速成という方法について

読書をしたり考えたり、あるいは人と交わって対話をしたり、二十歳前にディベートと出合って勉強したりはしてきた。学校以外の学び、すなわち独学や実践知に目覚めてから、かれこれ40年になる。決して学び方・アタマの使い方は下手ではないと自覚しているが、考えることと話すことにおいて、十分幸せではあるものの、有頂天の達成感に浸ったことはほとんどない。もちろん、絶対能力がぼくに欠けているという現実がそこにはあるかもしれない。そのことを差し置いても、売れ筋の本のタイトルを見るたびにごく良識的な疑問が湧いてくる。

たとえば『考える力と話す力がおもしろいほど身につく方法』などの類がそれだ。「そんなものあってたまるか」という反骨心が湧き上がって強く懐疑してしまう。もしそのような速成方法が実際に存在するならば、ぼくがコツコツとやってきた方法とはいったい何だったのかと悔やむしかない。だが、どんなに譲歩しても、思考と言語という、人間の根幹を成すような資質が一週間やそこらでものになるとはにわかに信じがたいのだ(少なくとも、ぼくの履歴の範囲ではそんな方法には一度もお目にかかったことはない)。

能力の問題はさておき、この種の本は、この本を手にするまでに一度も意識的に考える力と話す力を鍛えようとしなかった読者を対象にしているのだろうか。そもそも成人になって初めて考える力と話す力の重要性に気づいたような人は、思考と言語の自然主義の流れに漫然と棹を差してきたはずだ。つまり、考えることと話すことをあまり意識せずに、道なりにやり過ごしてきたと思われる。そのような無自覚で努力を怠ってきた彼らに「おもしろいほど身につく方法」が確約されるのである。


勿体をつけた言い回しをやめよう。そんなものがあるはずはないのである。考える力と話す力以外なら、おもしろいほどではなくとも、少々なら効果的で速い方法があるかもしれない。しかし、こと思考と言語の資質を一夜で豹変させるような特効薬など見たことも聞いたことも、ましてや飲んだことなどない。自分なりにある程度考える力と話す力を身につけてきた読者なら、おもしろいほど身につくことがありえないことを承知しているはずだから、その種の本を手にして即効ハウツーを期待するはずもないだろう。

「その種の本」に対していささか批判的すぎたようだ。せっかくの批判を引っ込めるようで恐縮だが、「その種の本」は売らんかなの表看板に反して、実際のところはまずまずのコンテンツを並べて役に立ちそうなノウハウを書いてくれているのである。おもしろいほど身につくかどうかはともかく、ぼくが逆立ちしても真似できないほど、おもしろく書いてあるのだ。さらに、タイトルによく目を凝らせば、「おもしろいほど」であって、「ただちに」とは言っていない。速成方法を説いた本だと勝手に早とちりしているのは、実は読者のほうなのだ。

著者は本が役立つと信じているだろうし、一人でも多くの人に読んで欲しいと願っているだろう。一冊でも多く売れればうれしいに決まっている。この点には大いに共感する。したがって、本のタイトルやコンテンツがどんなに巧妙に仕掛けられていようとも、著者を責めるべきではないだろう。やはり読者の良識が結局は問われることになる。思考力と言語力を高める方法は存在するが、速成の方法はない。熟成には歳月を要することを承知しておかないと、書店のハウツーコーナーで心が揺れ続ける。

耳障り、気障り

創造的な表現への試みには寛容なつもりである。二十代後半から数年間は広告コピーの仕事に携わっていたし、もっと若い頃は論理無視、意味不明の詩を書いたりもしていた。既存の表現体系ではどうにも伝えきれない心情やメッセージがあるから、造語や用法の変形もやむをえない。創造のつもりが、結果的には乱雑や破壊につながることもあるだろう。ある程度割り切るしかない。

それでも、耳に障り気に障る表現がある。いや、正確に言うと、表現が苛立ちを招いているのではなく、話者の「心理的目線」と文脈の構図が耳障りの原因になっている。それが証拠に、別の状況にあって使い手が変わればまったく気にならないし、それどころか逆に、快く響くことさえある。

言い換えれば、立場や意見とことばの表現との不釣合いによる違和感だ。それを語る立場にふさわしくない言の軽さや重さ、あるいは意見や実体と同期しないことば遣いである。たとえば、クロマグロの議決・交渉に敗れたアメリカ代表の「保護が経済に負けた」。デリケートな問題を上位概念で一括りにしてしまう無謀な捨てぜりふではないか。欧米的二項対立発想の息苦しさをつい感じてしまう。ブッシュ前大統領の「アメリカ側につくか、それともテロの側につくか」なども、重いテーマに軽い言い回しの典型だった。他にもっと別の表現選択があってしかるべきだろう。


つい最近、「痛いところを衝かれました」というつぶやきに過剰反応してしまった。高尚なデリカシーではないが、ぼくの言語感性からすると、この表現は同一事項、同一人間関係において最初に気づいたそのとき一度しか使えないはずである。過去に何度も弱点をとらえられ責められてきた状況にあって、何度目かの「痛いところを衝かれました」を繰り返すのはありえない。これまで痛いところを度重なるほど衝かれながら、何事もなかったようにあらためてつぶやけば、耳障りに変じてしまう表現なのである。

もっと言えば、本人が意味した「痛いところ」が、ぼくにとって「腐ったところ」あるいは「どうにもこうにもならないところ」であったなら、あまりにも軽々しいではないか。こっちが神妙なのに、本人が「いやはや、痛いところを衝かれましたね」などとにんまり顔で応答するのは反省がない証拠である。「いやはや」から始めるくらいだから、余裕綽々、まるで他人事を扱うような我関せずの趣がここにはある。

日常語が変異しているのではなく、心情や現実を何とかして言い表そうとする意思がひ弱になっている。頭が高いくせにことばへの情熱が希薄なのだ。「はい」にも「わかりました」にも「やってみます」にも苛立つことがある。繰り返すが、表現そのものが耳障りなのではなく、二重文脈でその場を通り過ごそうとする発言者が気に障っている。彼らの「はい」は「聞くだけ聞いておきます」であり、「わかりました」は「一応検討はしてみます」であり、「やってみます」は「やれるとはかぎりませんが」なのである。アイデンティティのあることば遣いへの道は遠く険しい。    

カフェの話(6) 街の表情

パリやローマの街を歩いていると、「えっ、こんなところに!?」と驚くような場所にカフェやバールが出現する。路地裏にも、人気ひとけのない閑散とした通りにも、絶対に採算がとれないであろう街外れの一角にも。もしかして条例によって数十メートル四方につき一軒の立地が義務づけられているのではないか。そう勘繰りたくなるほどだ。

ぼくが生まれ育った大阪の下町も、昭和30年代から40年代にかけてはそんな風情だったのかもしれない。住宅が密集する町内や商店街の入口に、喫茶店が二軒、三軒と立ち並んでいたものである。しかし、イタリアの小さな、たとえば人口1万人ほどの街でもそんな光景に出くわす。バールを一軒通り過ごしても、ほんの少し歩けば別の店が現れる。

その街の人々には決まって行きつけの店がある。その店に行けば顔馴染みがいる。中には新聞を読んだり無駄話をしたり長居をする客もいるが、立ち飲みカフェやバールでは、挨拶と注文を一緒にして一言二言交わし、コーヒーを飲んだら再び挨拶して店を出て行く。その一言、二言はどこの街でもよく似通っていて、「いつまでも綺麗だね」とか「アントニオはどうした?」などの類い。常連たちはマンネリズムに平気である。

『パリ 旅の雑学ノート』はパリ通の玉村豊男のエッセイ。冒頭、いきなり「カフェの構造と機能」で始まり、カフェの話だけが100ページ以上続く。パリを知らなければマニアックな切り口だと思ってしまいそうだ。ちなみにこの本のサブタイトルは「カフェ/舗道/メトロ」なのだが、数あるパリ名物の中でもこの三点にぼくは納得する。街の表情の主役はもちろんカフェだが、通りと地下鉄も興趣をそそる。

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どこを歩いてもよく見かけるパリの街角カフェ。
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ソルボンヌ近くのカフェ。歩道とテラスに境目がない。
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まるで街路や舗道と一体化したようなカフェ。
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メトロの出入口。このような風情を残すにはたいへんなエネルギーがいる。

語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。

対話論雑感

二日連続対話について論じたので、ついでに湧き上がるまま雑感を並べ書きしてみることにする。ぼくが対話と言うときのテーマは命題形式を前提としている(ディベートではその命題を「論題」と呼ぶ)。対話にはディベートや二者間論争が含まれる。しかし、話題を拾って語り合う会話、演題について一方通行で話す弁論、議題についてさまざまな意見を出す会議などは対話に含めていない。


先の『防災・社会貢献ディベート大会』は「無差別級」でおこなわれた。高校生、大学生、社会人が総当り的に対戦するのは珍しいケースである。ディベートの本来の姿は老若男女が入り混じることだと思っているので、あの大会を大いに評価している。


肯定側は論題で記述された内容を肯定する立場にあり、否定側は論題で記述された内容を否定するのではなく、当面の肯定側が論題を支持する論点を否定する。ちょっと混乱しそうな表現だが、検証者としての否定側は、「はじめに論題否定ありき」ではなく、肯定側の立論に対する否定の任に当たらねばならない、ということを意味している。

肯定側が評価に値する立証責任を果たしているにもかかわらず、否定側が肯定側の論点にまったく争点接合せずに論題のみを否定しているかぎり、反駁責任を果たしているとは見なさない。


ディベートの質を高めるのは肯定側の立証力にほかならない。他方、ディベートをスリリングな議論にするのは否定側の切り返しによるところが大きい。両者拮抗した場合は、即興性を求められる否定側に分がある。


論題には複数の解釈がありうる。ある一つの解釈によって立論の方向性を打ち出すとき、その方向性にはしかるべき正当性あるいは共通感覚(または通念)へのアピールが求められる。これを基本哲学と呼び、立論の冒頭でしっかりと提示するのが望ましい。

定義には辞書から引用する「辞書的定義」と、論題に充当する範囲で自ら手を加える「操作的定義」とがある。後者の定義をおこなう場合は、基本哲学と連動しなければならない。


否定とは「何か」の否定である。否定や反論は、何がしかの主張に対しておこなわれ、その主張と自論の見解が異なっていることを前提としている。見解の相違がなければ、誰も反駁しようとはしない。また、語られもしていないことを否定したり、不在の主張に反論することはできない。


ディベートの議論の評価は、肯定側立論の評価を基準としておこなわれる。


肯定側が二つの論点を提示したとしよう。そのうちの一つが反駁され、しかも最終弁論まで修復されないとき、立証責任は果たされなかったと見なす。すなわち、否定側は論点のすべてを否定する必要はなく、部分の否定だけで反駁責任を果たすことができる。

肯定側が「Aはすぐれている」と主張するだけで、いっさい証拠も論拠も示さなければ、否定側は「Aはすぐれていない」と反論するだけで十分である。

「なぜAがすぐれているのか?」と尋問するのが否定側の役割であるとする見方もあるが、肯定側は主張と同時に証拠と論拠を示す義務を背負っているから、言いっ放しの主張の面倒を見ることはない。但し、それではあまりにも不親切で人情味に欠けるように見えるから、否定側がカウンセリング的に振る舞っておいて損はない。

肯定側が「Aはすぐれている。それは次の二つの理由による」と主張するとき、否定側は主張への反論だけでは反駁責任を果たせない。二つの理由または少なくともいずれか一つの理由に効果的な検証反駁ができてはじめて主張を否定したことになる。


検証する側が一般的には優位に立ちやすいのは確かである。こう言うと、否定側がずいぶん楽そうに思われるかもしれないが、肯定側立論で想定外の論点が提示されたときは当意即妙で対応しなければならないので、力量互角ならまずまず拮抗するようになっている。

議論を拮抗させるためには、論題の記述に細心の注意を払わねばならない。一言一句の違いが議論の方向性を大きく変える。退屈な定義論争や詭弁の応酬が目立つディベートになるのは、たいてい論題記述の拙さに起因している。

対話のための条件

昨夜『対話からのプレゼント』と題して文章を書いた。但し、ただでプレゼントにあずかろうとするのは勝手が過ぎる。プレゼントを貰おうと思えば、それなりの条件を満たさねばならないのだ。対話を「論争」という激しい表現に変えても同じこと。少なくとも意見を異にする二者が何事かについて賛否を交えるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。

見解の相違は人間社会の常態である。満場一致やコンセンサスのほうに無理や不自然さを感じる。十人十色とは言い得て妙で、人の意見は同じであるよりも異なっていることのほうが常。同種意見で成り立つ同質性の高い集団は脆弱であり、異種意見を容認できる異質性の高い集団は柔軟にして変化に強い。もちろん例外もあるが、安易に意見を同じくしようとする努力の前に、双方の異種意見に耳を傾けて大いに議論を戦わせるべきだろう。ぼくたちの風土は、反論や批判にあまりにも弱すぎる。

二十代の頃によく対談集を読んだ。わが国で出版される対談集のほとんどは、座談会形式によって編み出される。めったに挑発的なくだりに出くわさないし、スリリングな論争も見受けない。対談する両者の仲が良すぎるのである。もっとも、仲が良いから是非の対話ができないわけではない。仲が良いからこそ、激論しながら「親しき仲にも礼儀あり」を尊べるとも言える。逆に、見も知らずの相手になると、無難な会話で済ますか、あるいは一触即発の交渉的論争になってしまう可能性が高くなる。


さて、本題。ある命題を巡って主張し反論する対話やディベートにおいて、否定は不可欠な条件である。しかし、通りすがりに誰かを殴りつけるように否定できるわけではない。否定や反論は「何か」に対しておこなわれる。その何かがなければ否定や反論に出番はないのだ。その何かとは、いずれか一方による最初の意見である。サーブがなければ打ち返せない。先手に最初の一手を指してもらわねば、後手はいかんともしがたいのである。

まず、いずれか一方が基調となる意見を述べる。ディベートでは、肯定側による論題支持がこれに当たる。わかりやすさのために一例を挙げる。テーマは「和食の後は日本茶にかぎる」。

「ぼくは和食の後は日本茶にかぎると思うね」と一方が意見を述べる。対話術の訓練を積んだ人間は、この意見に続いて必ず理由を述べるし、必要ならば事例や権威を引く。しかし、相当な知識人でも、対話に親しんでいない者はぽつんと一行語っておしまいだ。この意見に対して、ぼくの常識・経験センサーが反応して「意見の異種性」を検知する。けれども、論拠も証拠もない主張だから、「いや、和食の後は日本茶とはかぎらないだろう」という否定で十分。わざわざ紅茶でもコーヒーでもいいなどとこちらから証明することはない。

もうこれで勝負ありなのだ。そう、後手(ディベートの否定側)の勝ち。後手(否定側)は、先手(肯定側)の説明の程度にお付き合いすればいいのである。このように、端緒を開く側が対話成立の第一条件を満たさねばならない。質も議論の領域も方向性もすべて、この第一条件によって決まる。「和食の後は日本茶にかぎる」という主張を支える理由を示すという条件である。否定する側は、命題を否定するのではなく、この理由に反論するのだ。理由を崩すことができれば主張が揺らぐ。

最初に主張する者(肯定側)の負担は大きいということがわかるだろう。「主張する者が立証の責任を負う」と言われる所以だ。反論する側は立証されもしていない主張を崩すことはできない。そこに何もなければ否定はできないのである。初級教育ディベートでは肯定側を大目に見ることがあるが、限度がある。「和食の後は日本茶にかぎる」と言いながら、烏龍茶の話ばかりしていたら命題に充当した議論になっていない。これでは救いようがない。

すぐれた主張がすぐれた反論を生み、それがすぐれた再反論をもたらし、ひいてはすぐれた意見交換と啓発の機会をもたらす。すぐれた対話術ディアレクティケーへの道はひとえに最初の話者が鍵を握っている。対話やディベートの初心者はここを目指さなければ上達は望めない。

対話からのプレゼント

2010322日。神戸で「第1回防災・社会貢献ディベート大会」が開催され、審査委員長として招かれた。大会そのものについてはニュース記事になっているようだ。一夜明けた今日、ディベートについて再考したことをしたためておこうと思う。


考えていることをことばで表現する。思考していることが熟していれば、ことばになりやすい。おそらくその思考はすでに言語と一体化しているのだろう。考えていることとことばとが一つになる実感が起こるとき、ぼくたちはぶれないアイデンティティを自覚することができる。もっとも、めったに体験できることではないが……。

考えていることがうまくことばにならない。それは言語側の問題であるよりも、思考側の問題であることのほうが多い。「口下手」を言い訳すると、「考え下手」を見苦しく露呈してしまうことになりかねない。どんなに高い思考や言語レベルに達しても、考えをうまく表現できない忸怩じくじたる思いはつねにつきまとう。それでもなお、くじけずに言語化の努力を重ねるしかない。ことばにしてこそ考えが明快になるのも事実である。こうして自分の書いている文章、書き終わった文章を再読してはじめて、考えの輪郭が明瞭になるものだ。

一人で考え表現し、その表現を読み返してみて、新たな思考のありように気づく。たとえ一人でも、思考と言語がつながってくるような作用に気づく。ならば、二者が相まみえる対話ならもっと強い作用が働くだろうと察しがつく。そうなのだ、弁証法の起源でもある、古代ギリシアで生まれた対話術〈ディアレクティケー〉には、自分一人の沈思黙考や言語表現で得られる効果以上の期待が込められた。すなわち、曖昧だったことが他者との議論を通じて一段も二段も高い段階で明らかになる止揚効果である。対話によって、自分の思考に気づき、思考のレベルを上げるのである。対話が授けてくれる最上のプレゼントは思考力だ。


「対話」の意義を説くのはやさしい。しかし、現実的には、対話は後味の悪さを残す。聴衆を相手にした修辞的な弁論術では見られない、一問一答という厳しいやりとりが対話の特徴だ。相手の意見に反論し、自論を主張する。主張すれば「なぜ?」と問われるから理由を示さねばならない。必要に応じて、事例や権威も引かねばならない。

教育ディベートには詭弁的要素も含まれるが、当然ながらディアレクティケーのDNAを強く継承している。命題を定めて、相反する両極に立って議論を交わす。人格を傷つけず、また反論にへこたれず、さらにまた遺恨を残さないよう意識することによって、理性的な対話に習熟する絶好の場になってくれる。だが、相当に場数を踏んでも、「激昂しない、クールで理性的な対話術」を身につけるのはむずかしい。

ディベートでは、相反する立場の相手と議論するものの、相手を打ち負かすことによって勝敗が決まるわけではない。マラソンややり投げやサッカーのように数値の多寡を競うのではないのだ。いや、ある基準にのっとって数値化はされるのだが、点数をつけるのは第三者の、聴衆を代表する審査員である。主観を最小限に抑えるために客観的指標を定め、先入観のない白紙状態タブラ・ラサの維持に努めるものの、主観を完全に消し去ることなど不可能である。

実力や技術だけでディベートの勝敗が決まらないことを心得ておこう。第三者評価型の競技に参加するかぎり、それは必然の理なのだ。ゆえに、審査員のフェアネスと眼力が重要になってくる。そして、審査が終わり判定が下されたら、ディベーターも審査員もその他すべての関係者も素直に結果に従わねばならない。そうでなければ、ディベートなど成り立たない。ディベートには「諦観」が求められる。ぼくがディベートという対話からもらったもう一つのプレゼントは虚心坦懐の精神である。

カフェの話(5) 老舗の名と味

すでに紹介した老舗カッフェ・フローリアンには、水際の広場のカフェというところに水都ヴェネツィアならではの趣があった。

この店のような超有名カフェのほとんどはガイドブックやネット上に掲載されている。「名物に旨いものなし」とよく言われるが、そこまで極端ではないにしても、著名であることと内容が伴っていることは往々にして比例しない。たとえ伝統ある老舗であっても、オーナーが変われば品性も変わり、ブランドの上にあぐらをかいた利益主義の経営に走ることが稀にある。昨年7月、日本人観光客が、ローマはナヴォナ広場近くの老舗リストランテに暴利をむさぼられた事件は記憶に新しい。

ナヴォナ広場から西へ少し歩けばパンテノンがある。その北側のロトンダ広場の一角に構えるのが、ガイドブック掲載常連の老舗カフェ「ラ・カーサ・デル・タッツァ・ドーロ(La Casa del Tazza d’Oro)」。ちょうど二年前、ローマ滞在中にアパートのオーナーが連れて行ってくれた。この一帯にはかつてコーヒー焙煎所が立ち並んでいたらしく、このカフェも元々はその一軒だった。今も焙煎しているから、店の入口近くにまで挽きたての香りが立ちこめている。

何年ぶりかで出くわした「粘性液状」のコーヒー。小さなカップにほんの2センチほど入った濃厚エスプレッソは、一気に一口で味わう。と言うか、それ以外の選択肢はない。この店の名前は「金のカップ」。はたしてそんな器で出てきたのか。店構えも焙煎光景もカップも写真に撮り収めていないのでわからない。

パリには名立たるカフェがいろいろあるが、実際に訪れた有名店は「カフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)」のみ。文豪たちが長居をして文章を綴ったり哲学者たちが激論を交わしたことなどで名を馳せたカフェ。日本でも大阪と東京に出店していたが、大阪長堀の地下街にあった店は今はない。ギャルソンと呼ばれるウェイターの立ち居振る舞いや調度品がパリと同じでちょくちょく通っていた。コーヒーがテーブルに運ばれた直後に会計を済ませる方式もパリそのまま。レジを置かない、あの方法をぼくは気に入っていた。

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サン・ジェルマン大通りに面したカフェ・ド・フロール。店には一度しか行かなかったが、近くのホテルに3泊していたので、この界隈をくまなく歩いたものだ。

「知のメンテナンス」とは何か

すっかり日本語になったメンテナンス(maintenance<動詞maintain)。今ではほとんどの場合、「保守」を意味する。原義は「維持」に近く、しかも”main+tain“と分解すると「手+持つ、支える」となって、「手入れ」に近いような、アナログ的ニュアンスが浮き彫りになる。

ずいぶん前の話になるが、コピー機がよくトラブルを起こしたものである。メーカーは定期的に保守点検をしてはいたが、突発の故障発生にしょっちゅう顧客に呼び出された。故障からの回復を容易にすべく、各社は競ってコピー機に〈自己診断セルフ・ダイアグノシス〉の機能を付加した。機械そのものが、「この箇所がトラブル発生源」とか「修復するにはこの手順」などと自己診断して、ユーザーに知らせるのである。機械は「調子が悪い」と告げて原因も明らかにするのだが、残念ながら修復には他力を必要とする。

機械を人間に置き換えてみよう。「体調が悪い」と自覚しなければ、人間は治療したり改善したりしようとはしない。正確な診断と処方を医者がおこなうにしても、まずは「何か変」に本人自身が気づかなければ、医者のもとを訪れることはないだろう。プロスポーツの選手などは必ずどこかが悪いものなので、自覚するしないにかかわらず、習慣的な身体の手入れを怠らない。この「手入れ」というのが、メンテナンスの本来的な姿だと思う。


そこで、知のメンテナンスとは何か、である。「アタマが悪い」と気づき、良くなるように保守点検することか。いや、成人なら、自分のアタマの良し悪しの値踏みはしているだろう。少なくとも他者と比較しての相対的な判断ぐらいは、とうの昔に下しているはずだ。知のメンテナンスではアタマを良くすることはできない。もう一度、機械のメンテナンスを思い出してほしい。それは機械の質を高めることではなかった。その機械に付与されている機能を十全に働かせることであった。機能そのものが、高機能であれ低機能であれ、うまく働いていないときに迅速に手入れをすることがメンテナンスなのである。

知のメンテナンスにおいては、アタマが悪い人でも知が精一杯働いていれば、機能不全に陥ったアタマの良い人よりも、手入れが行き届いているという考え方をする。アタマの悪い人には励みになるだろう(ならないか!?) ぼくは軽はずみに冗談を言っているのではない。世の中がアタマの良し悪しで動いてはおらず、人間力や成功がアタマの良し悪しだけで決定しないのを見ればわかる。IQの高低や知識の多寡よりも重要なのは、自分自身の知が健全に働いていることなのだ。

同じ仕事を続け同じ発想ばかりする。情報をやたらに取り込みはするが知が働かない。逆に、アタマは混沌としてにっちもさっちもいかない。放置していると、現代人は知の迷い子になってしまうのだ。ことばの使い方、アタマの働かせ方には「理に適う」ことが必要なのである。アタマを良くするコツがないとは言わないが、持てる知の最適稼動が先なのだ。機械が己の機能を知っているほどに、ぼくたちは己の知のありよう、言わば〈知図〉に精通していない。

知のメンテナンスとは、知の方向音痴に手入れをすることにほかならない。ひとまず大まかな東西南北の位置関係をきちっと見極めれば、やがて南南東や西北西などの精細な方向感覚が鋭くなってくる。以上のような視点を、ぼくは今年の私塾のテーマにしている。人物論を触媒にして、一工夫凝ったつもりである。  

自由裁量と義務づけ

まったくうろ覚えなので、内容を詳細に描写することはできないし、ストーリーが間違っているかもしれない。エピソードを通じて伝えたい趣旨だけを汲んでいただきたい。たしか十代の後半だったと思う。テレビでヨーロッパ封建社会の中世を舞台にしたコメディータッチの洋画を見た。当時は今以上に洋画が放映されていた。その映画では小村の領主の代官が「新税」の考案を担当している。中世封建社会では、騎士階級が領主となって農民を支配していたのはご存知の通り。

代官は住民の動きをつぶさに観察していて、何かにつけて新税を適用しようと画策する。小船に乗ろうとしたら「ボート税」、農民が歩いたら「歩行税」という具合だ。税徴収のアイデアが浮かばなくなったら、挙句の果てに「空気税」まで導入しようとする。生きているかぎりは誰だって呼吸はしている。呼吸をするということは、領主が支配するこの村の空気を摂取していることになる。ゆえに空気税。代官が二酸化炭素に注目していれば、世界初の「CO2排出税」が誕生していたかもしれない。

記憶の底辺からぼくがこの話を思い出したのはほかでもない、通称「コンビニカット」を掲げる低料金理容店への洗髪台設置義務づけが加速していて、なんと21の道県ですでに条例化されているというのだ。仕掛けたのは約75千人の「従来型理容店」の店主が組織している全国理容生活衛生同業組合連合会。長ったらしい名称なので、「全理連」と呼ばれている。「カット専門店は洗髪しない。代わりに掃除機のような装置で毛を吸引する。全理連には飲食店からクレームが寄せられている。散髪後の客の毛が食べ物に落ちて不衛生だ、という苦情。ゆえに、衛生水準維持のために洗髪台は不可欠」――これが、条例化を加速させている直接的な動機の要旨である。

洗髪台を備えて、散髪・髭剃り・シャンプー・ドライヤー・整髪をセットメニューにしている店が従来型理容店に多い。この業態を「従来型」と呼ばねばならない時点で、時代が変わったことをぼくは嗅ぎ取る。回転寿司が主流になった結果、従来の寿司店の呼称に困った覚えがあるが、これによく似ている現象だ。ある知人が言っていた、「子どもをカウンターだけの高級寿司店に連れて行ったら、『回らないところはイヤ!』と叫びました」。回転寿司に対してどう呼べばいいのか。従来型寿司店? それとも非回転系寿司店? あるいは、高級時価寿司店か、頼みもしない付き出し有料寿司店?


「今日はどうしておきましょう?」と従来型理容店の店主が尋ね、「今日はカットと髭剃り。この後、風呂に行くので洗髪も整髪もいらない」と答えた時代があったではないか。洗髪が絶対のメニューであるはずがない。もっと言えば、条例は洗髪設備を義務づけるものであって、節約を心掛けている客に洗髪を強要することになる。仮にセットで定額であっても、その金額さえ払えば、ぼくは洗髪をパスすることはできるはずである。「洗髪はいらない」という客のニーズに反して、洗髪を義務づけることなど絶対にできないだろう。

洗髪しないで食事に行くのが不衛生でけしからんと言うのなら、それはコンビニカット店の問題ではなく、マナーの話にすぎない。洗髪をしないで散髪後に食事に行くのは客なのである。自宅で自分のハサミでカットして洗髪しないまま食事に行くのも、肩にフケがついたまま食事に行くのも、汚れた服を着て食事に行くのも、あるいは食べている寿司の味が台無しになるほどヘビーな香水をつけたおばさんがカウンターで隣りに座るのも、すべてマナーの問題なのであって、何から何まで条例を作られては、冒頭の映画とまったく同じストーリーになってしまう。

自由裁量のもとに良識を働かせるだろうという前提が市民社会にはある。それがゆゆしきルール違反になる場合のみ規制なり義務づけが必要となる。観光シーズンと出張が重なるとき、ホテルのビュッフェには数百人もの観光客が入れ替わり立ち代わりお気に入りの料理を皿に取り食べている。あの光景を見れば、舞う綿埃や唾液の飛沫や自然脱毛する髪などの中途半端でないことは一目瞭然だ。デパートの地下しかり。飲食店からの苦情に基づいて全理連が動いたというのが事実であれば、飲食店は今後、訪れる客の直前の行動をすべてトレースするべきだろう。散髪に行って洗髪しない客のために洗髪台を強制するのなら、散髪にも行かず何日も洗髪しないで飲食店にやってくる客にはどんな対策を取るのか。

一見公共の利益に適うような論理のようだが、市場競争力のためのロビー活動に見える。中世の時代のみならず、現代でも私利私欲は理不尽を正当化しようとする。まるで過剰に税徴収するお代官様と同じ。全理連と呼ぶのなら、そこにもう少しましな「理」を構築してほしいものだ。なお、ぼくは千円カットの代弁者ではない。休日に自宅近くの店に行ったことはあるが、帰宅してシャンプーし、それから夕食に出掛けた。この程度の良識さえあれば、裁量に任せればよい。何でも義務、何でも条例というのは社会の幼児化を物語り、やがて善良な顧客を愚民視することにつながる。特定業界内の業態間競争という事情で済む話ではない。