固有名詞を記号に変えてみた

歩いたり電車に乗ったりして過ごしたある日の半日。そのことを技巧を凝らさずに時系列で綴ったことがある。実話なので固有名詞をふんだんに使っている。すべての固有名詞を記号に置き換えてみたらどんな感じになるか……ふと、つまらない好奇心が湧いた。アルファベットで試してみた。

自宅からM線のH駅まで歩き、メトロでO駅へ。そこでF展覧会のチケットをディスカウントショップで買い求めようとしたが、まだ営業時間前だった。
S電車でO駅からK駅までは特急。K駅で普通電車に乗り換えてI駅へ。駅から徒歩67分の所にP美術館がある。建築に工夫のある美術館だ。水辺近くに建つが、海の風景には雑多な建物が入り混じり、必ずしも晴朗美観とは言えない。
帰り道。これと言った食事処がなく、I駅の踏切を通り過ぎてR電車のN駅まで歩いた。その近辺のとある店で「やむなく」という感じで海鮮丼を注文した。可と不可の境界線上にある微妙な味、おまけに微妙な値段。
このN駅、普通電車しか止まらないのに立派過ぎる。一つ戻って特急に乗ることもちらっと考えたが、帰路途上にあるA駅まで普通に乗ることにした。各駅に停車するので所要時間は特急の2倍の約45分。A駅でT線に乗り換えてM駅で下車し、そこから歩いて帰ってきた。
N駅からO駅なら410円だが、O駅手前のA駅を経由してM駅まで乗ると550円になる。ちょっと解せない料金設定だ。
往路の一部は特急に乗ったが、帰路は久しぶりの各駅停車的移動だった。特に急いでいないのなら、普通電車を乗り継いでの近郊半日の小さな旅。まんざら悪くなかった。

ありがたいことを書いているわけではない。固有名詞まみれの個人的なドキュメントだ。固有名詞のすべてを匿名希望的に、一地名や一駅名を一つのアルファベットで表記すると、文章は瞬時に無機的になる。無機的ではあるが、こういうのをクールとは言わない。どちらかと言うと、不気味だ。

ところがである。原文で出てくる固有名詞になじみがないとか、見たり聞いたりしたことはあるが土地勘がないという場合は、アルファベット表記の一文字仮名かめいで書かれた文章を読むのとほとんど変わらないのである。たとえ行ったこともなく土地に不案内だとしても、ニューヨークや上海が出てきたら少しは読み取ろうという気になるものだ。

しかし、ここまで書いてきて、本質的に重要なことに気づいた。リアルな固有名詞であろうと無機的なアルファベットの匿名であろうと、書かれた内容に興味を覚えなければイメージは湧かないし読む気は起こらない。関心があればわかりにくい文章でも読むし、関心がなければどんなに読みやすい文章で書かれていても読まないのである。

酒の嗜みごころ

🍷 コロナ前。杯を持ち上げるジェスチャーをして「今度、飲みに行く?」とよく誘われた。かつて総称的に「酒」と言っていたが、今や酒は多様化した。クラフトビール、白の泡、芋などと具体的に言う人もいる。

🍷 アルコールと総称していた時代もあった。「アルコールはいける口?」というふうに。今やどこに行っても入口にはアルコールが置いてあり、アルコールは消毒を意味するようになった。アルコールと言うと、化合物を飲んで中毒になるイメージがある。

🍺 食を優先して食に合わせることを前提にすれば、酒は嫌いではない。嫌いではないが、つねにほどほどだ。つねにほどほどだが、いろいろ飲むので、割とよく知っている。二日連続飲むと次の日は飲まない。ゆえに、週に23日は休肝することになる。

🍻 ビールだとすぐに顔に出るのでたくさん飲まないし、「とりあえずビール」には異議ありだ。初めから最後までずっと生ビールという連中の気持ちがわからない。お開きの時間が近づくほど酒量が増えていくのがいる。「さあ、そろそろ」という空気を読まずに、「生一丁!」と吠えて一人だけ飲んでいる。苦手なタイプだ。彼らは奢られている時ほどよく飲む。二次会でもずっとビール。

🍶 日本酒党の酒豪の先輩がいた。板わさだけで延々と飲む。「ぼくの奢りだから好きなものを注文したらいいよ」と言われても、主が板わさなのに中トロとは言えない。

🍺 選べるならビールは瓶を注文する。大勢の食事会ではやむなく生中。瓶だとひっきりなしにつがれるからだ。つがれると落ち着かない。箸が動かせない。食べる前に飲まされることになり、酔いのまわりが早くなる。

🍸 食前酒を飲むならギムレットがいいと池波正太郎がどこかで書いていた。ハイボールばかり飲んでいた頃なので、試しに飲んでみた。ジン3に対してライムジュース1という簡単なカクテルなのに、バーごとに、バーテンダーごとに味が違う。カクテルが単純な化合物の混ぜ合わせでないことがわかる。

🍸 食前に自宅でたまにシェリ酒ーを飲む。シェリーはアンダルシアで作られる酒精強化ワインで、普通のワイン約12度に対して、1520度とアルコール度数がやや高め。グラスに氷を入れシェリーを注ぎ、トニックウォーターで割る。ただそれだけ。かなり甘いが、なるべく甘みを抑えたのを選ぶ。

🍾 10年前、バルセロナに滞在した。夜遅く着いても心配なし。彼の地ではレストランは8時や9時にオープンするのが当たり前。食事処には困らない。ホテル近くの垢抜けしたバルに入った。小皿のタパス料理の種類が迷うほど多い。タパス2種類とイカのフリットを注文し、カバ(cava)を合わせた。シャンパンと同じだが、シャンパンと名乗れるのはフランスのシャンパーニュ地方のものだけ。だからカバと名付けた。タパスとカバの合わせ技はこの時の本場体験が初めてだった。

🍾 知人に居酒屋を紹介してもらっていたので、翌々日の夜に行ってみた。狭い通りが入り組んだゴシック地区にある老舗のEl Xampanyetという店。発音しづらいのでノートに「エル・シャンパニェト」とメモしておいた。ここでもカバを飲んだ。

🍾 今年の春先から週に3度ペースでカバを愛飲している。すでに10種類くらい飲んだだろうか。カバは何か月か――場合によっては、12年も――瓶内でゆっくりと二次発酵させるので、シャンパンよりも泡がきめ細かい。口当たりと辛口の度合はわかるようになった。しかし、自宅だと発泡酒を23本開けての飲み比べがままならないから、デリケートな味の違いはまだよくわからない。

「かつら」の話

昨年末にイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。その後、本棚から『ピノッキオの冒険』を取り出してもう一度読んでみた。ある日、大工のアントーニオ親方とジェッペットじいさんが「言った、言ってない」の口ゲンカを始め、ついにほんもののケンカになってしまった。そして……

つかみあい、ひっかきあい、かみつきあい、もみくちゃの大騒動。やっとおさまった時には、アントーニオ親方の手にはジェッペットじいさんの黄色いかつらがにぎられ、ジェッペットじいさんの口には、大工の白髪混じりのかつらがくわえられていた。

その後二人はお互いのかつらを返し、握手をして、以後仲良くやっていこうと誓い合う。男のかつらはハゲを暗示する。ハゲどうしは、仮にもめたとしても関係がこじれないようになっているのだろうか。根拠はないが、ハゲたちは仲が良いような印象がある。

ところで、ウィキペディアは「ハゲ」の解説を次のように始めている。

ハゲ(禿、禿げ)とは、加齢、疾病および投薬の副作用、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頭部がつるつるに禿げている様を指し、つるっぱげ(つるっ禿げ)もしくはツルハゲ(つる禿げ)とも呼ぶ。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることは稀である。

上記引用でぼくが引いた下線部に注目。いきなり冒頭からウィキペディアにしては少々はしゃいでいるではないか。おそらく、ハゲと言ったり書いたりした瞬間、人の心理には何らかの異化作用が生じるようである。


かつらについて語ることがハゲの話に発展する必然性はない。しかし、ウィキペディアの記述である「髪の毛が薄い」とか「頭部がつるつるに禿げている様」とか「つるっぱげ」とかの話とかつらは、中年以降の男性の場合にはワンセットになる傾向が強い。ここでひとつ、かつらとハゲに関する持論を問題提起してみたい。

ハゲの市場は大きいにもかかわらず、商品が毛髪剤と植毛とかつらに限られるのは発想力不足だ。ぼくの親しい友人知人にハゲが数人いる。彼らを見て、以前からハゲに似合うメガネ、ネクタイ、スーツがあり、さらにはハゲならではの話し方や立ち居振る舞いがあると考えていた。誰もやらないのなら、どこかのメーカーの新事業部門に話を持ちかけて商品とサービスのコラボ企画をしてもいいとさえ思っている。

劇作家の別役実に『日々の暮らし方』という本気か冗談か判断しづらいエッセイ集がある。その中に「正しい禿げ方」という本気か冗談かわかりかねる一編が収められている。冗談ぽく書かれているが、正しい挨拶のしかたと間違った挨拶のしかたがあるように、禿げ方にも正しい・間違いがあっても何の不思議もない。別役は次のように話を展開する。

ひとまず、これは多くの「禿」が間違えていることなのであるが、テッペン・・・・から禿げてはならない。(……)テッペンから禿げはじめた場合、残存頭髪をドーナツ状に周囲に配置することになる。つまり、「禿」が中央で、独立して異彩を放つことになる。(……)このことが理解出来れば、前頭部、後頭部、側頭部の内でも、前頭部から「禿」を始めるのが最も理想的なことは、誰にでもわかるであろう。

「たかがハゲ」ではない。つねに「されどハゲ」なのである。テッペンから足元まで、一個の人間としてハゲの全体構想が必要なのだ。ハゲを頭部の現象として何とかしようとするからかつらに目が向いてしまう。安易にかつらで何とかしようしてはいけない。かつらはムレるしズレる。そして、ほぼ間違いなくバレることは無数の事例が証明している。かつらであることがバレた瞬間、毛髪に続いて紳士の資格も失うことになるのである。

抜き書き録〈2022/06号〉

空き時間に再読した「古典もの」の抜き書きを集めてみた。まずは福沢諭吉。有名なあの一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が象徴する啓蒙主義的言説に少々飽きてはいるが、やっぱり随所でいいことを書いている。

人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己いっこの定見なき者あり。(『学問のすゝめ』)
(見聞を広めるだけで人は立派にならない、読書に勤しんでも著名人と付き合っても自分の意見が持てない者がいる)

昔からのやり方に固守する儒者や洋学者にもこの類が多いと言う。読書はしないよりもする方がいいし、抜き書きもしないよりはする方がいいと思うが、効能の過信には気をつけたい。

「学問」つながりで、17世紀イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コからの青少年教育に関する抜き書き。

記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも、確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。(『学問の方法』)

近年、わが国の教育は記憶させることに偏重している、思考力にもっと力を入れるべきだと批判されてきた。ぼくもその主張に与した一人である。しかし、最近では、何が好きで何に適性があるかもわからない少年期は記憶力優先でいいような気がしている。青年になってどの方向に進むにしても、記憶力――ひいてはヴィ―コ言うところの想像力――が役に立たないはずがないからである。

吉田兼好に対しては立ち位置の取り方が難しい。ある段の話には四の五の言わずに共感するが、別の段には不快感を覚えることもある。あるいは、二律背反的な解釈の余地がある段も少なくない。たとえば次の一節。

筆を取れば物書かれ、楽器をとれば音を立てむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、さいをとれば打たむことを思ふ。心は必ず事に触れてきたる。仮にも不善のたはむれをなすべからず。事理もとより二つならず。外相げさうもしそむかざれば内證ないしやう必ず熟す。(『徒然草』第一五七段)
(筆を手にすると書きたい、楽器を手にすると奏でてみたいと思う。さかずきを手にして酒を思い、サイコロに触れると博打をしたくなる。物に触れるから心が動く。だからよろしくない遊びに手を出してはいけない。現れることとあるべきことは別のことではない。外に出てくることが道理に合っているなら、悟りはきっと熟してくる)

こんなふうに言われると、つい「なるほど」と感心させられる。しかし、思いついたことを記そうとしてペンを取り、一曲奏でようと思ってギターを弾くという、動機から行為へという流れもよくあるはず。ところで、酒とギャンブルを書や音楽と同列には語れない。酒飲みは何かにかこつけて飲むだろうし、金を持てば飲み、金がなければ金を借りてでも飲む。ギャンブル好きも同じ。どんな対象でも賭けの対象にする。そして、金を持てば賭け、金がなくなれば金を借りて賭ける。ギャンブル好きはサイコロがなくても馬が走らなくても困らない。とにかく賭博するのである。

ことばがイメージを広げる

インプット量に見合った成果がコンスタントに得られればいいが、なかなかうまくいかない。以前、かなりの読書量を誇る知人がいた。しかし、博覧強記にはほど遠く、また読書は日々の仕事にもあまり役立っていないようだった。「学び多くして知識身につかず、また機智少なし」という結果が常である。

むやみに本を読み他人の話を聴くだけでは、後日再現したり活用したりする取っ掛かりになりにくい。しかし、インプットの時点で、ほんの少しでも考えるとか単語や文章を記すとかしておけば事情は変わってくる。つまり、インプット過程にアウトプットを内蔵させる一工夫。インプットとアウトプットを切り離さないようにするのである。

たった一つのことばが記憶をまさぐるきっかけになる。いま読書室の企画を依頼されているが、〈読書〉というありきたりな一語から知識や経験の扉を開くしかない。一つのことばからイメージを広げるというのは企画の基本である。そして、ことばから導かれた印象的なイメージを起点となったことばの中に折りたためば、ことばとイメージが一体化する。インプットとアウトプットが一つになる。


今はもう廃業してなくなったが、じいさん一人だけの自転車修理専門の小さな店が近くにあった。具合の悪い自転車が持ち込まれると、何はともあれ、じいさんは大きな木箱を持ち出してくる。その中には、自転車の古い部品や、おそらく自転車以外の大小様々な部品が、整理整頓されずに雑然と入っていた。じいさんはその中に手を突っ込んで指先で使えそうな部品を探し出した。

その姿を見ていて、レヴィ⁼ストロースが着眼した〈ブリコラージュ〉という概念を思い出した。「器用仕事」と訳される。深慮遠謀して何かを作るのではなく、ひらめくままに「そのつど主義」で作ったりつくろいに使ったりする。いつか使えるかもしれないと思って残しておいたものといま手に入れたものを直感的に組み合わせて試行錯誤する。

あのじいさんの木箱には、いつか使えるかもしれないと思って貯め込んできたおびただしい部品が入っていた。何に役立つかはわからないが、気になったものや縁を感じたものを手元に置いてスタンバイさせていたのである。どんなアウトプットになるかを深く考えずに、気になるものをひとまずインプットするやり方は、情報のインプットとアウトプットの関係――ひいては、ことばがイメージを広げる様子――にも当てはまる。

最後に。今日の話は「ことばがイメージよりも優位」という主張ではない。ことばがイメージを広げるのと同様に、イメージもことばを広げる役を果たす。しかし、「イメージがことばを広げる」と題して書けばまったく別の話になる。

〈なつ〉と〈しごと〉

🌤 6月になったばかりなのに、ギラギラと太陽が照りつける炎天のイメージが先行する。〈なつ〉に長期休暇があるのは〈なつ〉が〈しごと〉や勉学に向かない証。年に3ヵ月も続く暑さは苦難である。しかし、苦難を試練と見なせば何とか我慢してみようという気になる

🌤 「さんさん」という擬態語は英語の“sun”とは関係ない。「さんさん」は漢字で「燦燦」。おもしろいことに「火へん」である。「ギラギラ」という擬態語も英語とは関係ない。と言いたいところだが、英語の“gl”(グㇽ)という音は紛れもなくギラギラを現している。glareグレアはまぶしい光であり、glassグラースは反射して光るし、glowグロゥは白熱や赤熱の光を輝かせる。複数の言語で“gl”を調べたことがあるが、その音のギラギラ感は人類共通のように思える。

🌤 梅雨入りが早い年は、挨拶も「梅雨入りしたらしいね」になる。

「梅雨入りが半月早くなり、おまけに梅雨明けも半月遅くなったりするとどうなると思う?」
「さあ……。鬱陶しくなる?」
「雨の日が多くなるんだ」

🌤 〈なつ〉になると〈しごと〉のスタミナが続かなくなる。勢い、直線的に取り掛かって効率的に済ませようとする。しかし、経験上これは間違っている。暑い季節の〈しごと〉は、ダメもとの精神で、だらだらと寄り道したり本題から離れて脱線したりするのがいい。

🌤 今年の〈なつ〉もどこか遠くへ出掛ける予定はない。〈しごと〉の後の一杯をささやかに楽しむつもり。
ビールはチェコやベルギーの小瓶。つまみはフィッシュアンドチップスか豚のスペアリブの炙り。ワインは主に白の泡。春先からカバをいろいろ試してきた。つまみには惣菜パン。一口サイズにカットしてタパスに見立てる。ウイスキーはキーンと冷えたバーボンのハイボール。小エビかイカのフリットにレモン汁をたらしてつまむ。

部分的な符合の不思議

ばったり会った。「奇遇ですねぇ」と知人。いやいや、同じエリアで事務所を構えているのだから、たとえ久しぶりでも奇遇などとは言わない。「やあ、しばらく」でいいと思う。

ぼくらが、たとえば東京下町の、あまり観光客が踏み入れない居酒屋でばったり会ったら、その時は「奇遇」である。そして、会ったのは偶然だが、「もしかして周到に準備されていた出来事ではないか」などと思えば、出会いが〈符合〉めいてくる。

ABという事実や話が、まるでセットだったかのようにぴったり合うことが符合である。しかし、事実にしても話にしても、何から何まですべてが一致してしまうと逆に怪しい。むしろ、いくつかの要素がたまたま共通したり一致したりしている時に偶然が脳裏をよぎる。本来の符号よりも「部分的な符合」のほうが不思議なのだ。


映画『孤独のススメ』

6年前の423日に映画『孤独のススメ』を観た。翌24日に国立国際美術館で『森村泰昌 自画像の美術史』を鑑賞した。森村は名画の登場人物や歴史上の人物に扮してセルフポートレート作品を制作する先駆的アーティストである。別に驚いたわけではないが、まったく接点のない映画と展覧会にいくつもの符合があった。

森村泰昌扮するゴッホの自画像

森村の自画像にはレンブラントとゴッホに扮した作品がある。いずれもオランダ人だ。映画『孤独のススメ』はオランダ映画で、舞台もオランダ。オランダつながりということなど、いくらでもある。

ゴッホを生涯支えたのは弟のテオ。テオという名の人物が映画でホームレスの居候として登場する。このひげ面の居候が女装するからおかしい。ところで、女装の自画像も森村作品の特徴である。いや、独壇場と言ってもいい。

森村の展覧会では美術展としては珍しい70分の映像が上映された。その中で森村は羊の群れに囲まれる。そして『孤独のススメ』では、テオが羊の鳴き声のマネが得意で、羊の扱いに手慣れたシーンが出てくるのだ。

映画を観て、一晩寝て、次の日に認知した部分的な符合。何もかもが似ているのではなく、オランダ、テオ、女装、羊という部分的な共通性にたまたまぼくが気づいただけの話である。大いに驚いたわけではない。しかし、このほどよさが偶然と符号の不思議を余計に感じさせる。

「同一ラベルです」

スーパーのレジ係が商品のバーコードをスキャンする。時々「同一ラベルです」の音声が流れる。その日、これまでの連続最多回数を耳にした。中年男性が買った特価のざるそば用麵つゆの小袋。「同一ラベルです、同一ラベルです、同一ラベルです……」。正確に数えていないが、優に20回を超えたと思う。

一昨日、「いろはす」の2リットルペットボトルを2本レジに差し出した。2本目のスキャン時に「同一ラベルです」。けだるくもなく張り上げるでもなく、いつもの事務的な女性の合成音。たまに同じものを2個買う。もっと買う客はいくらでもいる。何十回、いや何百回も聞いてきた「同一ラベルです」。けれども、まだ慣れない。慣れないとは、つまり、今も新鮮に感じるということだ。

「ねぇ、あなたたち二人は双子?」
一人「はい」
もう一人「同一ラベルです」

声を揃えて「はい、双子です」などと言うよりも、よほど刺激的ではないか。

類義語・・・は同一ラベルではないが、同義語・・・なら同一ラベルと言えるのだろうか?

「何と言いますか、『ラーニング』ですかね。いわゆる一つの『学習』と言えるでしょうか」
「長嶋さん、学習はラーニングの『同一ラベル』ですね」

長嶋流では、「鯖」は「魚へんにブルー」の同一ラベルになるらしい。

教授「きみの論文のこの数行のくだりだけど、参考文献の一冊のコピペだな」
学生「いいえ、たまたまの同一ラベルです」

いやいや、数行の偶然はない。明らかに故意である。しかし、知らず知らずのうちに同一ラベル化することもありうる。たとえば、洗脳した者の脳をスキャンした後に、洗脳された者の脳をスキャンする。「同一ラベルです」と音声が流れたら不気味である。

今時の距離感覚

〈距離〉ということばは、実は思っているほどやさしくはない。小学6年の算数の授業で時間と距離の問題が出てくる。しかし、距離ということばを学ぶのは中学になってから。だから、小学校では距離の代わりに「道のり」が使われる。距離は長さを表すが、道のりは長さとともに時間も意識される。

距離の「距」の意味は「へだたる」。X地点とY地点の隔たりを長さで表わしたもの。二つの地点間に使われる距離は、対人関係――たとえばA君とBさんの隔たりの程度――にも使われる。A君とBさんは仲が良い、さほど親しくない、面識がない、等々。親密度という距離である。

対人または対外関係における距離について、新明解国語辞典は「ある程度以上には親密な関係になるのを拒んで、意図的に設ける隔たり」と説明している。この語釈によれば、人がらみの距離には「親密になり過ぎないように配慮する」という意味があらかじめ備わっていることになる。


当世、老いも若きもすっかりソーシャルディスタンスの制約を受けることになった。場に応じたしかるべき距離を守っているうちに、日常の磁場が異様に動き、場所感覚が落ち着かなくなった。それまで複数あったはずの居場所の数が減り、行動空間がどんどん縮んできているように感じる。

ぼくの仕事部屋の隣りには読書室を設けていて、コーヒーを啜りながら好き勝手に本を読むことができた。勉強会をしたり頻繁に外部の人たちと雑談したりしていた。それが今はどうなったか。あまり使わなくなって読書室が遠ざかったのである。窓を開けて換気し、掃除して観葉植物の世話をするというルーティンは毎朝こなしているものの、その空間に入ると自分がよそ者になったような感覚に陥る。

いいことも悪いことも時間が忘れさせてくれるし、遠く離ればなれになっているとやがて疎遠にも慣れてくる。つまり、時間があいたり一定の距離を置いたりすると、よそよそしさが常態になるのである。コロナ時代の今、誰もがこれまで経験しなかったよそよそしい距離感に面食らっている。そして、いつかコロナが収まるその先では、生じてしまった隔たりをいかに埋めていくかという難問が待ち構えている。

創作小劇場『おおブレネリ』

 親愛なるペーター
 長文のメールになりそうな気がするけど、読み流すのは暇な時でいいから。
 最近、耳にしたコマーシャルソングがある。『おおブレネリ』のメロディを使った替え歌なんだ。これがきっかけで、♪おおブレネリ……と久しぶりに歌ってみた。一応歌えた。

おおブレネリ、あなたのおうちはどこ
わたしのおうちはスイッツァランドよ
きれいな湖水のほとりなのよ
ヤッホ ホトゥラララ(……)
ヤッホ ホトゥラララ ヤッホホ

 正確には「ヤッホ ホトゥラララ」は5回繰り返される。ぼくとしては、「きれいな湖水のほとりなのよ」の次につなぎの一行が欲しいところなのに、いきなり5回も「ヤッホ ホトゥラララ」と繰り返したのはなぜだろう
 ペーター、きみがひいきにしているアンガールズの「はい、ジャンガジャンガジャンガジャンガ……」に似ていないかい? オチがなくて気まずい空気が流れるようなあの感じ。

おおブレネリ、あなたの仕事はなに
わたしの仕事は羊飼いよ
オオカミ出るのでこわいのよ
ヤッホ ホトゥラララ(……)
ヤッホ ホトゥラララ ヤッホホ

 2番がこんな歌詞だったとは……記憶とはいい加減なものだね。

 ブレネリはてっきり少女だと思っていたけど、仕事が羊飼いならオトナの可能性もある。いや、スイスあたりじゃ、その昔、子どもの時から仕事していたよね。そう言えば、イソップ物語のウソつき少年も羊飼いだった。と言うわけで、ブレネリの年齢は特定できず。

 ペーター、きみはスイッツァランド出身のスイス人で、今は東京にいる。もしきみが母国にいて誰かに「家はどこ?」と聞かれたら、「スイッツァランドだよ」と答えるかい? きっとノーだと思う。もっと具体的に町や村の名前を言うものだろう。
 でも、東京で同じことを聞かれたら、母国のことだと思って「スイッツァランド」と言うはず。ブレネリも同じ。きっと彼女はどこかの外国にいる。

 母国でない某国で住所と仕事を聞かれた。しかも、ブレネリは住所を聞かれたのに国籍を答えた。のっぴきならない入国手続き時の尋問光景か、某国に住んでいるブレネリが不審に思われて職務質問を受けている様子ではないか。
 歌詞にするとやわらかい調子になったが、ほんとうは次のような緊張感のある場面だったのかもしれない。

「住所は?」「スイッツァランドです」「スイッツァランドのどこだ?」「湖水地方です」「仕事は?」「羊飼いです」「家業の手伝いか?」「ええ。狼が出るので怖かったです」「そんなことは聞いておらん」

 もしこんなやりとりだったら、重苦しく気まずい空気になったはず。「ヤッホ ホトゥラララ」でとぼけるのもやむをえないな。

 なんでこんなことをきみに書いているのかと言うと、スイス民謡として親しまれているこの歌の背景に何か裏があると睨んだのさ。で、きみの意見を聞きたくなったというわけ。


 数日後、ペーターから返信があった。

 ぼくはね、日本に来る前はこの民謡のことは知らなかった。ブレネリにも違和感があった。だって、ブレネリというのはたぶん英語で、スイスではフレネリと発音するんだ。日本に来てからこの歌を知り、何度か歌ったことがあるし、ドイツ語の原作詞も調べたことがあるよ。
 きみのメールの解釈は、たぶん考え過ぎだな。異国で新しく友達になった誰かが素朴に質問しただけだと思うよ。


 そりゃそうだ。ペーターの言う通りかもしれない。長ったらしい駄文を読ませてしまった。翌日、お詫びのメールをすることにした。
 メールを打ち始めたちょうどその時、ペーターからのメールが受信ボックスに入った。

昨日メールを送った後に、きみの解釈が考え過ぎだと書いたのはどうかと思い、念のためにいろいろと調べてみたよ。驚いたね。あの歌詞には続きがあったんだ。

おおブレネリ、わたしの腕をごらん
明るいスイスを作るため
オオカミ必ず追い払う(……)
おおブレネリ、ごらんよスイッツァランドを
自由を求めて立ち上がる(……)

 「きれいな湖水のほとりで暮らし、小高い丘で羊飼いをしていたわたしたちに、ある日突然オオカミが襲ってきた。追い払え、負けてなるものか、自由と幸福と平和を守るのだ……」という時代背景から生まれた歌だとペーターは続けた。
 そして、「これはヨーロッパの穀倉地帯で今起こっていることの予言かもしれないな」とメールを結んでいる。

 ペーターにショートメールを送った。「ヤッホ ホトゥラララ」
 すぐにペーターから返信があった。「ヤッホホ」