「偽りを語るなかれ」

もう二年半前になるが、本ブログで嘘について集中的に書いたことがある。ギャグのようなもう少し嘘の話嘘つき考アゲイン性懲りもなく「嘘」の、堂々(?)たる四部作。久しぶりにさっき読み直してみた。自画自賛とのそしりを覚悟して言う、結構おもしろかった。

人は嘘をつく。但し、嘘をつくという理由だけで、やみくもに「嘘つき」呼ばわりできない。嘘つきとは「常習の確信犯」のことである。困った挙句に時々小さな嘘をつくぼくやあなたは彼らの同類ではない。嘘も方便という常套句の力を借りれば、「お似合いですよ」などは愛想混じりの嘘だから許容範囲だろう。但し、可愛げのある嘘も正当化し続けていると、可愛げがなくなるから要注意だ。

それにしても、人はなぜ嘘をつくのか。詐欺師は騙すことによって利を得ようとする。ぼくたちの場合は、だいたい都合が悪くなって嘘をつく。都合が悪い理由のそのさらなる理由は千差万別だろう。今の時期、嘘と言えば「八百長事件」を連想してしまうが、それはまた別の機会に取り上げよう。今日のところは、見栄や執着心と嘘との関係である。タイトルの「偽りを語るなかれ」は6世紀中国の学者、顔之推がんしすいの言とされる。


不可抗力によっても強いられる有言不実行とは違って、虚言は多分に意図的である。期限や約束破りは結果として偽ったことになる。愚かしいことに、その偽りをカモフラージュするために嘘を上塗りする。考えてみれば、都合を良くしようとする点では利を得ようとする詐欺師とあまり変わらないのだ。孫引き参照になるが、中村元の『東洋のこころ』に次のような引用がある。

「真実であるようだが、虚偽であることばを語る人がいる。そういう人はそれゆえに罪に触れる。いわんや嘘を語る人はなおさらである。」
(『ダサヴェーサーリア』75

「この世で迷妄に襲われ、僅かの物を貪って、事実でないことを語る人、――かれをいやしい人であると知れ。」
(『スッタニパータ』131

さて、嘘には〈偽薬効果プラシーボ〉があると思う。嘘も方便を足場にして毎日おだてているうちに、下手が上手になったり弱者が強者に変わったりすることもある。逆に言えば、まことの人が何かの拍子で舌に嘘を語らせ、悪しき口業くごうを繰り返すようになるうちに、「虚人」に成り果てることだってありうるだろう。

人はなぜ嘘をつくのか。先の書物で中村元は言う、「それは何ものかを貪ろうとする執著しゅうじゃくがあるからです」。執著、すなわち「こだわりの心」。何にこだわるのか。見栄にこだわり、やがて見栄が転じて虚栄となる。不完全な人間のことだ、非を認めずに我を通そうとすれば、嘘の一つもつかねば辻褄が合わなくなるだろう。嘘をつかない処方は簡単だ。我を引っ込めて非を認めればいいのである。

言在知成

「イメージとことば」に続く話になりそうである。「なりそう」とはひどい無責任ぶりだが、どこに落ち着くのか、予感の域を出ない。書き始めたいま確かなのは、「言在知成」と書いて「げんありちなり」と読ませる四字熟語が起点になったこと。実は、今日初めて公開するのだが、これはぼくが何年か前に造語したもの。だから、正確には四字の「熟語」などではなく、未成熟という意味で「四字若語よじじゃくご」と呼ぶのがふさわしい(もし言在知成がすでに存在しているのなら、偶然の一致である)。

ことばがあるから、知識も身につくし世の中の様子もわかる。美術の先生が対象を黙って指差して生徒に絵を描かせるのはむずかしい。先生は「今日は自宅からリンゴを二個持ってきたよ。手前と奥に一個ずつ配置するから描いてみなさい」と指示するだろう。イメージ的作業をイメージ的コマンドで動かすには、とてつもないエネルギーを必要とするのだ。だから、口下手なくせに、頭の中でイメージばかり浮かべようとする習性のある人は、あれこれと迷わずに、とりあえず口に出してしまうのがいい。イメージを浮かべてもことばになってくれる保証はないのだから。

「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」。これは意味明快なメッセージ。では、この意味を絵に描いたり、紙や粘土で造形する自信があるだろうか。アートセンスがないのなら、ジャスチャーでもかまわない。試みた瞬間、途方に暮れるに違いない。けれども、悩むことなどない。ワンクッションを置かずに、さっさと言ってしまえばいい。「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」という想いを伝えたければ、ただそう言えばいいのだ。幸いなるかな、ことばを使える者たちよ。


「深めの大振りなカップにコーヒーを淹れてくれた。一口啜った瞬間、体温が二、三度上がったような気がした」。この文章から画像なり動画なりをある程度イメージできる。人それぞれのイメージだろうが、ことばの表現に呼応するかのようにイメージは浮かぶ。しかし、なかなか逆は容易ではない。よほど意識しないかぎり、一杯のコーヒーは見た目通りの一杯のコーヒーである。眼前のコーヒーカップからことばの数珠つなぎをしていくためには、指示や問いのような刺激が不可欠になる。

以上のような話をすると、言語がイメージよりも優位であると主張しているように勘違いされる。ぼくは体験的に言語とイメージの役割を考察しているのであって、優劣など一度だって論じたことはない。以前は、はっきりとイメージ優位・言語劣位の信奉者だった。若い頃は自分のイメージ力、その解像度の質に相当自信があった。浮かんだイメージをことばに翻訳するくらい簡単だと思っていた。ところが、イメージとことばを工程順に位置づけなどできないことがわかってきた。

コミュニケーション理論の本のどこかには、〈A君のイメージ⇒A君による言語化⇒A君の発話(音声)⇒Bさんの聞き取り⇒Bさんの言語理解⇒Bさんのイメージ再生〉などのプロセスがよく書かかれている。A君が何を話そうかとイメージし、最終的にそのイメージと同じようなものをBさん側で再生できればコミュニケーションが成立、というわけである。理論を手順化すれば確かにそうなのだろうが、会話のやりとりはよどみない流れであるから、複数の静止画に分割しても意味がないのである。

話をコミュニケーションから離れて、上記のA君自身における〈イメージ⇒言語化⇒発話〉という部分だけをクローズアップすると、何かが頭に浮かび、それをことばによって伝えるという順が見えてくる。人はこの順番にものを考え話していると、ぼくはずっと思っていた。しかし、今は違う。そんなに都合よくイメージばかりが浮かんでくれるはずがないのだ。それどころか、言語をくするからこそイメージがそこに肉付けされるのだと思う。知の形成の仕上げは言語。ゆえに「言在知成」なのである。

立ち読み以前

オフィスから歩いて5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階に書店が入っている。その書店は洋書に強い老舗書店とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度覗いてみようと思う。

なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いまずまずの規模の書店で十分なのである(そこにしても大型書店に分類される)。

その書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。出版文化を支えるのは買う読者である。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。


表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが……。

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。

話は簡単である。即答は一種の技であって、頭の良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか――あるいは「速答 vs 遅答」――には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。

イメージとことば

禅宗に〈不立文字ふりゅうもんじ〉ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二ふじは体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る――こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のようになだめてくれる。

「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。と言うことは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。


冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

ラスコーの洞窟壁画は24万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

普遍的ということ

定義原理主義者ではないけれども、〈普遍〉という概念について書こうと思えば、世間一般に流布している定義を避けて通るわけにはいかない。定義に手を抜くと、小うるさい連中から問い詰められたりもする。煩わしいが、まずことばの定義から始めることにする。

あまり知られていないが、パスカルが〈定義〉について遵守すべき3つのルールを次のように示している(原文をアレンジした)。

1.定義しようとしている用語”W”以外に明快な用語がないならば、Wを用いればよい(つまり、定義の必要なし)。

2.少しでも不明なところがある曖昧な用語なら、そのままにしてはいけない(つまり、必ず定義すること)。

3.用語を定義する時は、完全に知られているかすでに説明されていることばだけを使うこと(つまり、定義しようとしている用語Wを、WまたはWの一部で定義してはならない)。

1.は問題ない。「餅」を「米を蒸してつき、粘りのあるうちに丸や四角に形を整え、そのまま食べることもできるが、固まったものを保存して後日調理して食べる食品」などと懇切丁寧に定義しても、何が何だかさっぱりわからない。餅は「もち、モチ」でいいのである。餅を知らない人はそれをどのように理解すればいいのか。餅に出合って何度も食べて体験的にわかってもらうしかない。

議論や会議をする時の出発点で共通認識が必要だから、2.のルールも納得できるはず。簡単なようで、とても厳しいルールが3.である。なぜなら、空腹を「腹がすくこと」と新明解国語辞典のように定義すれば、ルールに抵触してしまうからだ。利益なども「利」や「益」という漢字抜きで定義しづらいし、「社会適応力」という表現を定義しようものなら、「社会」や「力」を重複して使わざるをえなくなる。


さて、本題の〈普遍的〉である。辞書には「広く行き渡るさま」とあり、転じて「きわめて多くの物事に当てはまること」を意味する。「普遍的な性質」と言えば、若干のニュアンスの相違はあるものの、「共通の性質」と言い換えてもよい。しかし、「共通」に目ぼしい対義語は見当たらないが、「普遍」には「特殊」または「個別」というれっきとした反意語が対置する。要するに、普遍的とは特殊でも個別でもないということだ。

さほど深く考えて普遍的という語を使っているのではないが、おおざっぱに「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまること」をそう言っている。では、「これは世界に普遍的な現象である」などと言う時、一つでも例外があってはいけないのか。まさか、そこまでストイックである必要はない。そんな厳密な意味で使っているはずがない。ならば、どんな状況を普遍的と形容すればいいのだろうか。

一例を示そう。「私は食べることにおいて量ではなく質を重んじる」という文章において、主語の「私」を「あなた」「彼」「彼女」などと置き換えることができ、なおかつ「わたしたち」や「あなたがた」や「彼ら」に置換してもおおむね原文が成立するようなら、その文章のメッセージを普遍的と見なしてもよいと思われる。但し、「おおむね」であってもよい。一部の例外があるからと言って普遍が成り立たないわけではない。そこまで杓子定規で寸法を測ることはない。「ケースバイケース論」が大手を振らず、影を潜めるようなら、その事象を普遍的と称してもいいのである。

二項対立と二律背反

一見酷似しているが、類義語関係にない二つの術語がある。誰かが混同して使っているのに気づいても、話を追っているときは少々の表現の粗っぽさには目をつぶってやり過ごすので、その場で指摘することはない。つい最近では、〈二項対立〉と〈二律背反〉を混同する場面があった。この二つの用語は似ているようだが、はっきりと違う。

二律背反とは、テーゼとアンチテーゼが拮抗している状態と覚えておくのがいい。たとえばディベートの論題を考えるときに、論題を肯定する者と否定する者の立場に有利不利があってはならない。現実的にはどちらかが議論しやすいのだろうが、ほぼ同等になるように論題を決め記述するという意図がある。「ABである」に納得でき、「ABでない」にもうなずけるとき、両命題が同等の妥当性で主張されうると考える。

これに対して、二項対立は、本来いろんな要素を含んでいるはずの一つの大きな概念を、たった二つの下位概念に分けてしまうことである。人間には様々な多項目分類がありうるにもかかわらず、たとえば「男と女」や「大人と子ども」のように極端な二項に分ける(老若男女とした瞬間、もはや二項ではなくなる)。方角は東西南北と四項だが、世界は「西洋と東洋」あるいは「北半球と南半球」と二項でとらえられることが多い。「先進国と発展途上国」でも二項が対立している。


なお、二項対立と二律背反には共通点が一つある。それは、多様性に満ちているはずの主張や議論や世界や対象を、強引に二極に単純化して考えることだ。明快になる一方で、二つの概念がせりあがって鋭く反発し合い、穏やかならぬ構図になってしまう。とはいえ、二項対立の二つの概念は対立・矛盾関係にあるものの、もともと一つの対象を無理やり二つに分けたのであるから、支え合う関係にもなっている。「職場と家庭」や「売り手と買い手」には、二項対立と相互補完の両方が見えている。

金川欣二著『脳がほぐれる言語学』では、「ステーキと胡椒」も二項対立扱いされている。「おいしい焼肉」の極端な二項化と言えるが、少しコジツケっぽい。傑作だったのは、「美川とコロッケ」。両者が属する上位概念も対立もうかがえないが、相互に補完し合っているのは確かである(美川憲一が一方的に得をしているという説もあるが……)。

二項対立は、ある視点からのものの見方であり定義なのである(だから、人それぞれの二項があってよい)。また、いずれか一方でなければ必ず他方になるような概念化が条件である。たとえば、「日本と外国」において、「日本で生まれていない」が必然的に「外国で生まれている」になるように。ところで、知人からのメルマガに「情緒と論理」という話があった。日本人は情緒的でロジックに弱いという主張である。日本人は同時に情緒的にも論理的にもなりえるから、両概念は二項対立していない。同様に、「感性と知性」や「言語とイメージ」なども、つねに併存または一体統合しているので、二項対立と呼ぶのはふさわしくない。

以上の説明で、二項対立と二律背反を混同することはなくなるだろう。但し、これで一安心はできない。難儀なことに、二項対立は「対義語」と区別がつきにくいのである。この話はまた別の機会に拾うことにする。

つかみのセンス

劈頭と掉尾という難解語がある。それぞれ「へきとう」、「ちょうび」と読む。始まりと終わりでもいいのだが、なかなか強い語感を備えている。他に、導入と結論、冒頭と末尾などもある。文章なら文頭と文末、お笑いならつかみとオチ。と、ここまで書いて思い出した。玄関と奥座敷というのもある。二年半前にそのことについて書いている。

極力儀礼的に話に入らないようにするなど、つかみの研究には熱心なほうだが、まだまだ芸が浅い。うまくいく時もあるが、初見参の場に臨んで傾向と対策が不十分ゆえ、無難に話に入ってしまう。少数のうるさ型への気兼ねもある。こんなことでは、つかみの焦点がボケる。つかみは何よりも印象的でなければならない。お笑い芸人ではないのだから、必ずしも笑わせるネタでなくてもよい。しかし、印象的とは、ある意味で普通と違うことである。普通と違う出だしには、奇異や緊張という要素もある。


「分析を好む人間とは、どんな人間なのだろう。これ自体、なかなか分析しづらいことである。発揮された結果としてしか目に見えない。この才能が抜群であるとしたら、分析の作業は楽しくて仕方ないだろう。(……)」
(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』)

 本題に入るまでに、こんな理屈が4ページにわたって述べられる。

「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。もっとも、事態をすぐに飲み込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。」
(安部公房『無関係な死』)

常態ではなく、行き場のないこの気分が最後まで続くが、この書き出しだけで完全につかまれてしまっている。

「その小男はいかにもくたびれていた。彼はのろのろと人ごみを縫いながら、駅の構内を横切ると、出札口へとやってきた。そこで行列に並んで、じっと順番を待っていたが、肩を落とした格好には疲れがにじみ出ており、茶色の背広もかなりくたびれていた。」
(フィリップ・K・ディック『地図にない町』)

数年前までずっと電車通勤していたから、ぼくには見慣れた光景が描写されているにすぎない。だが、その慣れの向こうから異様な匂いが漂ってくる。

「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。(……)」
(カフカ『変身』)

あまりにも有名な冒頭である。あまりにもあっけらんかんと書かれているので、クールに真実として受け止めようとしてしまう。

以上掲げた例は若い頃に読んだ小説であり、すべてが不可解のつかみ、不条理のつかみ、不自然なつかみのいずれかから作品を始めている。この類は人前での話向きではないが、凝視させ次を待たせるにはどうすればいいかを示すお手本になってくれる。


大工のサクランボ親方が、子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれと、どんなふうに出会ったか、その一部始終。

むかしむかし、あるところに……
「王様だ!」 小さい読者のみんなは、すぐにそういうだろうね。
残念ながら、そうではないんだ。むかし、あるところに一本の棒っきれがあった。(……)

これはよくご存知の『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)の冒頭だ。このパターンは軽快でほほえましい。一工夫すればさらにユーモラスに、あるいは一転してシニカルにも応用できる。なお、つかみばかり読んでいてもつかみのセンスは身につかない。すべて読むからこそ劈頭の効果がわかるのである。

人を象徴するもの

ここ二、三年、目線がリテラシー、思考、言語に向いている。仕事上の場数のお陰で、ずいぶんいろんな人たちと付き合ってきて、ようやく他人の発想メカニズムが見えるようになってきた。少し話せば、ものの見方や考え方の特徴がある程度わかる。もうしばらく付き合えば、頭の使い方の上手・下手までも診断して処方してあげられる。さらに、その人の長所を減殺している固着観念が何であるかもだいたいわかる。

別に予言者であるかのように自分を持ち上げているのではない。よく他人を観察することの意味、他人のどこを見るかというコツがつかめれば、将来の予言は無理だとしても、「おそらくこんな人だろう」と言い当てることくらいは誰だってできるようになる。占いの専門家には悪いが、人間というものは、手のひらや水晶やトランプや生年月日や星座にではなく、ことばの使い方や仕事ぶりや日々の暮らし方により強く象徴されると思う。

「あの人は背が高く、ハンサムであり、金回りがいい」などというのも、その人の形容である。いろいろある特徴から目ぼしいものを引き出したという意味で、この表現は彼を「抽象」したものと言える。しかし、こんな特徴はまったく個性的ではない。希少なようで案外そうではなく、「背が低く、不細工であり、金がない」と象徴される人たちと同数かそれ以上いるような気がする。身長や美醜や貧富ごときで人を知ろうとするのは甘い。この意味で、雑誌によく掲載されている心理テストの類も胡散臭い。


人間は「言語的動物」という表現によって象徴される。鳥類が「飛翔的動物」であり、魚類が「泳流的動物」であるように。ぼくたちはことばで羽ばたき、ことばで泳いでいる。どこを? 人間関係が複雑に入り組んだ社会環境を。ことばをよく用いないということは、鳥が羽ばたくことをやめ魚が泳ぐことをやめることに等しい。ことばを鍛錬することは環境適応のための必須要件なのである。

言語は思考に先立つ。このことをリテラシー能力でつまずいている人たちに何度も伝えている。外部環境から遮断された状況で、書きも語りもせずに、沈思黙考することなど不可能なのである。沈思黙考という四字熟語はお気に入りの一つではあるが、これは多分にイメージ的であって、現実的に考えることとは違う。むしろ脱言語的世界に没入して、「思索よりは詩作」するような感じではないか。

その人が何を考えているか。一つの質問に対する答え方でわかる。その人の書くこと、語ること、意見を交わすこと以外のどこに、その人の思考の痕跡を見い出すことができるのか。どこにもない。人間が言語的動物であるかぎり、言語のありようを見れば人がわかる。

「きみ、よく考えているか?」
「はい」
「じゃあ、その考えていることを、一つぼくに聞かせてくれないか?」
「できません」
「なぜ?」
「うまく表現できないのです」
「……」。

これを、考えているがうまく話せない状態と勘違いしてはいけない。「考えていないから話せない」のであり、「話さないから考えられない」のである。思考の活性度は言語の活性化によって高まる。大江健三郎に『「話して考える」と「書いて考える」』という本があるが、言語と思考の関係をとらえて言い得て妙である。

付箋紙メモの行き先

いろいろと自問していることがおびただしい。問われていることも多数、ここに依頼されているテーマが上乗せされて、少々収拾がつかなくなっている。かと言って、忙しくなったり慌ただしくなったり気が急いたりしているわけではない。ただ、何と言うか、散漫としていて焦点を絞り切れない感覚に陥っている。こういう感じを「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」とぼくは呼んでいる。

「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」に良いも悪いもない。その状態は価値判断と無縁の現象にすぎない。もし無理にでも意味を見い出そうとするなら、どちらかと言えば好ましくないことが一点だけある。それは、ここまで書いてきてもなお、頭の中は一行メモの付箋紙で溢れ返っていて、何を書こうとしているのか未だに定まっていないことだ。カオスの中からカオスをなだめる術は生まれてこない。カオスの状態は外部からの強い刺激か、あるいは外部に対する執拗な働きかけによってのみ秩序へと向かう。

考えたい・深めたい・広げたいテーマが山ほどあって、思考・深耕・展開への意欲も指向性も強いのだが、何から手をつけて何と何を関連づけていくかがよく見えない。誰もが身に覚えがあるはず。抱えているすべてのテーマについて、浅瀬で逍遥している時間が延々と続くのだ。繰り返すが、それでもここに良し悪しなどない。なぜなら、一寸先は闇かもしれないが、視界の開けた眺望点かもしれないからである。


秩序へ向かう一つの方法は、一枚の付箋紙だけを偶発的に取り上げて、他を見えないところに格納してしまうことである。今日のところ、こうして手元に残ったのが「事業の目的、顧客の創造」というメモである。ピーター・ドラッカーのあまりにも有名な次の箇所が、この付箋紙メモの発端になっている。

If we want to know what a business is we have to start with its purpose. And its purpose must lie outside of the business itself. In fact, it must be in society since a business enterprise is an organ of society. There is only one valid definition of business purpose: to create a customer. (……)
「事業とは何かを知ろうとすれば、まず事業目的が出発点になる。しかも、事業目的は事業それ自体の外部に見出さねばならない。実際、企業は社会の一器官であるから、事業目的は社会にあってしかるべきだ。唯一妥当な事業目的の定義は顧客の創造である」(拙訳)

事業目的が顧客の創造であり、それがすべてで最終目的であるという議論を、いろんな機会に耳にしてきた。しかし、目的と手段がある時、なぜ目的のほうが手段よりも重要なのかを説明できた人はいない。このドラッカーの説を引く人たちは、事業目的が顧客の創造にあるのだから「それが一番重要だ」と、あまりにも短絡的なのである。人生の最高善であり最終目的を「幸福」だとする時、その幸福に近づく行程や手段を重要度で下位に見立ててよいのか。ノーである。上記の文章から三、四段落後に書かれている次の文章と併せて考えてみる必要がある。

Because it is its purpose to create a customer, any business enterprise has two――and only two――basic functions: marketing and innovation.
「事業の目的は顧客の創造であるから、いかなる企業も二つの、たった二つの基本的な機能を持つことになる。すなわち、マーケティングとイノベーションである」(拙訳)

マーケティングとイノベーションという機能によって顧客の創造へと向かう……これが事業なのだというわけである。一点注目せねばならないのは、顧客の創造の「顧客」が原文では“a customer”と「一顧客」になっている点である。決して集合名詞ではない。ドラッカーに与するかそうでないかの前に、きちんと解釈だけはしておきたいものだ。この先いくら書いても一晩で答えが出るわけでもないのでここでピリオド。続きはいずれ取り上げるが、ビジネスマンなら暇な折りに一考する価値があると思う。


脳内が収拾不能になったら、とりあえず上記のように書いてみることである。何もしないよりもきっと少しは見晴らしがよくなるはずだから。

イタリア料理とワインと・・・

『イタリア紀行』と題して雑文エッセイを54回にわたって書いた時期がある。本ブログに長く付き合っていただいた読者なら記憶に残っていると思う。先ほど調べたら、最終回は2009年の9月だった。つまり、1年と4ヵ月経ったことになる。ヨーロッパに最後に旅したのが2008年の2月~3月。まもなく3年になろうとしている。

めっきりイタリア離れをしている今日この頃だが、年が開けてから集中的にNHKハイビジョンのイタリア特集を観る機会があった。毎日、複数の番組が数時間から十時間くらいにわたって放映された。すべてイタリアにちなむものだ。再放送もいくらかあったものの、初めての番組も楽しむことができた。こんなきっかけからイタリア語の本を開けたり久々に音読したり。会話をしてみたら、おそらくだいぶなまっているに違いない。

無性にイタリア料理を食べたくなった。よく食べてはいるが、ランチでパスタばかり。ディナーとしてゆっくり食べてみたくなったのだ。国内のイタリア料理店はどこも本場水準、いや、むしろ凌ぐレベルに達してきたから、近場でも十分に堪能できる。だが、午後8時に予約を取り、午後7時に仕事を終えて大阪から芦屋まで出掛けた。もう何年も前からその店のことを聞いていたのだが、なかなか縁がなかった。遠戚がオーナーシェフをしている、夜しか営業していないトラットリア(trattoria)。小ぢんまりとして肩肘張らない料理店のことをそう呼ぶ。


少々遠出になるとは言え、寒さや歳にかこつけて邪魔臭がってはいけない。もっと早くこの店に来るべきだったと反省させられたのだ。良質の味と良心的サービスにはまずまずの知覚を持ち合わせているつもり。だが、上には上があるものである。この店は元バールだったが、常連客に薦められて本格的料理を手掛けるようになったらしい。

数種類のおかずを盛り合わせた前菜、ボローニャ風ラグーソースのタリアテッレ(平打ち生パスタ)、それにボリュームたっぷりのオッソブーコ(骨髄の入った仔牛の骨付き脛肉の煮込み)。これにエスプレッソが付いて、さあいくら? とクイズに出したくなるほど、とにかく旨くてリーズナブルなのである。ワインは好きだがたくさんは飲めない。それでもお気に入りの赤ワイン、モンテプルチアーノ・ダブルッツォをグラスになみなみ3杯。

仕事の絡みもあって、風土から見たヨーロッパの小麦・牧畜と日本の稲作・漁業について再学習している。和辻哲郎の『風土』にこうある。

「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定せられているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。」

ちなみに、小麦と米の選択にも同じことが言える。

この説に大きくうなずく。そして、はるか遠くのイタリア風土が育んだパスタと肉を頬張った翌日に、米と魚を融合した食文化の最たる寿司を堪能しようとする日本人の貪欲を思う。ぼくたちの食習慣から風土の固有性が失われて久しい。地産地消的に言えば、これほどルール違反をしている民族も珍しい。それでも、その節操の無さは異文化受容の柔軟性とつながっている。日本人は間違いなく世界一の美食家であり食性が広いのである。願わくば、スローフード発祥のイタリアに見習って、もう少しだけ食事に時間をかけてみたい。