語句の断章(39)四字熟語

四字熟語には難しそうなのがいろいろあるが、「四字熟語」という意味そのものはわかりやすい。説明するほどのこともないので、どの辞書も「漢字四字で作られる成句」という、ありきたりの語釈で済ましている。それに続けていくつか例を挙げる程度である。

ここで質問。上の写真は手元に置いて時々活用している四字熟語辞典。さて、この辞典に「四字熟語」という四字熟語は収録されているだろうか? 

答えはノー。おびただしい四字熟語の元締めのはずの「四字熟語」という表現は、他の熟語と毛色が違い、風景や故事や通念や思想などのエピソードを持たない。「四字熟語」という四字熟語に関して辞書の編者は洒落たことを書けないのである。


それにしても、たった四字の構成で自然や風物や現象などを見事に詰め込んでいることに驚く。メッセージの中身は濃いが、四字熟語は決して見栄を張らずに、見たままを素直に文字にして余韻を残す。余韻は長く続く。

春夏秋冬しゅんかしゅうとう〉 四季折々をつなげば一年が過ぎ一年が巡る。

花鳥風月かちょうふうげつ〉 文字として絵として自然の風景をすべて包む。

深山幽谷しんざんゆうこく〉 深い山奥と谷合いに未だ見ぬ自然の相貌がある。

山紫水明さんしすいめい〉    日の光が射して山は紫色にかすみ水は清く澄む。

雪月風化せつげつふうか〉 冬の雪、秋の月、夏の嵐、春の花が自然をかたどる。

万水千山ばんすいせんざん〉 山も川も多くして山なみも川の流れも連綿と続く。

山容水態さんようすいたい〉 山の姿と流れる川の行き先に美しい山水を思う。

上に列挙した四字熟語は、いずれも季節や風景をコンパクトに言い表しながら、しかも悠久の時間を刻む自然界の壮大なパノラマを彷彿とさせる。

抜き書き録〈2023年2月〉

今月の抜き書き録はコーヒーにまつわる既読本から3冊をピックアップ。

☕ 『人生で大切なことはコーヒーが教えてくれる』(テレサ・チャン 著/佐々木雅子 訳)

コーヒーを最も美味しく楽しむ方法は、直前に豆を挽くこと。豆は、挽かずに密閉した容器で保存しておくと、新鮮さが長持ちする。
豆を挽くと、コーヒーの風味である芳香油が、豆から放出される。同時にコーヒーの新鮮さを失わせる最大の敵、酸素にもさらされることになる。

自宅では飲む直前にコーヒー豆を挽くのが以前からの習わし。他方、消費量の多いオフィスでは市販の挽いた粉を使っている。時間に余裕がある時はオフィスでも今年から豆を挽くことにした。直前に挽けば強く香りたつ。粉になるとは、劣化のきっかけになる酸素とふれあうこと。手際よく淹れ、出来上がりをすぐに啜るのが美味しい作法である。

☕ 『バール、コーヒー、イタリア人 グローバル化もなんのその(島村菜津 著)

しっかりと目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚か者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。
(ヴォルテール『コーヒー、神話と現実』)

「暴君や愚か者どもといかに戦うか」という一節が、ロシアの現在進行形の不条理な侵攻を連想させる。それはともかく、ヴォルテールという哲学者/詩人はコーヒー中毒だったようだ。四〇杯とは度を越すにもほどがある。体験的には、コーヒーを飲んでも思考力にはあまり効果がない。ぼくは日に34杯飲むが、眠気覚ましのためではなく、ホッと一息つくためだ。

☕ 『珈琲のことば 木版画で味わう90人の名言(箕輪邦雄 著)

収録されている著名人のコーヒーにまつわる名言を半数ほど紹介したいくらいだが、そこまで一言一句抜き書きするくらいなら、買っていただくほうが手っ取り早い。渋沢栄一の一編も捨てがたかったが、悩んだ挙句、下記の一編を選んだ

すぐそこの角を曲がれば、空に虹が見える。
だから飲もうよ、一杯のコーヒー、そしてパイをもう一切れ。
(アーヴィング・バーリン“Let’s Have Another Cup of Coffee”

この一編にはコーヒーの蘊蓄もなく、作法の小難しさもない。コーヒーを飲む理由や動機はなくてもいい。あるにしても、別に何だっていい。「雨が降っている。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、「春の風の匂いがする。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、今日は喜怒哀楽の一日だった。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」……。そして、その一杯のコーヒーのおともだが、それもまたパイでもカステラでもクッキーでもいい。

季節の移り変わり

今から書こうとしているのは季節の「移り変わり」のつもりだが、それが「移り変わり」とどう違うのか、この時点ではよくわからない。

冬の終わりの兆しから春の気配を感じるのか、それとも春めいてきたから去りゆく冬を思うのか。季節の移り変わり、特に季節の節目をどのように判断するかは人次第。見聞きする風物がきっかけになって「冬の終わり/春の始まり」を感知する。今日はオフィスの窓際の観葉植物に春が兆していた。

フィロデンドロン
シッサスエレンダニカ

風物もそうだが、言語的な分節も季節感覚に大いに関わっている。季節は四つあれば事足りるようなものだが、この国では二十四節気に細かく分けた。立春(新暦24日)、雨水(同219日)、啓蟄(同35日)、春分(同321日)と冬から春にかけて移り変わるが、境目は啓蟄あたりが妥当か。とは言っても、縦に長い日本列島だから、どこかの誰かが勝手に決めつけるわけにはいかない。この国にはフライング気味の春もあり、しつこく粘り続ける冬もある。

二十四節気や季語や歳時記の影響を受けて一度春を感じると、その数日後に寒の戻りがあっても、もう気分は春になっていることがある。冬という文字と語感に寒さを覚えていたが、ある日きっぱりと春を感知して新しいいのちの芽生えに感じ入るようになる。

『美しい日本語の風景』(中西進著)によると、「ふゆ」は冷えるの古語「ひゆ」に由来する。そして季節が移り変わって春になると、のびのびと張り、心地よく晴れやかになる。春と張と晴のことばの源はどうやら同じようなのだ。

観葉植物に季節の移り変わりを目撃した今朝……分節によって移り変わりを感知した陽のさす窓際の午後。今日は寒く、明日も冷えるらしいが、それはそれ。

ことばだめし、ことば遊び

だめしやだめしがあるのだから、「ことば・・・だめし」があっていい。難読字を読ませたり書かせたりするのは漢字だめしの一つである。

企画研修で「ことばが違うのはコンセプトが違うから」という話をすることがある。タカとワシは似ているが、コンセプトが違うから呼び名も漢字も違う。生物学的にはまったく同じで、大きめのをワシ、小ぶりのをタカと呼んでいるにすぎない。ちなみに、漢字で「鷹」と「鷲」を書ける受講生は全体の10パーセントに届かない。

熟語を創作したり、ダジャレに興じたり、リズムを遊んだりする。詩作もことば遊びだ。自由につむぐのも遊びだが、型にしたがう定型の詩作もルールのある遊びである。最たるものが、俳句の五七五、短歌の五七五七七、都々逸の七七七五。遊びだから、本来は楽しむ創作。アマチュアならなおさらで、苦しむことはない。


📎 一昨日久しぶりにざるそばを食べた。出雲のそば。今はさほどではないが、十数年前までは麺喰いだった。スパゲッティ、ラーメン、焼きそば、きつねうどん、冷麺、ビーフン、ざるそば、ショートパスタ、つけ麺、ぶっかけうどん……というようなローテーションで、十日連続して昼夜に麺類を食べたこともある。十人十色に倣って「十麺十色」と口ずさんだら、「麺」がうまい具合に「men=人」につながった。

📎 浄土真宗のお坊さんが「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半よわに嵐の吹かぬものかは」という一首を紹介された。「しんらん」の歌である。その時、自問した。しんらんが書けるか? 「親」はわかるが、うろ覚えの「らん」が正確に書けなかった。すぐに調べて漢字を覚え、今では「鸞」が書ける。しかし、これに似た「うぐいす」の漢字は自信がない。

📎 内科で「咳き込みますか?」と聞かれ、「たまにですが、少し」と答えた。その後しばらく、「咳き込みますか?」が「セコムしてますか?」と響いてしかたがなかった。

📎 オフィス街にも「わらび餅」や「石焼きいも」の呼び売りが軽トラックで時々やってくる。先週は焼きいもがやってきた。「♪ いしや~きいも~」だけで終わり、後を継ぐもう一言がないと拍子抜けする。先日の新ネタを耳にした。

♪ いしや~きいも~
とうも~ろこし~

字数も調子も揃えていて見事だった。この録音を流したいがために、トウモロコシも売ろうと思ったに違いない。昔よく耳にした「栗よりうまい十三里」もよくできていた。栗よりが「九里四里」のつもり。九里と四里を足せば十三里になる。

わがBefore/After対照録

あるものを時間経過の中で見比べてみると、変化や違いがわかる。テレビ番組のタイトルでもおなじみの「ビフォー・アフター」。「劇的!」という修飾語が付くリフォームの番組。変化が劇的なら比較のやりがいがある。どんなサプリでダイエット効果が出たのか、どの化粧品でメイクが変わったのかなど、使用前と使用後は視覚的に対照するとよくわかる。

過去の思い出や記憶を振り返る時にもビフォーとアフターが対照されている。一般的にはビフォーが過去でアフターが現在であるが、ビフォーとアフターに過去と未来を、あるいは現在と未来を、それぞれ対置させる場合もある。さらには、過去の中に大過去と過去を対置させることもできる(たとえば中学生の自分と社会人になりたての自分)。今日をアフターとして、半世紀前も3年前も昨日もビフォーに見立てることができる。

昨夜、焼酎を一杯飲みながら、これまでの自分を振り返って、以前と現在をノートに書き出して比較してみた。『わがBefore/After対照録』と名づけることにする。


〈記憶〉には二つの機能がある。過去の物事を脳裏にとどめることと、とどめたことを随時再生できることである。顔と名前を結びつけてすぐに覚え、いつでも思い出せるのが記憶力。しかし、後年、顔は思い出せるが名前がなかなか出てこないというような状態に陥る。かつて10覚えて10思い出せた記憶力も、5以下しか思い出せないていたらくだ。

Before: 以前は誰であろうと、人の名も顔もよく覚え、よく思い出せたものだ。

After: 今は会ったり知ったりする時点で記憶装置にフィルターをかけている。元々覚えていないから、思い出しようがない。

〈イタリア料理〉と言えばパスタ。仔牛のカツレツやリゾット、フィレンツェ風Tボーンステーキやアクアパッツァなど、特徴ある他のイタリア料理には気の毒だが、パスタが目立ち過ぎた。

Before: 数年前まではパスタをよく外食し、自分でもよく作って食べたものである。おそらく週二のペース。さらにそれ以前にはイタリアに6度旅して「究極」と言えるパスタの皿を各地で食べ比べた。

After: パスタを食べつくした感が強く、今はせいぜい月一。ピザのほうが食べているかもしれない。一番よく食べているイタリア食材は生ハムだ。

〈散歩たまにタクシーには乗るが、車を運転しない(免許がない)。徒歩5分圏内にメトロの3路線の駅があるので不自由することはない。用事があれば歩く、メトロに乗る。用事がなくても歩く。これを散歩という。谷や丘や坂がつく地名の多いエリアを歩く。

Before: 先週の土日にかなり歩いた。無性に坂を上り下りしたくなり、「坂の上の散歩道」を選んで歩いた。

After: 週半ばの今日、隙間の時間に、坂の上ではなく、また歩くのでもなく、『舌の上の散歩道』という團伊玖磨のエッセイを読んでいる。

〈読書〉子どもの頃、自宅にほとんど本がなかったが、ワケあって幼稚園に通わなかったので、本を買ってもらって読んでいた。高校受験前までは小説一辺倒の読書少年であった。

Before: 一番よく本を読んだのは27歳~31歳の頃である。一日に3冊読むこともあった。5年間で2,000冊以上読んだはずである。

After: 本はせいぜい週に1冊完読し、あとは拾い読み程度である。その代わり、おびただしい数の本を手に入れる。読む本の10倍以上の本を買っている。言い換えれば、10冊買って1冊読むのである。かつての読書家は、本を買うのを楽しみとする「買書家」になった(資産として買っているのではないので「蔵書家」ではない)。

判読不能な読書

いきなりで恐縮だが、少々長い下記の引用文をお読みいただきたい。

一九六二年に『開かれた作品』を出版したとき、私は、どのようにして芸術作品が、一方で、その受信者の側に解釈による自由な参加を要請しながらも、他方で、その解釈の次元を刺激すると同時に統制する構造特性を提示するのかと、自問した。もっと後で知ったのだが、当時私はテクストの実用論を、そうと知らないまま実践していた。いや少なくとも、今日のいわゆるテクストの実用論のひとつの側面、つまり共同作業行為に取り組んでいたわけだ。受信者はこの行為によって、テクストが語らないもの(前提し、約束し、含意し、ほのめかすもの)をテクストから引き出し、空所を埋めるよう仕向けられるのであり、またこの行為こそが、テクストに存在するものをテクスト相互性の織物へと連結するよう仕向けるのである。当のテクストがそこから生まれ、そこへと合流していくテクスト相互性の織物へと。共同作業の動き、のちにバルトが示してくれたように、これこそがテクストの快楽を、そして――特権的な場合には――テクストの悦楽を生みだすものなのだ。

引用は、ウンベルト・エーコの『物語における読者』の序文の第一段落。序の序からしてこの難解さ。と言うか、判読不能の極み。書かれているテクストに読解力が及ばないせいか、イタリア語からの翻訳に問題があるせいかはわからない。これは古本屋で500円ほどで買った一冊だが、すでに数ヵ所に付箋紙が貼ってあった。この本の前の所有者が最初から最後まで読んだのかざっと見ただけなのか、これまたわからないが、付箋紙が貼れたのだから、ぼくの判読能力よりも上と思われる。

文章の判読性が低いと、読者に意味がすっと伝わってこない。しかし、読者がそこに書かれている事柄をある程度読み解く知識があれば、読み続けることができる。古本屋で買うのをためらわず、今ぼくの手元にこの本があるという事実、長編小説『薔薇の名前』で名の知れた著者のウンベルト・エーコはすでに何冊か読んでおり、「テクスト」というテーマにも関心があるという事実を踏まえると、ぼくはこの一冊をある程度読めなければいけないはずである。しかし、さっぱりわからないのだ。

これほどさっぱりわからない読書はかなり久しぶり、と言うか、初めてのことかもしれない。「さあ、ここまで上がってこれるかい? 悪いけれど、こっちからきみの所へは下りていくつもりはない。この本で引用している実在の人物や彼らの著書について、きみが承知しているという前提でこの本を書いた。妥協は一切していない……」。ページをめくりながら、そんなエーコの(あるいは翻訳者の)つぶやきが聞こえてきた。

意味がよくわからないまま本を読み続けることができるかと問われれば、できそうもないと答える。しかし思い起こせば、学生時代に哲学や経済の翻訳書を何冊も読まされた経験がある。何もわからずに読んだふりをした記憶もある。今はどうか。脳はただ朦朧とし目は虚ろに文面を追っている。先週の水曜日から土曜日まで仕事に追われていた。一段落して読書でもと思って手にした本を間違ってしまったようである。

あちこちのページを飛び石伝いに眺めてきて、次の『7 予想と推考散策』という章の冒頭を最後に本を閉じた。

7・1 蓋然性の離接
それをとおして読者がファーブラを顕在化するマクロ命題は、恣意的な決定に依拠するのではない。それらの命題は、テクストが担うファーブラをほとんど顕在化するはずなのだ。生産されたかぎりでのテクストに対するこの「忠実性」の保証は、経験的なテストをとおしても検証できる意味論的な諸規則によって与えられる。(……)

ファーブラがわからない。最後の「テスト」が正しいのかテクストの誤植かどうかすらわからない。ここに到って、声なき笑いが込み上げてきた。わからなさすぎると読者は、パニックに陥るのではなく、諦観するかのように笑う。ある程度読めるが一部だけわからない人は苦しむが、さっぱりわからずに読み続ける人は判読不能の快さを感じ始める。エーコの言う「テクストの悦楽」が生まれてくるのだ。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、読書の悦楽は増幅する。ぜひ試していただきたい。

語句の断章(38)第一印象

「人は第一印象がすべて」などと言う専門家がいる。しかも、まことしやかに心理学方面の根拠を並べる。主張する本人は自分が捉える印象の眼力については何も語らない。印象は、印象を与えている人の属性ではなく、印象を抱く側の感覚ではないのか。

きれいなサシの入った、いかにも高級な黒毛和牛のステーキ。「わ、とけそう。おいひ~」と、一口目で第一印象を評する。もう何度も食べてきて承知しているが、肉は最初の一口で決まる食材ではない。食事時間中、他の食材や酒との相性を通じて印象づけられるのだ。ちなみに、印象とは「見聞きしたり体験したりすることを受け止めて刻まれる感覚」である。

ある程度の時間経過を経て刻まれるべきものを、最初に接する数秒ほどの直観で片付けてしまうのが第一印象。第一打席でホームランを打ったバッターに即時にホームラン王の称号を与えるようなものだ。そのバッターがその後に3打席連続三振するのを見て、「早とちり」の愚かしさを知ることになる


第二印象や第三印象について書かれた一文を見たことがある。第一印象がよくて第二が悪く、しかし第三がよければすべてよし。他方、第一も第二もよかったが、第三で悪い印象を与えておしまい。しかし、三度と言わず、永いお付き合いをするつもりなら第X印象まで判断を先送りできる。オバケも第一印象は恐くても何度もお目にかかれば楽しくなるかもしれない。

昨今の広告は一瞬の「つかみ」に勝負をかけるようになった。見た目のデザインと配色、短いキャッチフレーズ、意表をつくビジュアル。コツコツと理詰めで説得せずに手を抜く。それでうまくいくことが多々あるから、広告主も制作者も第一印象づくりしか考えない。とりあえず結果オーライということになっている。

このような瞬間つかみや消費者の第一印象に期待し続けていくと、総合的な広告の質の向上は望めない。広告だけではない。何事においても瞬殺的なウケねらいのトークや写真も消耗品のように廃棄されていく。第一印象優先に勝ち組が多いが、生き急ぎしているような気がしてならない。

二項対立であぶり出される意味

あることばの意味を調べようとして辞書を引く。そのことばの見出しの下に語義が書かれている。読めばわかったような気になるが、実はことばは単独で意味を持っているわけではない。ことばは別のことばと対比されてはじめて意味を持つ。仮に二つのことばをABとするなら、〈AB〉という対義や対立の関係にしてみると意味が鮮明になってくる。

「長い」「多い」「高い」「表」「右」「開く」などは単独では何のことかわからない。「そんなことはない。わかってる」と反論されそうだが、「長い⇔短い」「多い⇔少ない」「高い⇔低い」「表⇔裏」「右⇔左」「開く⇔閉じる」などと、〈AB〉として対義させてきたから徐々に意味が明快になったのである。

ABは同時に成立しない。つまり、「AでなければBであり、BでなければAである」という対義語の関係にある。よく似た関係が〈二項対立〉だ。上記の長短、多少、高低、表裏、左右、開閉のような正反対の関係ではない。たとえば教師と生徒は同時に成立することもあるし、「教師でなければ生徒、生徒でなければ教師」ともかぎらない。こういう関係が二項対立。但し、対義語と二項対立のどちらにも顔を出すABもある。

誰が見ても二項が矛盾または対立している普遍的な二項対立もあれば、価値観によって敢えて二分化する特殊な二項対立もある。白の対義語は黒だが、赤も対義語だ。では、赤の対義語は白かと言えば、たしかにそうだが、黒もありうる。つまり、白と黒と赤は三つ巴の関係でもある。白⇔黒、黒⇔赤、赤⇔白の背後には固有の価値観が見え隠れする。

以前、人間の資質や性向を自分なりに二項対立の関係でとらえたことがある。定番的なものもあれば、強引な創作だが二項を見る視点を変えてくれたのもある。ここにリストアップしておく。

臆病 ⇔ 勇気
不安 ⇔ 自信
他力 ⇔ 自力
甘え ⇔ 責任
反応的 ⇔ 主体的
寡黙 ⇔ 多弁
儀礼的 ⇔ 親密的
見栄 ⇔ 潔さ
待つ ⇔ 動く
我 ⇔ 無我
怠惰 ⇔ 勤勉
遅疑 ⇔ 拙速
思いつき ⇔ 熟慮
一つの答え ⇔ 複数の問い
こだわり ⇔ 柔軟性
聞き流し ⇔ 傾聴
先送り ⇔ 即実行
鈍感 ⇔ 気づき
遠慮 ⇔ 踏み込み
タテマエ ⇔ ホンネ
分裂 ⇔ 統合
慌てる ⇔ 落ち着く
迷い ⇔ 決断
ポーズ ⇔ 自然体
情報依存 ⇔ 思考主導
蒙昧 ⇔ 教養
対立 ⇔ 対話
承認願望 ⇔ 批判受容
人の振り見る ⇔ 我が振り直す
自分世界 ⇔ 生活世界
一人称 ⇔ 二人称

サインプレートの”NO!”

オフィス近くのシーン。公道とマンションの境界をマンション側の敷地内に少し入ったところにサインプレートがある。言うまでもなく、散歩する犬に向けたものではなく、犬を散歩させる飼主に「ここで犬にトイレをさせるな」と注意を促している図である。

手作りだと思っていたが、ネットで売られていた。「ステーク付きの庭のサイン」という商品。ステークだから、地面に杭か支柱を打ち込んであるタイプ。キャッチコピーは「犬があなたの芝生の上でウンチやオシッコをするのを止めます」。犬が自発的に「止める」わけがないから、正しくは犬に「止めさせる」。

犬が今まさにウンチかオシッコをしようとしている瞬間がリアルだ。そこにNOの文字。しかも犬の背中にである。ところで、Noは質問や依頼に対しての否定の返事で、一般的には「いいえ」を意味する。しかし、NOと感嘆符を付けると強い主張が込められる。「絶対ダメ!」と言っているのである。

単発で発するNOには、場面に応じて「まさか!」とか「なんてこった!」などのニュアンスが出る。「まさか、こんな所でもよおすとは……ああ、なんてこった!」と、NOを背負った犬自身の思い? ダメだとわかっていても、つい習性が出てしまった? と読めなくはないが、考えすぎだろう。反対側にはNOの文字はない。つまり、公道側からやってくるよそ者の飼主へのメッセージなのだ。

ところで、ネットの商品説明の続きを読んでみた。「庭や庭で・・・・広く使用されています」(傍点ママ)とか「頑丈な・・・鋳鉄製で、頑丈・・です」(傍点ママ)と念には念を入れて繰り返しているのは、かなり商品に自信があるからか。ぎこちない日本語なので、どうやら日本製ではなさそうだ。「それは、犬と隣人がそのエリアが糞が禁止されているエリアであることを知るための微妙な方法を提供します」という一文で、中国製か近隣のアジアの国で作られたと確信した。

地面に立てられた小さなサインの類にはほとんど気づかずに通り過ぎる日々。NOという一言の小ネタで文章が書けた。サインプレートの効果のほどを知りたいが、誰に聞けばいいのか。

机上に置いている辞書

事務所にどれだけの辞書があるか。全部数えてこのブログで書いたことがある(『辞書、辞典、事典、百科……』)。約90冊だった。それが7年前。あっちの本棚、こっちの本棚とばらばらに置いてあったので、4年前に辞書類を一つの本箱にまとめた。

何とか全集というのをいろいろ揃えているが、未読のまま本棚に収まっているものが多いし手に取る機会も少ない。辞書も全集のように出番が少ない。全集や辞書は場所を取るのが難点。その不満を誰かにこぼしたら、電子辞書で済ませればいいと言われた。おいおい、あんなものでは調べた気にならないのだよ。おまけに、紙を繰ったり傍線を引いたりする楽しみもなくなる。と言うわけで、たまに使ってささやかに楽しむために辞書に少なからぬスペースを割いている次第。

席と辞書の本箱は離れているので、使用頻度が比較的高い56冊を机上に置いてある(写真は年明けからのラインアップ。英語の仕事が入ると、ここに英和辞典が加わる)。よく使うのが国語辞典。長らく使っていた『広辞苑』は本箱に入ったまま。数年前からは『新明解』一筋。自宅では第七版、オフィスでは第八版の青版を使っている。『コロケーション辞典』というのも机上組の一冊で、これは名詞と動詞の結びつきが調べられる活用辞典。動詞がなかなか思い浮かばない時に役に立つ。暇な時に当てもなく適当にページを繰って読むこともある。

ことわざと四字熟語の辞書は一種の読み物である。覚えてやろうなどとは思わない。何かを見たり聞いたりして、気になったら調べる。たとえばきれいな夕焼けを見た時に、さて夕焼けのことわざがあるかどうかチェックしたりする。先日コインケースを買い替えた折に、「財布」を引いてみた。財布をわざわざ辞書で調べるのは今回が初めてだ。

🏷 「財布の紐を握る」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
収支の管理をつかさどることを財布で象徴しているが、紐の握り手は主婦ということになっている。ところで、最近は握る紐が付いた財布は見かけないので、「財布のファスナーの開け閉めをする」とか「クレジットカードの暗証番号を夫に洩らさない」とでも言うか。

🏷 「財布と心の底は見せるな」(『世界の故事名言ことわざ』)
イタリアのことわざだ。人は中身が見えないもの、見づらいものを見たがる習性をもつ。その典型が財布と心の底だという。

🏷 「財布の底をはたく」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
有り金をすべて使ってしまうこと。新明解によれば、叩くとは「中に入っている物を全部外に出す」という意味。それなら、わざわざ財布の底を叩くと言わずに、「財布を叩く」と言えば済みそうだ。しかし、それではありきたりの成句で、値打ちがない。ことわざっぽくするなら、やっぱり「財布の底を叩く」なのである。