机上に置いている辞書

事務所にどれだけの辞書があるか。全部数えてこのブログで書いたことがある(『辞書、辞典、事典、百科……』)。約90冊だった。それが7年前。あっちの本棚、こっちの本棚とばらばらに置いてあったので、4年前に辞書類を一つの本箱にまとめた。

何とか全集というのをいろいろ揃えているが、未読のまま本棚に収まっているものが多いし手に取る機会も少ない。辞書も全集のように出番が少ない。全集や辞書は場所を取るのが難点。その不満を誰かにこぼしたら、電子辞書で済ませればいいと言われた。おいおい、あんなものでは調べた気にならないのだよ。おまけに、紙を繰ったり傍線を引いたりする楽しみもなくなる。と言うわけで、たまに使ってささやかに楽しむために辞書に少なからぬスペースを割いている次第。

席と辞書の本箱は離れているので、使用頻度が比較的高い56冊を机上に置いてある(写真は年明けからのラインアップ。英語の仕事が入ると、ここに英和辞典が加わる)。よく使うのが国語辞典。長らく使っていた『広辞苑』は本箱に入ったまま。数年前からは『新明解』一筋。自宅では第七版、オフィスでは第八版の青版を使っている。『コロケーション辞典』というのも机上組の一冊で、これは名詞と動詞の結びつきが調べられる活用辞典。動詞がなかなか思い浮かばない時に役に立つ。暇な時に当てもなく適当にページを繰って読むこともある。

ことわざと四字熟語の辞書は一種の読み物である。覚えてやろうなどとは思わない。何かを見たり聞いたりして、気になったら調べる。たとえばきれいな夕焼けを見た時に、さて夕焼けのことわざがあるかどうかチェックしたりする。先日コインケースを買い替えた折に、「財布」を引いてみた。財布をわざわざ辞書で調べるのは今回が初めてだ。

🏷 「財布の紐を握る」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
収支の管理をつかさどることを財布で象徴しているが、紐の握り手は主婦ということになっている。ところで、最近は握る紐が付いた財布は見かけないので、「財布のファスナーの開け閉めをする」とか「クレジットカードの暗証番号を夫に洩らさない」とでも言うか。

🏷 「財布と心の底は見せるな」(『世界の故事名言ことわざ』)
イタリアのことわざだ。人は中身が見えないもの、見づらいものを見たがる習性をもつ。その典型が財布と心の底だという。

🏷 「財布の底をはたく」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
有り金をすべて使ってしまうこと。新明解によれば、叩くとは「中に入っている物を全部外に出す」という意味。それなら、わざわざ財布の底を叩くと言わずに、「財布を叩く」と言えば済みそうだ。しかし、それではありきたりの成句で、値打ちがない。ことわざっぽくするなら、やっぱり「財布の底を叩く」なのである。

動けば気づき、出合う

この3年間出張が激減し、仕事のスタイルが大きく変わった。2019年までは毎月34都市へ1泊か2泊で出張するのが常だった。ところが、昨年は宿泊出張はわずか2件、日帰りの仕事も月に1件あるかないかである。働き方は二足のわらじから一足のわらじになった。

机に向かう時間が長くなると考えは深くなるかもしれないが、地上のことに気づきにくくなる。ひらめきの回路が閉じてしまうような感覚に陥る。正確に言うと、座る作業ならではの気づきがないわけではない。しかし、気づくのは守備範囲内のことばかりで、想定外の気づきにはなかなか到らない。

平日は脳が膠着し、尻が椅子に膠着し、視野が膠着する。そこで、面倒くさがらずに頻繁に席を立ち、何回かに一度は用の有無にかかわらず外に出る。つまり、動いてみる。半時間か小一時間程度だが、見えるものが一変し、それまでと違う景色が目に入り、何かに気づき、その気づきに触発されて新しいことを浮かべたり考えたりするきっかけになる。そんなに首尾よく結果が変わるわけではないものの、見通しがよくなってくるような気はするのだ。


戻ってくると、メモを取ったりノートを書いたりしやすくなっている。じっとしているよりも忙しく動いている時のほうが、言語的な働きが旺盛になっていることがわかる。コロナで出掛けず、人と会わずに話もしないことのツケは大きいなあと思う。

ルーチンとして日々よく歩いていた哲学者のエピソードを聞く。カントは毎日同じ時刻になると散歩に出掛けた。西田幾太郎が思想に耽った散歩道には「哲学の道」と名づけられた。散歩は運動だから、健康が効用であることは間違いないが、部屋でじっとしているよりも感覚が受ける刺激の強さと変化が違う。ものの見方が変われば思考の行き詰まりを少しは解消してくれるのだろう。

年末に古本屋で『書斎曼荼羅 本と闘う人々➋』を買った。後で出版された➋を先に手に入れて➊がないのは不自然。どこにも出掛けずに➊を求めようとしたら、Amazonや楽天で本を探して注文して配達してもらうしかない。運よく見つかれば23日で手元に届く。しかし、欲しいものを外に出ずに手に入れることに、入手すること以外の付加的な行為や意味は伴わない。引きこもりは機械的な効率を求めて良しとしておしまい。

年明けから平日も――仕事を中座してでも――外へ出るようにしている。先週、➋を買った古本屋とは別の古本屋にたまたま立ち寄り、探したわけではないのに、偶然にして➊を見つけたのである。こういう、まるで用意されたかのような出合いが、在宅ネット注文との決定的な違いなのである。外に出る、場を変えてみる。望外の、脱目的の気づきと出合いの時間が生まれる。

抜き書き録〈2023年1月〉

最近あまり本が読めていない。正しく言うと、未読の本と新着の本が読めていない。空き時間に拾い読みする本はほとんどが以前読んだものばかり。負け惜しみで言うのではないが、一冊の本を一度だけ完読するよりも同じ本を何度か拾い読みするほうが気づきが多いような気がする。一見よりもリピーターのほうが店の料理の諸々によく気づくように。

📖 『橄欖の小枝 芸術論集』 辻邦生

この種の論集では、本の題名と同じエッセイが本文のどこかで綴られているものだが、見当たらない。最後の最後に見つけた。題はあとがきに付けられていたのである。

私がはじめて橄欖オリーヴの林を見たのは、一九五九年夏にイタリアの南端ブリンディシ港から船でギリシアに渡ったときでした。(……)
橄欖はギリシアでは聖なる樹木であり、その小枝は平和の象徴でした。それは、高貴な古典的な作品を生みだした古代ギリシアの風土に似つかわしい、気品に満ちた、偉大な象徴でした。(……)
橄欖の小枝は(……)二重の意味として考えることができるでしょう。一つは芸術家の内面の闘争の激しさへの暗示として、もう一つは激情を浄化した高らかな歌として。

二十年前、南イタリアの旅行中にブリンディシを経由したことがある。ブリンディシはアドリア海に面し、その先にギリシアがある。港は港でもぼくが経由したのは空港で、ローマ行きだった。ところで、この一文を読んでから、オフィスで育てている鉢植えの小さなオリーブの木に変化が生じた。ギリシアや芸術や歌のイメージが浮かび上がったのではない。他のグリーンと一線を画する存在としのイメージが浮かび上がったのだ。

文章以上に凝っているのが装幀である。本を保護するはこが二つ。ダンボール色の「スルー型」の函が外函。そこから濃いグリーンの「スリップ型」の函が出てくる。箔押しされた白い本がそこに入っている。こんな本を手にしてしまうと、書物の文化性の大半を失っている電子書籍に頼りなさを覚える。一冊の本の部位には何十という専門的な名称が付いている。名称は長年培ってきた文化にほかならない。

📖 『パンセ』 パスカル

『橄欖の小枝』のすぐ上の棚に、これまで折に触れて引用してきた文庫本の『パンセ』がある。あるアイデアを思いついたのに、メモしなかったために記憶から消えたのが数日前。その時の思いとそっくりなことを断章の三七〇番にパスカルがすでに書いている。

(……)逃げてしまった考え、私はそれを書きとめたかったのだ。その代わりに、「それが私から逃げてしまった」と書く。

考えそのものを書かないといけなかったのに、「考えを書けなかった」と書く情けなさ。「さっきまで覚えていたのに、いまこうして書こうとしたらすっかり忘れてしまっている」と書くことにも意味があると思うしかない。日記のその日の天気もそれに近い。何も書くことがないけれど、日記の習慣を続け、そこに意味を持たせるために「○月○日 晴れ」とわざわざ書いたのに違いない。

牛ステーキの焼き加減は?

焼肉とステーキは同じ料理の別の言い方か? ソースや調味料に違いがあっても、どちらも肉を焼いている点では同じか? しかし、「焼肉を食べに行こうか」と「ステーキをおごるよ」は同じではない。さらに言えば、焼肉と呼ぶ時の肉は通常は牛、豚、羊だが、ステーキはその他に鶏や鴨や魚、さらにはコンニャクやシイタケだったりすることもある。

牛肉に限ると、焼肉とステーキはよく似ているが、特徴的な違いがある。外食の場合、たいてい焼肉は客自らが好みの加減で焼く。一方、ステーキは店側が焼くので、店の調理人は客に好みの焼き加減を聞いてくる。客はおおむねレア、ミディアム、ウェルダンのいずれかを告げる。

ユッケ、ミンチ肉のタルタルステーキ、牛刺しなどは、まったく火を通さずに生のまま食す。鉄板であれ網であれ、ステーキには火を通す。薄い肉だと焼き加減は3段階が限界。焼き加減を微妙に調整するためには肉に厚みがいる。厚さが2センチ以上の牛肉なら上図のように、さらに好みの加減で焼くことができる。

レアは肉の表面だけを強火でさっと焼くか炙る。火は中までほとんど通らないので、ナイフで切ると断面は赤い(時に血が滲み出る)。ミディアムはレアの断面にピンク色が残るが、生焼けという状態ではない。ウェルダンは表面もよく焼けていて、切った断面からも赤みがほぼ消えている。

30代前半に勤務していた会社近くに良心的なステーキハウスがあった。同僚のアメリカ人と月に23回足繁くランチに通ったものだ。同僚はミディアムレア一辺倒。ぼくはいろんな焼き具合を試して、その店が仕入れている肉にはレアが合うと判断。その頃から今に至るまで、焼いてもらう場合も自宅で焼く場合もステーキはほぼレア仕上げだ。

そもそもレアの定義が「表面を強火でさっと・・・焼く」と曖昧だ。「さっと」は15秒なのか30秒なのか、肉質と肉厚を見て直感で判断するしかない。裏側の焼き方も焼き時間も悩ましい。いい感じのレアになっているだろうと思って切ってみるとミディアムになっていたりする。

年末に黒毛和牛のステーキ肉を買い、サランラップで包んで数日間寝かせておいた。冷蔵庫から取り出して常温に戻してからクロアチア産のハーブ塩をまぶして、厚めの鉄板で一気に焼いた。頃合いを見て端を一切れカットして焼き具合をチェック。レアの手前のブルーレア状態。すべて切り終えて皿に盛りつける頃に、余熱で理想的なレアに仕上がった。満悦至極。

迂回ルートを辿る

元日、例年通り、自宅から近い真言宗の寺に参った。檀家ではないが、護摩焚きの様子を眺めるのが気に入っている。二日、来客があって終日在宅。一歩も出ないで暖まっていると身体がなまる。翌三日、外へ出て動きたい衝動に駆られる。住吉大社に出掛けることにした。

谷町界隈に住むので、メトロで天王寺に出て路面電車の阪堺線に乗り換えれば大社の鳥居前に着く。所要時間40分弱。しかし、勝手をよく知るルートなので面白味がない。新鮮味を求めて迂回することにした。最寄りのメトロ中央線の堺筋本町から本町へ。四ツ橋線に乗り換えて玉出へ。初めて歩く界隈から年季の入った商店街を通り抜ければ、ぶらり鳥居まで20分。

途中、「水木しげる先生  生誕の地」の碑に初めて気づく。境港ではなく、住吉の粉浜の人だったのか。令和43月とつい最近の建立だから、初見なのも無理はない。商店街に入り、たこ焼きを買う。10250円は昭和の値付けである。公園のベンチに腰掛けて熱々を食べる。新年3日目なのに参詣道はかなり賑わっている。

往路と帰路に分かれている。往路側に松尾芭蕉の句碑を見つける。迂回ルートならではの発見だ。芭蕉没後170年の1864年に建てられた碑、彫った文字が劣化していて読みづらい。碑の横に立つ説明板をカンニングする。

升買て分別かはる月見かな

字も難読だが、背景を知らなければ意味も難解。住吉の市で何日か前に升を買った翁が気分が変わって、句会に出なかった、つまり月見の夜に月見をしなかった……。体調が思わしくなかったが、そうは言わずに、気が変わったということにしたという意味らしい。芭蕉はこの後、御堂筋の久太郎町あたりで病の床に伏し、ついに没した。水木しげるが大阪で生を受け、芭蕉が大阪で亡くなった。

さて、住吉の本殿。鳥居を過ぎてからそこに達するまでずっと混み合っていて時間がかかった。この比ではない元旦はさぞかし凄まじいはず。そそくさと賽銭を放り投げ、二礼二拍一礼して後ろの人に場を譲る。おみくじの列も長い。もっともみくじを引く気は当初からないので、誰も並んでいない「清塩」を選ぶ。清めに用いてもいいが、もちろん調理にも使える。出来上がった一品は聖なる味がするかもしれない。

帰路も玉出まで歩いたが、さらに20分ほど先まで歩いて天下茶屋へ。そこでメトロに乗り、起点となった堺筋本町まで戻ってきた。あまりなじみのない迂回ルートを辿ってみると新しい発見と気づきがある。たまにはいい。

年末、メモの読み返し

いつかブログで取り上げるつもりで残してある箇条書きの雑文メモ。瑣末なことが大半を占める。今年もずいぶん溜まっている。見切りをつけて捨ておけばいいが、まったく未練がないわけでもないので読み返す。ページを繰って5つだけ拾ってみた。


📍 「夕食を食べる」と言ってもおかしくないが、書いてみると奇異に見える。「食を食べる」がしっくりこない。なので、夕食をべるとか洋食をべるというふうに、「食べる」を「たべる」と書く。「文書を書く」も同様で、表記がしっくりこない。だから「文書をかく」とか「文書をつくる」と表わす。

📍 「みんな違っていいんだよ」に同意する人は多いはず。しかし、そうであっても、人にはそれぞれ事情がある。相田みつをが言うような、他人と違う生き方やあり方は容易ではない。みんなと同じほうが安心で、安心は平凡ではあるけれど、同じだと気が楽だ。「みんな同じでいいんだよ」にも一理ある。

📍 「天ぷらは親のかたきのように食え」と池波正太郎はよく言っていた。一品ごとに揚げたてを熱いうちに食べてこその天ぷらだ。したがって、出されてからすぐに食べずに、スマホやデジカメを構えて撮影しているうちに冷める。インスタ映えの演出は天ぷらの敵である。

📍 先日、コラムを依頼されて書いた。時間があったので、何度も読み直し何度も推敲した。最後に仕上がった文章は洗練されていたと思うが、伝える熱意を失っていた。

文章や詩に何度も手を入れて納得するまで磨きをかけることを「彫琢ちょうたく」という。適度に練り直せば最初に書いた文章よりもよくなる。ただ、この「適度」が微妙。やり過ぎると修飾語ばかり増えて、最初の文意から遠ざかってしまう。少々拙くて粗っぽくても、最初に書いた文章の息づかいを消してはいけない。

手書き原稿と推敲の跡(小林秀雄『真贋』)

📍 予定にない急ぎの仕事がいろいろ入ってきた一年だった。知識の持ち合わせがないテーマもあって、連想を広げるのに少々苦労した。とにかく急かされているから、調べてヒントを探すしかない。一つの課題に対して一つの調べものという、効率の悪い学習を強いられることが少なからずあった。

これを繰り返していると、考える前に調べるという、その場しのぎの悪い癖がついてしまう。当面の課題のためだけに間に合わせの知識や情報を仕入れるのは情けない。願わくば、ふだん日常的に気の向くままに学んでいることが、いざと言う時に自然と役に立つのがいい。このような知の形成が本物の力になるのだと思う。


今から大掃除に取り掛かるが、掃除も同じ。毎日軽くやっておけば年末に意気込むこともない。

麺に関するコンセプト雑談会

「迷たら麺、迷わんでも麺。ノーメン、ノーライフや!」

個性と言うか、コンセプトと言うか、麺にもいろいろある。そんな話をしよう」

「麺の個性? うまいの一言で十分やろ」

「それは粗っぽい。饂飩うどんはうまい、蕎麦そばはうまいだけでは特徴が言えていない」

「全種類の麺で特徴探しは無理。うどんとそばとパスタでどうや?」

「似て非なるライバル関係のうどんとそばは比較しやすいが、種類の多いパスタは絞らないとダメだろう」

「パスタ代表としてマカロニを指名!」

「いいねぇ。饂飩と蕎麦も相手に不足はないはず」

「饂飩と蕎麦とマカロニ。三つ並べたら、饂飩が普通と違うか」

「勝ち負けじゃないから、ノーマルでいい。現実的で常識的で親近感があるのが饂飩の良さ」

「マカロニはお調子もんやな。笑わせる。対して蕎麦はクソ真面目」

「言い換えると、マカロニはドラマチックで、蕎麦はドキュメンタリー」

「蕎麦は知的やなあ。どこまでも理性的。データもエビデンスも持っとるような感じ」

「マカロニは正反対。感情的で印象を重視している」

「マカロニはちょっとセクシーや。さすがラテンの血を引いとる。蕎麦はプラトニックに命を賭けとる。人として見たら面白味に欠ける」

「なんだかマカロニと蕎麦の対抗戦みたいになってきた。饂飩の話が出てこない」

「それが饂飩のええとこや。夢ばっかり見てるマカロニは幼いと饂飩は思とるはず」

「饂飩の良さは中庸にあり、か。愉快と真面目の間、理性と感性の間、硬派と軟派の間……という具合」

「硬派と軟派の比較なら、蕎麦が硬派でマカロニが軟派で決まりや」

「饂飩と蕎麦の類似性って、ブレない型があることだな。マカロニは型破りだから」

「いやいや、型を破って何百年も経ったんやから、型破りがマカロニの型なんや」

「なるほど。マカロニは熱い生き方をしてきたわけだ。それなら蕎麦はクールに生きてきた。で、饂飩はどっちにも偏らず中道を歩んできた」

「蕎麦打ちの性格が蕎麦を作ってきたのとは違う。蕎麦の個性が蕎麦打ちを育ててきたんや」

「饂飩の打ち手は饂飩の影響を受け、マカロニ職人はマカロニから学んだ……こういうことかな?」

「知り合いにマカロニみたいなやつがおるわ」

「コンセプト雑談、そろそろこのあたりでまとめとするか。一覧表作って、蕎麦でも食いに行こう」

「そやな。軽く一杯となると、饂飩もマカロニも蕎麦には勝てん」

 

抜き書き録〈2022/12号〉

相変わらず隙間の時間に特に意図もせず乱読や併読をしている。ここ一カ月のうちに手に取った数冊の本にたまたま「感情(または感性)と理性(または論理)」を取り上げた記述があったので、まとめて抜き書きしてみた。


📖  『世界名言・格言辞典』(モーリス・マル―編)を繰っていたら「感情」の項を見つけた。ついでに「論理」をチェックしたら、その項もあった。いろいろ紹介されている格言から一つずつ選んだ。どちらもスペイン由来の格言。

とっさに心にわく感情は、人間の力ではどうにもならない。

ある物が黒くないからといって、白だと結論はできない。

感情は人の心にわく。しかし、とっさにわくとコントロールできない。人は自分の予期せぬ感情に押されてしまう。だから論理的に考えるべきだということになるが、その論理も生半可に使うと誤謬を犯す。「黒くない⇢白だ」というのもとっさの感情的判断に近い。感情と論理はよく似た間違いをやらかしてしまう。

📖  『不思議の国の広告』という本がある(尾辻克彦選/日本ペンクラブ編)。広告批評のコラムニストだった天野祐吉が『大急ぎ「広告五千年史」』というコラムを書いている。

ヒットラーの演説は、文字で読んでも、人を感動させるような深いものはありません。それどころか、子供だましみたいなことを言っている。が、彼の演説を録音したものを聞くと、うまいんですねえ、その語りっぷりが。彼は、人を動かすのは論理じゃなくて感情だ、言葉じゃなくて音楽だ、ということを、ちゃんと知っていた。演説の中身を吟味したりするのは、ひとにぎりのインテリだけだということをちゃんとわかっていて、それで見事に大衆操作をやってのけたんだと思います。

あなたは感性派、それとも理性派? などと聞かれて、「あ、感性派です」と答える人がいるが、実際は二択のどちらかに厳格に自分を置いているわけではない。感性も理性も持ち合わせているのが人間である。感性のほうがウケがいいと信じて実践してもうまくいかない。理性は一般を扱うが、感性は個別的である。「感情にはすべて、自分だけが体験する感情と思わせる独特な面がある」とドイツ人のジャン・パウルは言う。感情は自惚うぬぼれが強いのだ。

📖  茨木のり子著『詩のこころを読む』の一節。

詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手に作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残なしかばねをさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。

このあと著者は感情と理性を比較し、感情的な人よりは理智的な人のほうが一般的に上等と思われるふしがあると言う。しかし、「感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです」と結んで、感情と理智を同時に満足させてくれる詩がありうることを示す。

📖  安斎育郎著『人はなぜ騙されるのか』にも理性と感性の違いについてのくだりがある。

教育には、二つの違う方法がある。第一は「理性」に訴えかける手法、第二は「感性」に訴えかける方法である。とりわけ未知の現象に対する科学的態度、要するに「分からないことは引き続き調べる」ということによって、批判的・客観的な態度を培う必要がある。

著者は超常現象に対する人の取るべき態度について語っている。人は不思議な印象から強い衝撃を受け、理屈よりも心の動きに支配されてしまう。衝撃はずっと続き、目の前で見た「ありえない現象」をありえるのだと信じ、理性よりも感性が優位的になるのである。


抜き書きをしているうちに、十数年前に私塾で話したことを思い出した。カントの『純粋理性批判』の一節がそれ。

人間の認識には二本の幹がある。それらは共通の〈未知の根〉から生じる。感性が素材をもたらし、悟性がこれを思考する。

カントの術語である悟性を大雑把に理性と呼ぶならは、人は感性と理性を動的に協調させたり統合したりして思考力や構想力を築き上げている。別の言い方をすれば、そのつど感性と理性にうまく役割分担させるほど人は器用ではないのである。

年賀状レビュー(2022年版)

毎年今頃は、前年暮れに差し出した年賀状をレビューすることにしている。したためた時の思いと今の心境を照らし合わせて自己検証するために。あるいは、苦し紛れや手前勝手な心変わりがあったなら自己批判するために。


ものを考えること、ことばを操ることに苦労はつきもの。苦労から解き放たれようとしてなけなしの知恵を絞り創意工夫に努めても、その過程で別の苦労を背負うことになるものです。

アイデアが首尾よくひらめくことに、また上手に読んだり書いたりできることに手っ取り早い道がないことを知っています。けれども、ただひたすら試行錯誤の場数を踏み続けるうちに、あれこれと心得るべきことに気づくのではないか……甘い考えと承知の上で、そんなあれこれの気づきを「きみ」への助言という形式でしたためてみました。

🖋 あの時、きみは「考えています」と言った。でもペンもノートも手元になかった。何も書かずにただ腕組みしている状態はおおむね思考停止中のサインだ。
どんなことを考えたの? と聞いたら、きみは口をつぐんだ。アタマの中は見えないし、考えていることはわからない。だから、ことばで伝えるしかない。たとえ拙くてもいいから、考えにはことばを添える必要がある。考えていると言う人はいくらでもいるが、考えていることを語れる人は少ないものだ。

🖋 ことばで考える。そして、考えたことをことばにするなんて無理。そう思っているのではないかな。「はい、難しいです」ときみ。やっぱり。真摯にことばに向き合っていないと余計難しく感じるのだろうね。ことばにしづらいことを敢えてことばにすること。それが言語的生き方というもので、とても面倒くさい。でも、非言語的な以心伝心よりはよほど確かに思いが伝わるはず。

🖋 ことばを知り、ことばを聞いたり読んだりする。諸々の感覚はことばと連動する。あるいは、ことばを誘発する。

🖋 ダメだなあと言われたらどんな気分になる? 「もう慣れました。でも、これもダメ、あれもダメ、全部ダメの波状攻撃を受けると滅入ります」ときみ。ダメづくしは非難のことば。自己嫌悪に陥る。他方、「これはダメ、あれはよい」というのは批判のことば。反省と工夫を促す。非難と批判は紙一重。厳しい自己批判を経てこそ、紙一重の違いがわかるようになる。

🖋 感情の起伏が激しいと、考えることが――ひいてはことばが――不確実で不安定になる。思いつきやその場かぎりの気分が支配的になり、「何となく」が口癖になる。「あ、それ口癖です」ときみ。「何となく」を連発する人間に世間は信頼を置かない。気をつけよう。

🖋 考えることに不安が募ると情報に依存する。手に入れた情報で視界が広がればいいけど、新しい情報と既存の情報が葛藤して前途が曇ることもある。

情報頼りでは行き詰まる。時々「タブラ・ラサ(tabula rasa)」の状態にリセットするといい。外界の印象を受けない、白紙のような心の状態のことだ。「あ、空っぽアタマはわりと得意」ときみ。いや、空っぽアタマじゃなく、満タンのアタマを敢えて空っぽにすることだよ。

🖋 本をよく読むようになったときみは言うけど、創造的思考が高まる保証はない。膨大な情報が思考受容器を刺激するとはかぎらない。情報多くして人ものを考えず。情報が枯渇気味のほうがよく考えるのが人の習性。

🖋 ベストなアイデアを望んではいけない。求めるべきはベターなアイデアなのだ。最善の解決法などないと割り切ろう。あるのは今よりも少し良さそうな解決法であり、その解決法もいずれ淘汰される。今日よりもほんの少しましな明日がいい。そう思わないか? 「ちょっと気が楽になりました」ときみ。

🖋 きみは相手に合わせて表現や話法を変えるね。思いと裏腹なことも喋る。「お見通しです」ときみ。計算高くホンネとタテマエを使い分けるのは労多くして功少なし。ずっとホンネで通すほうが思考とことばにムダがなく、長い目で見ればコストパフォーマンスがいい。

🖋 最後に本について。好きなテーマについてやさしく書かれた本は読みやすい。でも、そんな本だと読者の負荷が小さいので、忍耐強く深読みしようとしなくなる。いろいろなジャンルや難易度の本を読んでこそ、考える力、ことばの機微、語感が研ぎ澄まされる。本と読書については、これまでの考え方を一度見直してみるのがいいと思う。


本文の「きみ」は誰の中にもいるもう一人の自分。小難しいお説教を垂れたわたしたち自身がいつも感じるもどかしさの象徴として登場させました。
当たり前のような穏やかな日々と小さな幸せを感受できる時間を取り戻せますようにと祈念しています。

値決めと買い方

月に一度か二度ひいきの古本屋に行く。脇目もふらずにそこを目指して行く。目指すのだからすでに買う気満々、たいてい56冊買う。自宅から歩いて20分ほどの所なので、散歩や所用のついでに寄ることもある。その時は手ぶらで店を出ることが多い。

さらに近い、徒歩わずか56分の所に古書店がもう一店ある。日常生活圏の道沿いにあるので、そばを通ると必ずチラ見する。三度に一度は店に入る。前述のひいきの古本屋ほど利用しないが、たまたまセールの日だと品定めする。ある日、セールのPOP広告が目に入り足が止まった。

結論から書くと、セールの仕掛けに見事に釣られてしまった。書名をいちいち紹介しないが、文庫本を10買ってしまったのである。POPには「文庫本1100円(税込)」と書いてあり、これだけならセールと銘打つほどのことはない。ポイントは値決めの方法だった。

1100円、2200円、3300円、4400円、5500円と、ここまでは当たり前の単純掛け算。ところが、6冊買いの値決めが600円ではなく、5冊買いと同じ500円。それどころか、7冊でも8冊でも9冊でも500円。なんと10冊でも500円。つまり、5冊から10冊なら何冊買っても同じ500円なのである(ちなみに11冊なら600円)。

と言うわけで、ぼくは10冊買った。読んでみようと思った5冊はすぐに選べたが、その5冊ほど気が進む本がなかなか見つからない。しかし、悩むことはない。10冊買うつもりなら5冊は無料になるのだから。自分は読まないかもしれないが、オフィスの本棚に並べておけば誰かが読むだろうという感じで残りの5冊を選んだ。

こんな値決めをしている古本屋で10冊買ったという話をしたら、知人が「考えられない」と言った。値決めのことではなく、読むか読まないかわからない本を5冊手に入れたぼくのことをそう言ったのである。「読みたい本が5冊しかないなら、あと5冊が無料でも読みそうもない本なら絶対に持ち帰らない」と彼。「いやいや、そのほうが変だろう。たとえば自分が読まなくても、歴史小説を5冊選んで好きな人にあげればいいし」とぼく。

議論を深めると厄介な「要不要論」になりそうなのでやめた。ぼくはミニクロワッサンが5個でも10個でも同じなら10個にする。イタリアに旅行した時、3泊すれば4泊目無料というホテルに4泊した。知人もそうするだろうと思うが、本だとそうはならないようで、たとえ無料でも読まない本はいらないのだ。本にはそういう思いにさせる何かがあることは認める。