはスピーチの効果的な構成に関わる技術である。起承転結に近いが、起承転結は漢詩の詩作――または物語の構成――の基本概念であるのに対し、言論配列は弁論術の一つを成すものだ。アリストテレスは2400年前にこのことを説いていた。時代を下って17世紀、パスカルも『パンセ』の中で、「わたしが何も新しいことを言わなかったなどと言わないでほしい。内容の配置が新しいのである」と言っている。

長年、ぼくは企画業と講師業の二足のわらじを履いてきた。前者では立案と企画書作成をおこない、後者では毎年数種類の研修テキストを執筆する。何百という企画書とテキストをこれまで書いてきたが、書く作業よりもコンテンツの選択のほうが大変なのを実感している。さらに、コンテンツの選択よりも「構成」により多くの時間と労力を費やさねばならない。「ものは言いようや書きよう」を否定はしないが、「ものは並べよう」により注力すべきなのである。

風船.jpg情報化社会になって、目新しい情報を追いかけ情報量の多さを競うようになった。この結果どうなっているか。情報を集めて足し算するばかり、構成にしてもあたかも任意抽出して適当に並べているようなフシがある。発信者側はそれでもいいだろうが、受信者側にとってはえらく迷惑な話である。大量の情報を読まされたものの、何も残らない、ピンと来ないということが頻繁に起こる。

情報を欲張る前にやっておくべきことがある。それが配列だ。たとえば、3つの情報を〈A→B→C〉と並べる。同じ情報は〈A→C→B〉〈B→A→C〉〈B→C→A〉〈C→A→B〉〈C→B→A)と変化させることができ、全部で6種類の配列が可能になる。新たにDEを加える前に、手持ちの情報の順列・組み合わせをしてみるのだ。仕事のスピード化につながることを請け合ってもいい。ものを並べ換えるという、ごく初歩的な作業価値を見直す。追補や加筆は並べ換えの一工夫の後でもできるのである。

語句の断章(20) 隠れ家

今時の「隠れ家かくれが」は必ずしもその姿を隠して佇んではいない。とりわけ「隠れ家的な」と形容される食事処や宿は、隠すどころか、逆に露出を売りにしている。元々は一部の客だけに知られていたのだろうが、常連が「落ち着いた雰囲気の店があるんだよ」と口走り吹聴することによって有名になってしまった。 

樹木の陰にあって表立たず、めったに人が来ない隠れ家では、大ぴっらに商売などせずに、隠遁者が忍ぶように寝起きしているに違いない。しかし、残念なことに、今では兼好のような徒然の生活者はほとんど存在しない。

隠遁者の住む場所という意味では、フランス語の「エルミタージュ(ermitage)」もぴったりだ。隠れ家とはずいぶん語感が違うが、意味はほぼ同じ。ロシアのエルミタージュ美術館にしても、元を辿れば一般には非公開の私的美術展示館だったのである。

時々近くを歩くものの、未だ一度も階段を下りて覗いたこともないショットバーが自宅から歩いて十数分のところにある。明るい時間帯は当然営業していないから、昼間だとほとんど気づかない。実際、ぼくがこのバーの存在に気づいたのは、ある月夜の午後7時過ぎだった。地下部分にあるこの店、一見いちげんさんが入りにくい雰囲気を漂わせ、まさに隠れ家的と呼ぶにふさわしい。もしかしてアンニュイなエルミタージュなのだろうか。
図書の損傷で話題になったアンネ・フランクと彼女の一家は、アムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地に身を隠していた。場所を知られてはいけないという意味では真の隠れ家であった。しかし、自ら望んだはずもなく、見つかれば最後という恐怖から解放されることのない、絶望的なまでに残酷な空間であった。
狭くてもいいから自宅にプチ隠れ家を持ちたいと、ぼくらの世代までの男どもは思ったものである。何のことはない、趣味や読書に興じる書斎のことだ。そこに閉じこもって、しばしの間、雑音と雑事から逃れたい……机一つに小さな本棚があれば御の字、その狭い空間で極上の時間を過ごしてみたい……それは一つの夢だったはずだ。先日、「書斎を持ちたいと思う人?」と研修時間中に聞いてみたら、一割も手を挙げなかった。書斎という隠れ家が何かと便利だということに当世の若者たちは想像が及ばないのだろうか。

コミュニケーション――その用語検証

コミュニケーション.jpg〈プラスチックワード(plastic word)〉が注目されている。ドイツの言語学者ベルクゼンが問題提起した造語だ。何かしら重みのある内容を伝えているような趣があるが、その実、プラスチック製のおもちゃのブロックみたいに変幻自在に姿や形を変えて他の語句と結びつく用語である。あいまいなくせに、いかにも意味ありげな文章を作り上げてしまうという、困った特徴を持つ。

たとえばグローバルがそれであり、アイデンティティやシステム、マネジメントやソリューションも仲間である。カタカナが多いのは提唱者がドイツ人だからだろうが、日本語に訳せば、他に情報、価値、構造、問題、成長などもリストに入るという。ぼく自身もプラスチックワードの常用者であることを認めざるを得ず、とても後ろめたい気分になる。プラスチックという語感の、安直で本物ではないという響きゆえだろうか。

コミュニケーションという術語もその一つだと知るに及び、心中穏やかではなくなった。かなり頻度の高い常用語であるから、「ランチにでも行くか」と同じような気楽さで「もっとコミュニケーションを取ろう」などと誰もが言っている。だが、ランチはプラスチックワードではない。

ランチと呼ばれる〈記号表現シニフィアン〉には明確な〈記号内容シニフィエ〉が対応する。うな丼であれステーキであれ、ざるそばであれ担担麺であれ、ランチは目に見える料理として特定され、口に入れて胃袋におさめるという行為までを具体的に指し示す。これに対して、コミュニケーションということばが意味する記号内容は、人それぞれに異なり変幻自在。要するに、表現者の意図した内容として伝わっていそうもないのである。


いつの頃からだろうか、コミュニケーションは伝達とほぼ同義に扱われるようになった。話したり書いたりする側の行動という意味に変化して現在に至る。つまり、聴いたり読んだりする側の視点がコミュニケーションからすっかり欠落しているのである。と同時に、何かの目的のための手段と見なされてもいる。たとえば、親睦のためのコミュニケーションという具合に。さらには、言語もとばっちりを食って、コミュニケーションのための道具や衣装とされてしまった。言語はコミュニケーションのため、そして、コミュニケーションは何か別のためのものであるという図式である。

何でも語源に遡ればいいとは思わないが、プラスチックワードの最右翼という烙印を押されてしまったコミュニケーションの名誉回復のために、原点を確かめてみるのは無駄な作業ではないだろう。このことばはもともと「共通」という意味であった。たとえば、ラテン語で“sensus communis”と言えば〈共通感覚〉だが、その共通のことである。共通というかぎり、何において共通なのかが示されねばならない。「誰においても」ということだ。誰においてもが極端なら、あるコミュニティの関係者としてもいい。その関わる人々の間で「あることの意味が共有されている状態」である。「今日の午後6時に例の喫茶店で待ち合わせよう」とさんがさんらに告げたら、「今日、午後6時、例の喫茶店、待ち合わせ」という概念と意味が全員で共有されなければならない。そうでなければ、人間関係が成り立たなくなってしまう。

こうして考えてみると、コミュニケーションが単なる道具であるはずもなく、何かの目的のための手段であるはずもないことがわかる。人が他人と生きていく上で、他に代案のない、本質的で究極の行動にほかならない。アリストテレスが「何のための幸福かなど問えない」と語ったように、何のためのコミュニケーションかを問うことなどできないのである。高度な言語とコミュニケーションは人間社会の生命線と言っても過言ではない。このことを強く認識するとき、他の用語はいざ知らず、コミュニケーションということばを安っぽいプラスチックのように弄んではいけないという賢慮と良識が働くだろう。