勝ちと負け

一度や二度やった覚えのある心理診断のYES/NOのチャート。質問にイエスかノーかの二者択一で答えていくと、最後に性格や将来の診断が出る仕掛け。あのチャートの選択と分岐に似た勝ち負け(WIN/LOSE)の岐路が人生の大小様々な場面にもあると考えられる。

生きていく上で勝ち負けはつきものであり、勝ち負けの決まる過程や結果をシミュレーションするゲームがいろいろ存在する。勝敗があるからゲームが展開する。スリルとサスペンスを欠く引き分けばかりだとゲームは動かない。サッカーでは決勝トーナメントで引き分けになると、何が何でも決着をつけるために延長戦をおこない、それでも決着しない時はPK戦をおこなう。他のスポーツやゲームもおおむねそうなっている。

勝敗の意味について知らない子どもや意味をわかっていても潔くない大人は、ゲームで負けると極端に悔しがる。ゲームボードを引っくり返したりルールがおかしいなどと言いだしたりする。負けを認めようとしないのだ。勝敗という決着の方法や「勝って奢らず負けて倦まず」の意味を理解するには、ある程度の成熟が求められる。


勝ち負けと言えば、2016年の米国大統領選挙を思い出す。大統領選挙はゲームではないが、あの時、米国の若い世代の一部はゲームのように見ていた。ドナルド・トランプの支持者は自分がゲームを勝った子どものように歓喜し、ヒラリー・クリントンの支持者はゲームで負けた大人のように絶望し、トランプの勝利を受け入れられなかった。そして、ゲームのリセットを要求し反トランプデモを繰り広げた。

選挙直前も開票時も、専門家もメディアも選挙をスポーツ観戦するかのように見ていた。大方の良識は戦う前からヒラリー推しだったし、トランプはゲームの未成熟なキャラとして扱われ、選挙では勝ち目がないと考えられていた。隠れトランプが大勢いた? それもある。意見には隠れているものと露わになるものとがあるのが常。ホンネとタテマエの二重構造はどの文化にも誰の価値観にも潜んでいるものだ。

閑話休題――。人間も含めた生物界には勝ちと負けがある。原則は優勝劣敗だが、稀に「劣勝優敗」が起こる。勝敗が決するのを嫌がる向きも少なくないが、勝ちも負けもつかず、ずっと来る日も来る日も引き分けばかりの人生を想像してみればいい。退屈でしかたがなく、こんなことならいっそのこと負けてしまいたいと思うに違いない。

ラーメンのレシピ再現物語

たまに行くいつものラーメン店でいつもの一番人気のラーメンを食べた。会計時に「これ持って帰って食べてみて」と店主が言い、インスタントラーメンを差し出した。パッケージを見ると、いま平らげたラーメンと同じ名前が……。「これ、ひょっとして」と言いかけたら、「話せば長いのでまた今度」と返された。

ラーメンマニアではないので、さすがにその日の夜には食べず、二日後の休日の昼に作ってみた。店の麺は生麵、インスタントの方は蒸して乾燥させているだろうから、口当たりが違う。生麺に比べてやや細い。しかし驚いたのはスープのほうである。店のスープとの味の違いがぼくの舌ではわからなかった。

後日、客がひけた頃合いを見計らって店に行き、同じラーメンを注文し、スープを味わい、あらためてインスタントのスープの出来に感心した。だいたい見当はついていたが、「いったいどういう経緯でインスタントができたのか」と尋ねた。以下、店主の話。


数カ月前にうちのラーメンがこの地区でグランプリを受賞したのは知っての通り。それ以来、並ぶ人の列も長くなった。常連さん以外の見慣れない客も増えた。新しい客でよく通ってくれる人が何人もおり、その中にいつもスーツを着た若い女性がいた。

女性は昼のピーク時間を避けて遅めに来る。閉店の30分前くらい。ゆっくり食べ,スープもじっくり飲む。食べ終わる頃にメモ帳を取り出してすばやく何かを走り書きする。「ごちそうさま」とだけ言って店を出ていく。他の客とは雰囲気が違う。女性の一人客は多くないので目立った。

最近特によく来るなあと思っていたある日の会計の時に、「いつもありがとうございます。気に入っていただいているなら何より。それにしても、よく来られますねぇ」と聞いてみた。他店の偵察などと思っていたわけではない。ここまでよく足を運んでくる理由を単純に知りたかったから。

女性は恥じらうように「実は……」と言って名刺を差し出した。大手食品会社の商品開発担当者だった。仕事柄いろんな店で食事をし、これぞと思うメニューを味わい、うま味のもとや成分を想像するという。そして、こう切り出した。「いつもいただいているこのラーメンをインスタント商品として当社から発売したいと考えています」。

麺もスープもレシピと作り方は教えられないと言うと、「承知しています」。飲み残したスープの持ち帰りもお断りと言えば、「当然です。こちらのお店の名前と商品名を拝借するのですから、合格と言っていただけるまで試作してお持ちします。なにとぞよろしくお願いします」と女性は深く一礼した。オファーを受けることにした。


以上がおおよその店主の話。店で十数回食べ、記憶とわずかなメモを頼りに、麺とスープを再現する。店では化学調味料を使わないが、食品メーカーは材料に調味料や添加物を使って同じ味を作り出す。女性は何度も何度も試作品を持参した。店主は妥協せず厳しく品評したという。ついにある日、店主とスタッフは納得のスープを味わうことになる。「麺は生麺ではないから80点どまりでしかたがない。しかし、スープのほうは……うちの味に近づいた。すごい再現力だと驚いた」と店主。

その後ぼくもインスタントのほうを何袋か買って食べた。かれこれ20年前の話。店主は数年後に一身上の都合で別の仕事に就いたため、店は今はもうない。ちなみに、店主はぼくの実弟である。

日曜の街歩き日記

季節が秋に移ってから「往路15,000~20,000歩、復路メトロ」というスタイルで週末に歩く。勝手知ったる近場、東西南北の方向だけ定めるが行き先は決めない。緩急交えて歩き、決して焦らない。いつものルートなのに毎回新しい発見がある。表示を見て町名を初めて知り、碑の一文を読んでエピソードを知る。

わが家から道一本向こうの熊野街道に入る。数分後、焼肉店の角で熊野街道は東へ直角に曲がり、そのまま道なりに進むと四天王寺に到る。昨日は敢えてその道を取らず、焼肉店前を南へ直進して空堀商店街を横切った。町家を改造したショップ前に出る。

このあたりは最近ごぶさたしていたが、斜め向かいに本屋ができている。のれんを見た時は甘党の店かと思った。入店は次の機会に見送る。「の  君に本を」という店名から、誰かに贈りたい本を選ぶというのがコンセプトではないかと思った。

この先を真っすぐ進むと大阪市立中央小学校がある。4つの小学校(金甌きんおう桃園とうえん桃谷ももだに東平とうへい)を統合してできた学校だ。その前にカステラの端っこが売られていたカステラ屋があったが、今風のカフェに変わっていた。

すぐ近くに、落語『高津の富』で知られる高津神社。石の階段を上り境内へ。七五三のお参りで賑わっている。寄席の「高津の富亭」から英語が聞こえてくる。英語落語か。別の階段を下りて神社の裏へ。「梅乃橋」がある。その名の通り、この一帯は梅の名所だった。土佐のはりまや橋といい勝負ができそうなミニチュア感が何とも言えない。今では水も何も見えないが、かつては道頓堀川の源流だったと言われる。

東方面の谷町筋に出てさらに南へ。ふと清水坂きよみずざかを思い出して道を西へ入り伶人町れいにんちょうへ。このあたりは北の夕陽丘と接する、夕陽がきれいに見える高台の地形。西から清水坂を上がってきたところに新清水清光院がある。墓地の端の突き出した場所に「清水の舞台」がある。本家の京都からは絶対に見えない通天閣がここからは見える。

南側に崖があり、流れ出る玉出たまでの滝は市内唯一の滝らしい。この近辺は昔から泉が湧くことで有名。増井、逢坂おうさか、玉出、安居、土佐、金龍、亀井が天王寺の七名泉である。所々に豪邸が建つ閑静なエリアだ。そこから真田幸村戦死跡の安居神社を抜け、一心寺から茶臼山の河底かわそこ池へ。さっき清水の舞台から眺望した通天閣が間近に見えた。

特価チーズの品質を巡って

「品質」はモノの良・不良を問題にする時に使われる用語。「品質がねぇ」などとつぶやき始めたら、何かしらよろしくない気配が察知されている証拠である。

製造過程で不良品を出さないように工夫することを「品質管理」という。そして、製品が顧客に売られる時および売られた後「いついつまで」の品質の良さを約束することを「品質保証」という。品質の管理と保証はセットになっている。

チーズ専門商社のアウトレットで定価1,000円のフランス産のチーズが299円で売られていた。価格ラベルに「品質管理の為」と書かれている。この6文字の裏には記述されなかったメッセージがある。想像してみた。

「お客様、店側で品質維持しながら在庫を保存してきましたが、そろそろ賞味の期限が近づいてきました。よろしければ、破格のお値段でご紹介します。これから先、この品をお客様にバトンタッチしたいと思います。なお、私どもの手を離れた後は、どうか自己責任にて保存または召し上がっていただきますようお願い申し上げます」

誤表示や偽装を見逃してはいけない。しかし、安全で美味で安価なら「品質管理の為」という不器用な表現の揚げ足を取ることもない。前向きかつ好意的に検討してあげてもいいのではないか。

フランス産のまずまず上等なヤギのチーズが70%オフなのである。「品質管理の為」は誰にでもわかる表現ではないが、悪だくみではなく、何かよいおこないをしているように聞こえる。何と言ってもコーヒー1杯よりも安い値段なのだ。買って今夜か明日に食べてしまえばいいではないか……こんなふうに思ってしまう。

但し、覚悟もいる。「うまくて安い」は実感しやすいが、人の舌は必ずしも危機管理に優れているとは言えない。鼻でしっかり嗅ぎ、次いで舐めてみて安全だと判断しても、やっぱりそうではなかったということは12時間後の腹痛や下痢でわかる。時には死亡に至ってはじめて安全ではなかったことを知る。知るのは本人ではなく、本人以外の誰かである。

ブレンドの功罪

大麦、ハトムギ、玄米、ハブ茶、緑茶、ウーロン茶、杜仲茶、グァバ葉、バナバ葉、霊芝、朝鮮人参、ドクダミ、シイタケ、柿の葉、ミカンの皮、クコの葉、よもぎ、熊笹、アマチャヅル、大豆、昆布(ボトルの表記のまま)

ある飲料メーカーから上記のような成分を含む二十一茶が出ている。十六茶を超える二十一茶である。ほんとうに21もあるのか、つい確認してみたくなる。実際に数えてみた。たしかに、21種類あった。


別の飲料メーカーからも二十一茶が出ている。しかし、共通するのは13種類で残りの8種は異なっている。こちらの21種類は次の通り(パッケージの表記のまま)。

大麦、玄米、ハト麦、緑茶、黒大豆、陳皮、ヨモギ、ドクダミ、椎茸、クマ笹、小豆、ビワの葉、桑の葉、柿の葉、スギナ、ヤーコンの葉、目薬の木、半発酵茶、昆布、蓮の葉、キクイモの葉

先の二十一茶のミカンの皮が陳皮と書かれ、ウーロン茶が半発酵茶になっている。いずれも同じものだと思われる。こちらの二十一茶を飲んでみた。21種類の素材がそれぞれの持ち味を平和的に消し合い、実に飲みやすく、ほとんど特徴のない飲み物に仕上がっている。

一つひとつを抽出して飲んでみると特徴的であり、一部はそれだけでは飲めそうもない。しかし、ブレンドすれば癖が消されるので飲みやすくなる。ブレンドとは個々の素材の没個性にほかならない。お節介とは承知の上で、成分欄にキャッチコピーを入れてはどうかと思い、下記のように創作してみた。

歴史が証明する人類の恩人、大麦
白米より身体に良さそうな玄米
化粧水からも声が掛かるハトムギ
お~いお茶? ならば、は~い緑茶
黒豆は略称、正しくは黒大豆くろだいず
みかんの皮よりきっと効く陳皮ちんぴ
もう昔みたいにタダじゃないヨモギ
悪臭に似合わぬ可愛い薬草ドクダミ
生でよし干してよしの二刀流、椎茸
ある種のサプライズ成分、クマザサ
大豆はダイズなのに、小豆はなぜアズキ
別名「無憂扇むゆうせん」と呼ばれたビワの葉
「わたしもお茶だと知ってた?」by 桑の葉
寿司を包むだけじゃない、柿の葉
ツクシた後も頑張るスギナ
割と出番があるらしいヤーコンの葉
目に差すより飲んでこそのメグスリの木
ウーロン茶が少し気取って半発酵茶
真・利尻・羅臼・日高で名を馳せる昆布
睡蓮と一線画してやってます、ハスの葉
二十一茶目に滑り込んだキクイモの葉

あとがきの第一段落

『日本の名随筆』という全集がある。各巻にテーマがあり、3040人ほどの著名な文筆家の手になる随筆が編まれている。全巻100冊、別巻が20冊、すべて揃えていない。書店や古本屋で気に入ったテーマの一冊ずつを買って読んできた。

編者が「あとがき」を書いている。錚々たる顔ぶれが綴った随筆を選んで編集した後に、編者がどんなふうにあとがきで締め括っているのかに興味津々。とりわけ最初の段落の書き出しと「摑み」に注目してみた。


🖋 「色」 大岡信  編 

 私の家には今猫が二匹いる。そのほかにも、去年死んだ犬が残していった犬小屋に住みついている野良猫が、定住者で五匹、場合によっては七、八匹もいて、これらはわが家の準飼猫のような生活を送っている。

猫の毛色からテーマに入るのかと思いきや、そうではなかった。次の段落で「人間と猫とで、物の色彩がどのように異なってみえているのだろうか」と、興味の方向が示される。猫の毛色のバリエーションの話よりはおもしろいのではないかと思わされる。

🖋 「蕎麦」 渡辺文雄  編

 形が似ているから仕方がないと言えるけど、ソバとウドンが対決する。ウドン好きとソバ好きが対決する。世の中ウドン派とソバ派、どちらが多いかわからぬが、目につくのはソバ派である。「麺好きですね。」と言われてウドン派はにっこりうなずいても、ソバ派は「いえ、ソバが好きです。」とこだわる、、、、

テーマが蕎麦だが、ソバ好きの特徴を際立たせるためにウドンと対比してみせた。ソバ職人やソバ好きのこだわりには際限がない。後段で編者は「ウドンのうまさには幅があるが、ソバのそれはまことに狭い」と言い、スリリングな食い物であると付け加える。ウドンは庶民的で付き合いやすいが、ソバ自体もソバ好きもおおむね気難しい。

🖋 「嘘」 筒井康隆  編

 この名随筆シリーズの「嘘」を編集するにあたり、八年間かかって五万冊の随筆集を読破した。「嘘」をテーマとした随筆は数少なかった。さらにまた、読んで面白いと感じたものはもっと少なかった。そのためわたしは鬱病となり、リタリン(鬱病の投薬剤)を八百錠のみ、そのため胃潰瘍となって手術を八回した。

「嘘」がテーマの随筆集のあとがきを嘘まみれにしたところに編者の工夫がある。さすが筒井康隆だ。この先で、純文学作家の書いた随筆がおもしろくなく、自分のようなエンターテインメントの作家の随筆はおもしろく筋金入りだと書いている。テーマをとことん追求する姿勢に感心し苦笑する。

🖋 「古書」 紀田順一郎  編

 学生時代、私の最大の不満は、学校の付近に古本屋の乏しいことであった。荷風、敏、万太郎、瀧太郎、春夫……という三田文士を輩出した土地に、古本屋がたった二軒というのはいかにも物足らない。本郷、早稲田に一籌を輸するのは明かだ。

編者は慶應付近の古書店の少なさに文句を言いながらも、後に書誌研究に秀でた評論家になったくらいの根っからの本好きであったから、神田神保町の古書街に入り浸るようになった。そこからテーマ「古書」にふさわしい話が綴られる。

🖋 「道」 藤原新也  編

 大人になってむかし通っていた小学校を訪ねてみると、校舎や運動場やそれに到る道筋などがこんなにも小さく短かったか、という驚きをもたらされた、という話をよく聞く。私自身にもそのような経験がある。

子どもの頃の記憶の中の道と大人になってから通る道は同じであって、しかし相対的に別物だ。実際に歩いてみると、かつての体躯の大きさと歩く速度に見合った道のイメージが一変してしまう。勝手知った街歩きの最中でも、道の意味の多義性と道のイメージの多様性によく気づかされる。

語句の断章(37)流れに棹さす

「流れに掉さす」のさお・・は「竿」ではなく「棹」。釣り竿や竿竹の「さお」ではなく、舟漕ぎに使う長い「さお」のほうである。その長い棹を「さす」というわけだが、これもまた「刺す」ではなく「差す」のほうだ。船頭が棹を水の中に差し入れ川底を突いて舟を進める様子を表している。

数年置きに実施される「国語に関する世論調査」によると、「流れに掉さす」という成句はここ20年ずっと、誤用が正用を大きく上回っており、また、流れに逆らうという意味に解する人が多い。確かに、何かに向かって棹を差し掛けると言えば、その何かの邪魔をしているような印象を受けてしまいそうだ。

しかし、流れを自然な動き、ひいては好ましい流行やトレンドとすれば、流れに乗っておくほうが無難であり都合がいい。人間社会の常として、自然の摂理には、逆らうよりも、従っておくほうがうまく事が運ぶ可能性が高い。流れに掉さすとは機運に乗じて身を任せるという意味であり、逆らうどころか、逆らわないという姿勢にほかならない。

ところが、そんな姿勢には当然一長一短がある。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

智と情と意地にはプラス面があるが、夏目漱石は『草枕』の冒頭で智と情と意地のマイナス面を並べている。「情に棹さす」という用例も「流れに掉さす」の意味に似ている。他人の思いや感情に寄り添ってばかりいると、自分が思いもしないほうへと流されてしまう。情に掉さすとは「情にほだされる」。流れに掉ばかりさしていると束縛されて自由を失いかねないのである。

人生の常として、「流れに棹さすのかささないのか、どっちなんだ!?」と、つねに選択を迫られているような気がする。

コーヒーを巡る感覚的断章

☕ コーヒーをテーマにした本を書棚の一角に並べてある。これまでかなり読んでいるが、コーヒーは「読む」よりも「飲む」ほうが断然味わい深い。では、本など読む必要がないのかと言うと、そうではない。コーヒーの知識はコーヒーのたしなみの邪魔にならないどころか、大いにプラスになる。知識がなければただ飲むだけだが、知識があればコーヒーがわかったような気になれる。

☕ 人は味覚や嗅覚や視覚などの五感を駆使してコーヒーを味わう。それぞれのコーヒーには名前が付いている。キリマンジャロ、グアテマラ、マンダリン、モカシダモ、イルガチェフェ、ブラジル……コーヒーの名前も、知らないよりは知っておくほうがいい。

☕ コク、すっきり感、酸味、苦味などの度合と組み合わせは、豆のブランドごとに微妙に異なる。3種類くらいの飲み比べなら、言い当てるのはさほど難しくない。名前と味が照合できるようになれば名指しで注文しやすくなる。「語感」が五感の足りないところを補ってくれる。

☕ 普通は「コーヒー」と発音するが、{コーヒー、coffee、珈琲}のいずれで表記するかによって文中での雰囲気は変わる。学校に上がる前の頃、父に連れられて場末の喫茶店によく行った。客が紫煙くゆらせながらカップを持ち上げ、琥珀色の飲み物を啜っていた。あの濃ゆくて苦そうな飲み物は「珈琲」という文字にふさわしい。

☕ 「さて、コーヒーでも飲むか」とか「コーヒーでもいかが?」などと言ってはいけない。「でも」は余計だ。いや、コーヒーに失礼だ。いやいや、「○○でも」はすべての○○に対して無礼な物言いなのである。

☕ ホットコーヒーを注文すると、小さなチョコレートやクッキーを付けてくれることがある。チョコレートもクッキーもいいが、コーヒーはナッツとの相性がとてもいい。昭和30年前後の喫茶店ではピーナツを出してくれたらしい(今でもそんな喫茶店があると聞く)。ピーナツもいいが、最近は無塩のナッツセットを合わせている。アーモンド、クルミ、カシューナッツ、マカダミアナッツの4種入り。食感と食味の違うナッツでコーヒーの味も微妙に変わる。

☕ コーヒーには飲む前の〈香り〉があり、飲んでいる時の〈テイスト〉があり、飲み終わった後の〈アフターテイスト〉がある。これら三拍子が揃って至福の時間になる。

☕ 「コーヒーとは何か?」などと聞かれることはないだろうが、もし聞かれて、しかも「一言で」と条件が付いたら、「コーヒーとは時間である」と答えるつもりだ。さて、今日二杯目の時間を飲むことにする。

回文、その愉快と苦悶

回文のテーマで出版されている本は少ないし、周辺から話が出て盛り上がるなんてこともほとんどない。本ブログでは2014年に『眠れなくなる回文創作』と題して書いている。

昨日のことである。道すがら大手古本チェーン店が入るビル前を通りかかった。別の店は時々利用するが、そこは初めてだった。いつもの店に比べるとかなり広い。広い店は苦手だ。入るには入ったが長居をするつもりはなく、入口に近い棚あたりの背表紙を適当に眺め始めた。そして、いきなり見つけてしまったのである。

おお、ぼくが回文を始めるきっかけになった土屋耕一、あの「軽い機敏な仔猫何匹いるか(かるいきびんなこねこなんびきいるか)」の作者ではないか。函入り2冊セットの新品同様、1冊が『回文の愉しみ』でイラストが和田誠なら手に入れるしかない。


おびただしい作品が紹介されていて、喜び勇んで読み始めたのはいいが、読む愉快の後にほぼ確実に創作してみたくなる衝動に駆られる。そして、間違いなく、取り掛かかった直後の愉快はやがて苦悶と化し、脳裏に文字群のストレスを抱え込んで半ノイローゼ状態に陥るのである。

それでもなお、手に入れた本の冒頭に出てくる作品、「力士手で塩なめなおし出て仕切り(りきしてでしおなめなおしでてしきり)」を見たりすると、またしても創作意欲がふつふつと湧いてくるのだ。土屋はこの回文を色紙に書いて掲げていたのだが、この一文に無反応な友人たちもこれが逆から読んでも同じ文になるのを知って驚嘆する。

ところで、回文は通常の文案や文章のようにスムーズに出来上がることはめったにない。そのまま読んでも逆から読んでも(または、上から読んでも下から読んでも)同じ音にしようとすれば、不自然にならざるをえない。しかし、それを不自然と呼んではいけない。回文には回文独自の文法と語法があり、意表を突く表現を生み出してくれる。

慣れてくると、20音前後の作品はできやすく、工夫の過程も愉しく感じられる(下記、筆者の作品)。

🔄 酸か燐か薬か、リスク管理監査。(さんかりんかくすりか りすくかんりかんさ)
🔄 頼んでも金積む常がモテんのだ。(たのんでもかねつむつねがもてんのだ)
(㊟清音、濁音、半濁音、拗音、直音、現代仮名遣いと旧仮名遣いは互換性ありと見なす)

わずか510音増えて30音前後になるだけで、数倍の時間がかかるようになる。できたと思って逆に読むと不完全作だとわかり愕然とする。脳がへとへとになる。それでも途中でギブアップできず朦朧としながらも続けてしまう。そんなふうにして何とかできた作品。

🔄 居並ばドレミ、師が讃美歌うたう。花瓶探し見れど薔薇ない。(いならばどれみ しがさんびかうたう かびんさがしみれどばらない)
🔄 村からピンチの使い、どけた竹刀でいなしたけど、威喝のチンピラ絡む。(むらからぴんちのつかい どけたしないでいなしたけど いかつのちんぴらからむ)

たった1音で不完全作になり、その修正に何日もかかったりする。諦めて一から作り直すこともあった。根を詰めた50音以上の自作がいくつかあるが、思い出すだけで疲れが出そうなので、掲載はいずれまた。

ユネスコ無形文化遺産を食す

地元のオフィス街の食事処では洋食と中華とラーメンが優勢。相変わらず人気のトンカツ定食やハンバーグ定食が和食か洋食か微妙だが、味噌汁が付くので和食っぽい。しかし、申し訳程度に添えられたキャベツとポテトサラダを見ると洋食組。他に、親子丼とミニうどんの定食や豚骨ラーメンとミニ炒飯のセットなども注文が多い。たまに無性に食べたくなるが、決してバランスの取れた食事だとは思っていない。

京御膳

近くに平日の昼限定の京御膳を出してくれる店がある。お値段千円で多彩な食材が使われている。月に一度は通う。完食しても腹八分目で抑えられる。近くの別の和食の店は鯛めし御膳に特化している。鯛めしが食べ放題なので過食に要注意だが、これもお値段千円である。

鯛めし御膳

平成2512月、日本人の伝統的な食文化として和食が「ユネスコ無形文化遺産」に登録された。京御膳と鯛めし御膳はどちらも堂々たるユネスコ文化遺産ということになる。食べ終われば目の前から消えてなくなるが、能や文楽、陶芸や工芸の技術に匹敵する「世界のお宝」なのである。

🥢 和食は四季を反映する。南北に長い地形ゆえ、わが国には多様な地域特性があり、新鮮な旬の山海の幸に恵まれている。食材ごとに持ち味を引き出したり引き立てたりする技が育まれてきた。

🥢 主食の米とおかず(味噌汁、魚、野菜、山菜など)の食事構成のバランスが取れている。和食は動物性の油脂を極力控える健康栄養食であり、長寿に寄与していると考えられる。

🥢 口に入れることのない葉っぱや花を、ビジュアル的な印象のために料理にあしらう。味覚だけで満足せず、料理を盛り付ける食器、料理をいただく部屋にまでその時々の季節の自然を演出する。

🥢 どこの家でも日常的に旬の料理をいただくと同時に、正月から始まり晦日に至るまで一年を通じて歳時と関わる献立が工夫されることが多い。また、家族の集まる場や地域では固有の行事食が供される。

上記の4項目がおおよその申請内容である。和食ないしは和食文化の良いところどりをしていて、今の「洋風化した和食」のイメージとはやや隔たっている。どちらかと言うと、伝統的な高級料亭の食材、料理、あしらい、作法の趣が強い。とは言え、素直に誇らしく食卓について和食を味わうのも悪くない。和食にリスペクトを込めたいのなら「ユネスコいただきます」で始め「ユネスコご馳走さまでした」で終わるルーチンがいいかもしれない。