ベートーベンのTシャツ

20083月、ミラノの「レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館」にいた。一巡して中庭で休んでいたら、現地の社会見学の少年たち数人が近づいてきて「日本人か?」と聞く。うなずくと、一人の少年が別の少年を後ろ向きにしてTシャツの背中を見せた。

「これは日本語?」と聞くから「そうだ」と答えたら、どんな意味か教えろと言う。イタリア語では小学校高学年以上の少年は“ラガッツォ”という。対して、幼い男の子は“バンビーノ”だ。彼らは145歳なのでラガッツォがふさわしいが、それではおもしろくないので、バンビーノと言ってやった。案の定、Tシャツ少年はみんなに背中を指差され、「バンビーノ! バンビーノ!」としばらくからかわれていた。

胸にベートーベンのイラストが描かれているTシャツを見たことがある。背中を見るとトンカチを手にしたベートーベンの別のイラスト。意味があるのかないのか、あるとすれば解くべき謎があるのか。背中のイラスト、そのココロは「大工=第九」だった。


少年もベートーベンのTシャツも特殊なギャグで、一般汎用的にピンときたり笑えたりするものではない。漢字を読めないイタリア人にとっては「少年」と書かれたTシャツに意味はないが、バンビーノと訳せば少年が坊やになるから冷やかしネタになる。ベートーベンのほうは日本限定のローカルギャグ。しかし、第九を知らない日本人には通用しない。

所詮ローカルなネタなのだから、Tシャツはベートーベンではなく、千利休や幕末人気人物ナンバーワンの坂本龍馬あたりにして、何か工夫をするほうがいいかもしれない。高知では映画『ローマの休日』をもじった「リョーマの休日」という観光キャンペーンが展開されている。

阪神タイガースで活躍したランディ・バースが入浴シーンのコマーシャルに起用されたことがある。バースから「バス=風呂」を思いついたのだ。バースは“Bass”と綴る。風呂のバスは“bath”である。文字でも発音でもまったく類似性のない、別物である。時代が下って、阪神ではマートンが活躍した。マートンは“Murton”と綴り、発音は口を開いた「マー」ではなく、口を閉じ気味に鼻で「ムー」と響かせる感じだ。なのに、応援席ではファミリーマート・・・Family Mart)と絡ませた「ファミリーマートン・・・・」という文字が揺れていた。

上記の例は英語のダジャレではなく、ローカルなカタカナ遊びにすぎない。ダジャレの国際化は実に難しいのである。世界に通じるユーモアを目指すなら、地域文化を脱してユニバーサルな価値をネタにする必要がある。

ちょうどいい加減の説明

先日、かなり譲歩して理解につとめたが、その短い説明文の意味がさっぱりわからなかった。いったい説明にどれだけのことば数を費やせばいいのか。ことばを多めに尽くすにしても少なめに抑えるにしても、内容に応じてわかりやすくほどよいことば数に調節するのは一筋縄ではいかない。

本を解説する無料の小冊子が出版各社から出ている。たとえば手元にある『新潮文庫の100冊』。読ませどころのさわりを23行の見出しで示し、内容を66文字以内で解説している。無駄なく見事にまとめられている。こういう簡潔な書き方のほうが、好きなだけことばを蕩尽するよりも時間がかかる。

翻って、思いつきで適当に書いたり話したりした説明は、読み手や聞き手に負担をかけてしまう。説明者のことば足らずや饒舌ぶりを読み手や聞き手が忖度することになる。説明者のことば足らずにはことばを補い、ことば過剰なら引き算しなければならない。

いま、「書いたり話したり」と書いたが、目の前で話されたことなら、わかりにくさはほぐすことができる。意味や意図を直接尋ねることができるからだ。しかし、書いた本人がそこにいない時――本などがその典型だが――聞きたくても聞けない。下手に書かれていたら、パズルを解くような覚悟で歩み寄るか、あきらめて投げ出すしかない。


力のないことばを吐かないようにしよう……ダラダラと説明したり言い訳したり独り言のようにブツブツ言うのはやめよう……いま目の前にいる相手――目の前にいなくても想定する読み手――に伝えよう……書いて伝えるなら論理を整えよう、そして説明をきちんとやり遂げよう……説明責任を果たそうとすればことば数は増えるものだ。迷ったら、不足よりは過剰を選ぶ。

理解のもどかしさは、突き詰めていくと、ほとんどことばの拙さに辿り着く。ことばによるコミュニケーションは人間だけに付与された特権なのに、修行不足のせいで誰もがことばでつまづく。言い得ぬもどかしさ、伝えづらいもどかしさ、思い通りに伝わらないもどかしさに苦しむ。これらはうまくいかない人間関係のもどかしさにつながる。

そんなことで苦しむくらいなら、思いつくまま話したり適当に書いたりしておけばいいと、つい思ってしまう。そして残念なことに、多くの人がそう思う時代になって、意味不明な短い文章ばかりが垂れ流されている。

抜き書き録〈2022/09号〉

今月は科学者が著したエッセイと科学をテーマにした本を取り上げた。


私は虫の本を見て、チョウの翅の顕微鏡写真を知り、その微細さに驚くとともに、顕微鏡の歴史を知りたくなった。そして十七世紀、オランダの人、レーウェンフックと出会った。彼の生まれた街デルフトを訪ねると(もちろん本の上で)、そこにはフェルメールがいた。かくして私は、虫の虫から、本の虫、本業としては顕微鏡オタク、趣味としてはフェルメールオタクに至ったというわけである。
(福岡伸一『やわらかな生命せいめい』)

過去のどこかを切り取って何かに嵌まった経験を思い出せば、誰もが上記のような連鎖を綴ることができるはず。しかし、綴る人は少ない。発想や能力の差ではなく、観察と記録のマメさの違いだ。世の中には、思い出してはマメに記録する人と、記録するのを面倒臭がる人がいる。後者の人は記録よりも記憶に頼ろうとするが、残念なことに記憶力がよくない。


来年のNHK前期の連続テレビ小説は『らんまん』。植物学者の牧野富太郎と妻が主人公。たまたま新刊の『草木とともに 牧野富太郎自伝』を読んだ。二人のなれそめは牧野本人がこの本で書いている。研究生時代、牧野は下宿先の麹町から東大の植物学教室へ人力車で通う時、いつも菓子屋の前を通っていた。

この小さな菓子屋の店先きに、時々美しい娘が坐っていた。私は、酒も、煙草も飲まないが、菓子は大好物であった。そこで、自然と菓子屋が目についた。そして、この美しい娘を見染めてしまった。私は、人力車をとめて、菓子を買いにこの店に立寄った。そうこうするうちに、この娘が日増しに好きになった。

牧野は自分でプロポーズできず、石版印刷所の知り合いに娘を口説くよう頼みこんだ。縁談はうまく運び牧野は結婚した。草木の話もおもしろいが、小説のようなこの一文、「わが初恋」が印象深い。朝ドラではどんな脚本に仕上がるのだろうか。


漬け丼が売りの食事処に最近よく通う。昨日も昼に行った。注文したのは、鮪の中トロ、天然ハマチ、鰹、ハモ、そしてヒラメを乗せた海鮮丼。鮃はエンガワの歯ごたえがよく、また昆布じめにしても美味である。その鮃を丼に乗せるという贅沢。先日適当に読んだ本に鮃の記述があったのを思い出し、もう一度読んでみた。

(鮃の)脂質含量が一月に獲れた天然の寒鮃かんびらめでは筋肉100gに対して2.2gほど含むが、夏に獲れる痩せたものは0.8gである。寒鮃は夏鮃の二倍以上の脂質を含む。
(成瀬宇平『魚料理のサイエンス』)

筋肉のエキス窒素分が旨味と関係するらしいが、この例のように鮃は夏よりも冬がうまいという情報が刷り込まれるのも考えものだ。知識には体験が伴うべきで、また体験には知識の裏付けが望ましいなどと言われる。しかし、夏場でも鮃をおいしく食べようと思うなら、筋肉に占める脂質量のことなど知らないほうがいいのである。

「どのように」と「なぜ」

『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福(下巻)』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)に次のくだりがある。

(……)キリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったのかは説明できない。
「どのように」を詳述することと「なぜ」を説明することの違いは何だろう? 「どのように」を詳述するというのは、ある時点から別の時点へとつながっていく一連の特定の出来事を言葉で再現することだ。一方、「なぜ」を説明するというのは、他のあらゆる可能性ではなく、その一連の特定の出来事を生じさせた因果関係を見つけることだ。

生イカがどのように・・・・・スルメになるかという過程はことばで詳述できる。生イカを――他の別のものではなく――なぜ・・スルメにしたのかは描写できない。と言うか、そこには理由がいるのであり、理由とは原因と結果を明らかにすることにほかならない。

「どのように(How)」と「なぜ(Why)」は違う答えを求めている。しかし、この二つを鋭く峻別しなくても、いろいろと考えているうちに「どのように」が先に明らかになり、後付けのように「なぜ」が見えてくることが多い。生イカからどのようにスルメが生まれたかを考えているうちに「なぜ」も見えてくるのではないか。

おおよその見当や思いつきの後すぐに「なぜ」と問うと、拙速気味に収束へと向かいかねない。そうではなく、推定や偶察や願望を基本としてまず広げてみる。「なぜ、なぜ」と理由を探すことに先立って、「何をどうするか(What-How)」をイメージしてみるのだ。

「生イカをどうする?」や「羊乳をどうする?」や「小麦粉をどうする?」という問いに理屈を持ち込まず、アイデアを優先させる。生イカをスルメに、羊乳をチーズに、小麦粉をパンにというふうにアイデアを広げて試行錯誤する過程で様々な目新しい気づきが生まれたはずである。

論理や因果関係はものを考える上で必要不可欠な定番処理であるが、そういう方法にこだわりすぎるのは「何をどうする?」が見つからないからである。そして、堂々巡りになるが、「何をどうする?」が見つかりにくいのは、最初に論理や因果関係を優先的に扱うからである。何事においてもいきなりWhyから入っているとアイデアは生まれにくい。

料理のレシピは何をどうするかというHowの手順でできている。その手順の中には「なぜそうするのか?」という、手際よくおいしくするための理由コツが暗黙のうちに記述されているものである。

今時のことば感覚

つい先日、あるテレビコマーシャルを初めて見た。「今はやめてよ、アポなし頭痛!」というのがそれ。頭痛は突然やってくるから、元来アポなしである。アポあり頭痛があったら気持ち悪い。だから「今はやめてよ、頭痛」でいい。「アポなし」を思いついたコピーライターがひとり悦に入り、「それいい!」と周囲が同調した様子が見えてくる。

よく練られたキャッチコピーほど一つのことばが感覚を研ぎ澄ます。しかし、調子に乗ってことばの力に頼りすぎると、アポなし頭痛のような意味なき駄作になってしまう。取って付けたようなことばはデジタル部品のようなもので、イメージや感覚の凹凸を奪うのである。

ことば遊びというのは文脈から切り離すと面白味が消えてしまう。たとえナンセンスでも、唐突ではなく、その場や状況とうまく絡むことがポイント。目の前に鰹のタタキがないのに「親のかたき、鰹のタタキ」と言っても不発である。鰹のタタキを注文するリアル場面があってこそ成り立つことば遊びだ。


イメージを思い浮かべるのはたいせつだが、思いつきだけではことばに切れ味は生まれない。計算も求められるのだ。

気に入っている都々逸があり、それを計算式にしたのが上の図だ。ちなみに、都々逸は「七七七五」でできている。4つのハートから3つの壊れたハートを引き算すれば答えは何?

〽 惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ

いやあ、目の付け所が粋である。行間がある。意味が深い。すべての愛妻家はやむをえずそうなったのだろう。都々逸のほか川柳や狂歌もそうだが、いい作品では表現が計算され尽くされている。


とある行政の夏のイベント告知の案内に「この夏、○○川に出掛けませんか?」と書いてあった。誘ってはいても不特定多数への平凡な呼びかけに過ぎず、キャッチコピーとして物足りない。「出掛けませんか?」は悠長だし、そんないざないでは距離感が生まれる。まるで他人事だ。

もし「○○川の夕涼み散策」がテーマなら、「出掛けませんか?」では訴求不十分である。しかし、「夕暮れどき、○○川の岸辺のそよ風はすでに秋」と書けば、これも不特定多数向けのコピーには違いないが、新しい情報が提供されることになる。

ありふれた名詞の羅列だけでも十分に新鮮に響くことがある。「浴衣とうちわと○○川」と並べ、わざと動詞を抜く。どうなるか、どうするかは自分で想像してもらう。このほうがスマートに物語を暗示できるのである。飛んだり跳ねたりするだけがキャッチコピーの作法ではない。

処暑迎えてなお残暑

「暑と署」を書き間違いする成人を見受けるが、「暑」は小学3年生で教わる漢字という。よく見ると、上から下へ「日+耂+日」という要素で組み合わされている。この一字がいかにして「気温が高い」という意味になったのか。

「日」は太陽である。太陽の下に柴の意の「耂」があり、それがもう一つの「日」の上に積まれている。者は「煮」に通じている。上からも暑く、下からも熱い。大暑、極暑、炎暑など並べて声に出してみると、見た目も響きも焼きつきそうな熱を感じさせる。

暑中見舞や残暑見舞のハガキは減っているが、今年もいろいろ届いた。一枚一枚あらためて眺めていると、暑の文字が体感温度を少しずつ上げていく。78年前だったか、三重県のセミナー担当者からいただいた、松阪牛を象った礼状兼暑中見舞が記憶に残っている。ペーパーの松阪牛に続いて暑を制する焼肉用の松阪肉の宅配を期待したが、届かなかった。


暑をエアコンでなだめようと頑張ると闘争になってしまう。人が暑と闘っている図が浮かぶ。近年は一夏を過ごすために暑を打ち負かさねばならなくなった。今ほど激暑でなかった半世紀前までは、「冷やす」という高コスト手段ではなく、「涼をとる」という省エネが夏の過ごし方の標準だった。

風鈴、かき氷、団扇、西瓜、夕涼み、打ち水、金魚すくい……。これらは夏に勝つ手段と言うよりも、今風に言えば「ウィズコロナ」に近い。「ウィズ暑さ」という共存の知恵である。

先週末「金魚すくい飴」という飴が売られていたので、一袋買い求めた。封を開けて舐めなくてもいい。これは涼をとるささやかな工夫である。昨日は処暑だった。暑さが峠を越して朝夕に涼風がそよぐというのは昔の話。二十四節気の暦を鵜のみにしてはいけない。

イチジクのノスタルジア

青果店でイチジクを見かけた。初物だったので、桃に比べて高値感が強く、渋々見送った。もうしばらくすると1キロ1,7002,000円で取引されるらしい。一つ平均60グラムなので、100120円見当ということになる。単純比較はできないが、200円の桃と100円のイチジクなら前者を選ぶ人が多くなるに違いない。

各種ドライフルーツを袋に詰め放題というコーナーがデパートの一角に出ることがある。イチジクとイチゴばかり詰めている人がいる。お得感があるのだろう。売られている乾燥イチジクのほとんどがトルコ産。トルコは生産量世界一を誇る。生食には向かないが、乾燥させたものはワインのつまみに合う。

もぎたての無花果いちじく甘し他所よその庭  粋眼

買わずに他家のものを黙って拝借するとうまさが増す。子どもがイチジクを盗んで補導されたなどという話は聞いたことがない。警察にイチジク事件簿はたぶんなかった。しかし、この一年、ハクビシンがイチジクを食い荒らし、新潟では人間がイチジクの盗みをはたらき、つい最近ではイチジクの木50本が収穫直前にへし折られた事件が報道された。


小学2年の夏、大阪の古い下町からわずか3.5キロメートル離れた別の下町に引っ越した。引っ越し先にはまだ田畑が残っており、耕作しなくなった土地が少しずつ住宅地として整備され始めていた。新築の家のすぐ隣りは田んぼで、ザリガニやタニシが棲息し、トンボもチョウも普通に飛んでいた。田んぼには水路があり、そこにイチジクの木が何本も植わっていたのである。

外で遊ぶとお腹が空く。暑い季節にはイチジクをもぎって食べた。イチジクの木は田んぼの所有者か誰かが昔に植えたのだろうが、イチジクの盗み食いをしても誰にも咎められなかった。理科好きならイチジクはどんな果実でなぜここにるのかと一考したかもしれないが、ぼくにはイチジクが甘くてうまいという単純な感覚以外に何も芽生えなかった。

イチジクはそのまま食べてもいいが、生ハムとメロンの組み合わせのように、何かと組み合わせるとそれもまた乙な味になる。煮たり焼いたりする肉料理にも合う。食材への尋常ならぬぼくの好奇心はイチジクにまつわるエピソードと無関係ではない。イチジクが桃に勝つのは難しいが、少なくともノスタルジア世界ではイチジクに一日の長がある。

「並」が「上」に化ける

ネットでチェックできることは知っていたが、実際にやってみた人から直接聞く機会があった。「中国産の一尾千円程度の鰻をうまいうな丼に仕上げる」というテーマである。料理好きのその人は「数種類のやり方があるので試行錯誤は必要」と言う。やってみた。

鰻に取り掛かる前に、たれをあらかじめ用意しておく。レトルトパックにたれが付いていてもそれを使わず、自前でたれを作る。1人前なら、醤油とみりんをそれぞれ大さじ2、酒と砂糖をそれぞれ大さじ1。これをすべて煮詰めて冷ましておく。

調理開始。スーパーで売っているレトルトパックの中国産鰻一尾を、そのまま、または半分くらいに切る。そして、うな丼グレードアップ作戦の、最初にして最重要の信じがたい作業に取り掛かる。身が崩れないように「洗う」のである。言い換えよう。あらかじめたれで蒲焼きされた鰻の、そのたれをきれいに落としてしまうのだ。

洗って濡れた鰻の水気みずけをキッチンペーパーに吸わせるように拭き取る。力を入れると身が崩れてほぐれてしまうから、丁寧に扱う。安い材料だからこそ余計に慎重に扱うべきである。たれがクレンジングされてスッピンになった鰻。これをフライパンに乗せる。酒少々と水で身が浸るようにし、弱火と中火の間の火加減で煮る。3分からせいぜい5分以内。

フライパンから鰻を取り出す。ふっくら感が出ているはず。フライパンを軽く洗い、アルミホイルを敷く。鰻の身を表にして並べ弱火にかける。先に作っておいたたれを刷毛でぬり、裏返して皮のほうにもぬる。濃い味が好みなら何度か繰り返してもいい。

丼にご飯を盛り、鰻を乗せて最後にたれをかけて仕上げる。好みで山椒をかけるが、けちらずに少しいいのを振りかけたい。普通にそのまま食べれば「並」または「並以下」だったはずの鰻が、「上」または松竹梅の「竹」クラスのうな丼に化ける。それがこれだ。

フライパンを使わずに、水気を切った鰻を酒に浸してラップしてレンジで加熱という方法もあるらしいが、まだ試していない。ともあれ、千円が2.5倍の値打ちに変わった気がする。しかし、元の中国産の「地力の差」もあるだろうから、味の安定感は保証しかねる。

10日間の習慣見直し実験

去る85日にブログを書いて以来、今日までの10日間PCに触れなかった。盆休みを挟むこともあって急ぎの仕事がなく、PC作業が不要不急だったからだ。そうだ、ついでにスマホとも距離を置いてみよう、と思った。1990年代前半まで当たり前だった日常のスタイルが復活した。

現代人はスマホに触れないと手持ちぶさたになる。それが証拠にメトロの車内では乗客の8割がスマホを操っている。「要」にして「急」な様子も雰囲気もうかがえない。暇を持て余すのは、何かすべきことが決まっていないからである。暇とは「しなければならないことがない状態」にほかならない。

3日に一度iPadでメールだけチェックしたが、すべて不要不急。このように脱デジタルすると、必然SNS上の親しい人たちの投稿もチェックしない。ほとんどの情報は不要不急の類ということになるが、不要不急が悪いわけではない。触れなくても困らないというだけのことだ。ともあれ、メールもSNSも一切受発信せずに今日に至り、いま11日ぶりにブログを書いている。


数年前に比べてSNS上では発信機会に比べて受信機会が減っているような気がする。つまり、投稿はするが他人のはあまり読まない。マメにコメントしていたが、今は義理の「いいね」で済ます向きが増えている。外部と情報が隔絶されても困ることがほとんどなく、要にして急なことはテレビで間に合う。テレビはスマホの小さな画面よりはよほど見やすい。

暇にあかしてスマホをいじるよりも、かけがえのない時間の過ごし方があるのではないか。見ようと思わないのについ見てしまうスマホの電源をしばしオフにして、読もうと思いながら読めていない本を読むことにした。何冊も読んでいると、いま考えていることと呼応する一節に出合うものである。たとえば次の一冊。

(……)彼はたまたま自分の内部に溜まった一連の決まり文句、偏見、観念の切れっ端、あるいは意味のない語彙を後生大事に神棚に祀ったあと、天真爛漫としか説明しようのない大胆さをもってそれらを相手かまわず押しつけている。(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

90年も前に書かれた文章である。現在のSNS上の現象を言い当てているかのよう。同一の投稿者がよく似た投稿を繰り返す。そのことの好き嫌いや是非は人それぞれだが、スマホを触ると目に入ってくる。日記もそうだが、毎日書いているとよく似たことばかり書くようになる。マンネリズムは必ずしも忌むべきものではないが、マンネリズムというものは、自分よりも他人の方が先に感知する。

SNS同様、このブログもそうだが、この先も生き残らせて日々の楽しみや慰みとするためには、あの手この手を繰り出すしかなさそうだ。ちょっとした習慣見直し実験をしたわけだが、いろいろと気づかされた10日間だった。

抜き書き録〈2022/08号〉

都道府県別と全国合計のコロナ感染者全数把握。いつまで発表し続けるのか。ゼロになるまで? まさか。さてどうするか? 次の文章にヒントがあるような気がする。

数字は明らかに抽象であって、自分の目で確認した「事実」ではない。つまり意識の変形である。コロナによる本日の死者何名。この目線はいわば神様目線である。「上から」目線と言ってもいい。(養老孟司『ヒトの壁』)

なるほど。だから、「数字なんかいらない」と言うと神様に逆らっているようで言いづらいのか。しかし、神様の言うこともあてにならないことが多いのだ。


あまり手にしない類の本だが、手にしたのも何かの縁。アンディ・ウォーホルの『とらわれない言葉』は彼のアフォリズム集。一気に読んだ。

忙しくしていること。人生で一番素晴らしいのはそれだ。

退屈なことが好きなんだ。

別々のページで全然違うことを書いている。いったいどっち? と問うまでもなく、すぐに別のページの次の一文で納得させられる。

僕はこの世界に魅せられているんだ。

世界に魅せられているなら、多忙でも退屈でもどっちでもいい。すべての矛盾や意見の相違を飲み込んでしまえるいい言葉だ。応用できる。たとえば「ぼくはいつもその時々にしていること、していなことのどちらも好きだ」。


をかし・・・は)美的理念。感興をそそられる。王朝以降は「あはれ」がしんみりとした情趣に対する感動を表す語とみなされるのに対し、明るい対象や状態に触発された感動を表す形容詞とされる。(河出書房新社編集部『美しい日本語の究める やまとことば』)

王朝期ゆかりのやまとことばどころか、江戸時代の諺や明治の言葉遣いでさえどんどん減って絶滅を危惧されている。「をかし」も「あはれ」も、発音すれば現代語の「おかし(い)」と「哀れ」と変わらないが、書き言葉の印象と意味は繊細に異なる。をかしとあはれをぜひ復権させたい。


今日こんにちを特徴づけているのは、「活字離れ」ではありません。むしろ今日、読書という問題をめぐって揺らいでいるのは、本というものに対する考え方です。(……)本を読むということは、その内容や考えを検索し、要約するというようなこととはちがいます。それは本によって、本という一つの世界のつくり方を学ぶということです。(長田弘『読書からはじまる』)

春先に依頼されて、現在某所で「読書室」の企画と設計と選書に関わっている。まだ半年、いや一年以上続く。本を所蔵して貸し出す図書室ではなく、敢えて読書室と名づけた。ここに来て本を読む。オフィスの一室を読書室に作り替えてから4年と少し。その経験が役立っている。ここのところ選書作業で忙しい。

ところで、みんなが本を買わずに借りて読むようになると、出版社や書店はやっていけなくなる。本が発行されなければ図書館の所蔵図書のタイトル数が減る。出版文化維持のために、そして「本という一つの世界」がなくならないために、図書館で本を借りる人も3冊のうち少なくとも1冊は書店で買ってほしいと願う。